第6話
食事が運ばれてきたのは、夜もだいぶ更けてからだった。
扉を叩いたのは若い侍女で、名乗りもしない。盆を置く手つきは慣れていたが、主人に仕える柔らかさはなかった。
「失礼します」
「ありがとう」
礼を言っても、侍女は顔を上げない。
スープ、黒パン、薄く切った燻製肉。それに温めた葡萄酒が少し。量は足りている。けれど、客をもてなす食卓ではなく、必要だから出す食事だった。
「お湯を少しいただけるかしら」
「今夜は難しいかと」
「そう」
侍女は一拍も置かずに答えた。
「公爵様がお戻りの日は、皆そちらへ手が取られますので」
「……負傷者がいらしたものね」
「はい」
それだけ言って、侍女は一礼した。
「何かほかに」
「いいえ」
「では」
本当にそれで終わりだった。必要以上に冷たくはない。けれど、部屋の主として扱う気もない。
扉が閉まる。
エレノアはしばらく立ったまま、運ばれてきた盆を見下ろした。湯気はもう薄い。遅かったのだろう。それでも、冷えきってはいないだけましだ。
椅子へ座り、スープを口へ運ぶ。塩は強めで、脂も多い。寒い土地の味だった。
王都の屋敷では、食卓に出るものが多少冷めていても、侍女が慌てて取り替えに来た。ここでは違う。冷える前に食べるほうが先だ。誰かが気を利かせるより、まず体を保たせることのほうが大事なのだと、味が教えてくる。
葡萄酒を飲みながら、視線が部屋の隅へ向いた。
運び込まれた荷は半分だけだった。箱は二つ、衣装箪笥のそばへ置かれているが、もう一つの小箱が見当たらない。母の櫛と、走り書きの紙を隠した箱だ。
落ち着かないものが腹の底で動いた。
エレノアは立ち上がり、すぐに荷を確かめた。衣類の包みはある。実用品もある。だが、やはり小箱だけがない。
扉の外へ出ようとして、足が止まる。
今ここで騒いでも、探してくれるとは思えない。荷の仕分けもまだ終わっていないのだろう。迎え入れられていない花嫁が、着いたばかりで荷物一つに声を荒げれば、ただ面倒な女に見える。
喉の奥が少し乾いた。
探さなければならない。けれど、今はまだ。
エレノアは扉から手を離し、代わりに窓辺へ歩いた。
外はすでに真っ暗で、中庭の灯りが石畳を薄く照らしている。風は強くないが、窓枠の隙間から細い冷気が忍び込んでいた。指先で触れると、金具がかすかに緩んでいる。
呼べば誰かが直しに来るだろうか。
来ても、すぐには来ないだろう。
エレノアは食卓のそばにあった細紐を一本切り、窓金具へ巻きつけて留め直した。応急の処置にすぎないが、ないよりはいい。冷気の筋が少し弱まる。
その時、背後で小さな音がした。
見ると、寝台の上に置かれていた毛布が一枚だけ薄い。表地はしっかりしているが、中の綿が偏っているのか、片側だけ妙に軽かった。
嫌がらせとは思わない。ただ、客用のものをそのまま回したのだろう。ここではそれで足りると判断されたのだ。
エレノアは毛布をひろげ、綿の寄りを手で均した。子どもの頃から、そういうことばかりしてきた。使いにくいものを、少しでもましな形へ整えるのは、もう癖みたいなものだった。
整え終えてから、ふと手が止まる。
ここでも同じことをするのだろうか。
誰にも求められていないのに、使いづらいものを見つけては直し、足りないものを埋め、何も言われないまま一日を終える。
喉の奥が重くなった。
食事を半分ほど終えたところで、再び扉が叩かれる。
今度はさきほどの侍女ではなく、アグネスだった。
「お休み前に、不足がないかだけ確認に参りました」
「ちょうどよかったわ。小さな箱が一つ、まだ届いていないようなのだけれど」
「確認いたします」
答えは早い。だが、声に温度はない。
アグネスは部屋を一目で見渡した。窓の金具に巻かれた紐にも、整え直した毛布にも目を留める。
「誰か呼べばよろしかったのに」
「忙しそうだったもの」
「……そうですか」
それだけで、褒めも咎めもしない。
エレノアは机の脇へ視線を落とした。
「けがをされた方は」
「医師が診ています」
「熱と痛みが急に上がるようなら、布を変える間を短くしたほうが」
「奥方様」
アグネスの声が、ごくかすかに硬くなった。
「こちらにはこちらのやり方がございます」
「ええ、分かっているわ」
「分かっておいでなら、今夜はお休みください」
拒まれたのではなく、線を引かれた。そう分かる言い方だった。
あなたの役目ではない。
口を出す場所でもない。
王都の屋敷で何度も感じたものと似ているのに、少し違う。ここでは感情より先に、現場を守るために締め出されている。
エレノアは小さく頷いた。
「失礼しました」
「いえ」
アグネスは一歩引き、改めて礼をする。
「北辺では、無理をなさる方から先に倒れます。奥方様がどういうお方か、まだ皆、分かっておりません」
「……そうでしょうね」
「ですから、まずは休んでください」
それは忠告だったのか、牽制だったのか、どちらとも取れる声だった。
アグネスが去ったあと、部屋はまた静かになった。
エレノアは食事を終え、運ばれてきた水で手を拭う。湯ではない。冷たくもないが、ぬるいとも言えない半端な温度だった。
寝台へ入っても、すぐには眠れなかった。
遠くで足音が続いている。戸の開閉、短い指示の声、薪を運ぶような重い音。あの負傷兵のためだろう。それだけではない。この屋敷そのものが、夜のうちにも動き続けている。
じっとしていると、自分だけがその流れの外に置かれているのが分かる。
歓迎されていない。
けれど、ただ嫌われているわけでもない。
まだ何も示していない外から来た奥方に、無駄な手を割く気がないだけだ。王都でなら、これは冷遇と呼ばれるのかもしれない。けれどここでは、たぶん違う。北辺では、使えるものから使うのだ。
そのことを頭で理解しようとすると、少し息が楽になる。
ふと、リネットの顔が浮かんだ。
どうか、ご無事で。
あの時の声が耳に残っている。目を閉じても、玄関前の冷たい朝と、振り返らなかった自分の背が消えない。
エレノアは毛布を喉元まで引き上げた。
部屋は暖かいはずなのに、喉元の冷えだけがなかなか退かなかった。
夜半を過ぎた頃、また扉の外で足音がした。
今度は止まらない。重い足音が扉の前を過ぎていく。
その一つが、なぜか分かる。
返り血のついたまま兵のそばへ膝をついた男の足音なのだと、なぜか分かった。
耳を澄ませていたことに気づき、エレノアは目を開けた。
馬鹿みたいだ。
噂ばかりの夫。挨拶もろくに交わしていない。興味を持たれる理由もない相手だ。なのに、あの薄い色の目と、血のついた袖だけが妙に記憶へ残っている。
目を閉じる。
明日になれば、正式に言葉を交わすことになるのだろうか。
ならなくても、不思議ではない気もした。
そんなことを考えているうちに、ようやく浅い眠りが落ちてきた。




