第5話
門をくぐった途端、空気が変わった。
寒さだけではない。石壁に囲まれた中庭には余計な音が少なく、人の動きが速い。桶を運ぶ下働きも、薪を抱えた男も、ただ忙しいのではなく、手を止めないことに慣れている足取りだった。
馬車の戸が閉まる音に、数人がこちらを見た。
すぐに視線は下がる。けれど歓迎の色はない。
正面の階段を下りてきたのは、白髪の老家令だった。背筋は伸びているが、年のせいか歩みはかすかに遅い。その半歩後ろに、三十に届くかどうかという若い男がいる。濃紺の上着をきっちり着こなし、目だけが冷えていた。
「ようこそ、ノルデンフェルト公爵邸へ」
老家令が一礼する。
「家令でございます。ご到着をお待ちしておりました」
「エレノア・アシュベリーです。本日より、お世話になります」
老家令は礼を返したが、表情は動かない。
隣の若い男が一歩進み出た。
「副家令のオズウィンと申します」
声は整っている。礼も正しい。だが、その正しさの中に、通すべき手順として受け入れているだけの平たさがあった。
さらに後ろから、年嵩の女が出てくる。濃い色の衣服に無駄のない身のこなし。視線が一度、エレノアの荷へ落ち、それからすぐ顔へ戻った。
「女中頭のアグネスでございます」
名乗りはそこで終わった。
寒いですね、でも、遠路お疲れでしょう、でもない。必要な言葉だけを置いて、相手の反応を待たない。ここではそれで足りるのだろう。
エレノアは手袋の上から指先を押さえた。
「公爵様にご挨拶を」
口にしたところで、中庭の空気がざわりと動いた。
門の外から馬のいななきが響く。続いて荒い蹄の音。下働きの一人が駆け出し、オズウィンが鋭く振り向いた。
「門を開けろ」
「はい!」
誰かが叫ぶ。開いた門から、騎馬が三騎、ほとんど雪を払うような勢いで入ってきた。
先頭の黒馬が荒く息を吐く。その背から男が飛び降りた。
高い。厚い外套を着ているのに分かるほど、肩も背も大きい。だが最初に目についたのは、その男の右袖と手袋にべっとりとついた赤だった。
返り血だった。
外套の裾にも飛んでいる。濡れたような色ではない。冷えかけた血が、暗く乾き始めている。
思わず足が止まる。
その男は振り返りもせず、すぐ後ろの騎手に向かって言った。
「医師は」
「呼びにやっております」
「遅い。暖炉室を空けろ。廊下を通すな、冷える」
低い声だった。大きくはないのに、よく通る。
二騎目から若い兵がずり落ちるように降ろされ、周囲が一気に動き出した。兵の脇腹にも血が滲んでいる。アグネスが即座に女中へ指示を飛ばし、下働きが戸を押さえる。老家令も杖もつかずに前へ出た。
その只中で、男だけがぶれない。
血のついた手で兵の肩を支え、短く命じる。
「布は厚いものを。湯は熱すぎるな」
「承知しました」
誰も逆らわない。急いではいるのに、慌ててはいない。彼が言う順に、人が動いていく。
北辺公爵。
そう悟るのに時間はかからなかった。
王都で聞いた噂より若い。けれど、それを認識した途端、そんなことはどうでもよくなる。年齢より先に目に入るのは、冷えた刃のような圧だった。
兵が屋敷へ運び込まれる。その時、布の端から覗いた傷口を見て、エレノアの喉の奥がひりついた。深い。だが、押さえ方が悪い。このまま暖炉の近くへ急に入れれば、痛みで暴れるかもしれない。
「待ってください」
気づけば、声が出ていた。
動いていた人の気配が、一瞬だけ止まる。
公爵が初めてこちらを見た。
薄い色の目だった。冷たいだけではない。余計なものをそぎ落としたあとの色に近い。視線だけで、人を試すような鋭さがある。
エレノアは喉の渇きを飲み込んだ。
「いきなり熱に当てるより、まず布を替えて、押さえる位置を」
「奥方様」
アグネスの声がかぶさる。
抑えた声音だったが、はっきり止める音だった。
「お下がりください」
「ですが」
「お下がりを」
その時にはもう、兵は中へ運ばれていた。公爵も踵を返しかける。
エレノアは唇を結んだ。
出過ぎたのだと分かる。着いたばかりの南の女が、血まみれの兵を前に口を出した。どう見えるかくらい、分からないほど鈍くはない。
それでも黙っていられなかったのは、癖だ。
困っているものが目に入ると、手順より先に何が要るかを考えてしまう。
公爵は二歩進んだところで足を止めた。
振り返ったのではない。少し顔をこちらへ向ける。
「……お前が」
それだけ言って、視線がエレノアの顔に定まる。
王都から来た花嫁を確認する目だった。驚きも、興味もない。ただ、届いた荷の中身を確かめるような短さ。
老家令がすぐに言う。
「本日ご到着の、奥方様にございます」
「そうか」
短い返答のあと、公爵は血のついた手袋を外した。内側まで染みた赤が見えて、思わず息を止める。怪我をしているのは兵だけではないのかもしれない。けれど本人は気にも留めていない。
「休ませろ」
「は」
「今日はもういい」
誰に向けた言葉か、一拍遅れて分かる。
自分にだ。
挨拶も名乗りも、それで終わりだった。
公爵はそのまま中へ入っていく。すれ違いざま、鉄と血と外気の匂いがした。香油も酒も混じらない、ひどく乾いた匂いだった。
エレノアは動けないまま、その背を見送る。
血塗れ公爵。
王都の噂が、形を持って目の前を通り過ぎた。
だが噂と少し違ったのは、その血が自分を飾るためのものではなさそうだったことだ。彼の周りの人間は、怯えてはいても浮き足立っていない。血に慣れている顔ではない。この男が血のそばでいつも指示を出していると、皆が知っている顔だった。
「奥方様」
アグネスが改めて呼ぶ。
今度はさきほどよりも温度が低い。
「お部屋へご案内いたします」
「……はい」
歩き出そうとしたところで、オズウィンが荷馬車の方へ目をやった。
「お荷物は先に運ばせます。必要なものは後ほどお申し付けください」
「ありがとう」
「ご不便があれば、こちらの流儀に慣れていただくのが早いかと」
言い方は丁寧だった。
けれど、それは親切ではない。先に断っているのだ。ここで合わせるのはそちらだ、と。
エレノアは何も返さなかった。
階段を上がる途中、下の広間が少し見えた。運び込まれた兵のために、敷かれる布、走る足、湯を運ぶ下働き。アグネスの指示は無駄がなく、皆よく動いている。
一人だけ、あの公爵の背が群れの中でもはっきり見えた。
血のついた袖のまま、誰より先に傷のそばへ膝をついていた。
見慣れぬ土地の寒さよりも、その光景のほうが妙に胸に残る。
けれど次の瞬間には、オズウィンの平たい声が耳に落ちた。
「奥方様のお部屋は東棟です」
東棟。
本邸の中心から少し外れた場所だと、歩きながら分かった。暖炉の熱も、人の気配も、主の動く場所から一枚遠い。
花嫁の部屋ではない。丁寧に置かれた客の部屋だった。
扉の前でアグネスが立ち止まる。
「今夜はお疲れでしょう。食事はお部屋へお持ちします」
「公爵様へは、改めて」
「必要があれば、お呼びがございます」
必要があれば。
その四文字が、石のように重かった。
エレノアは部屋へ入る。火は入っている。寝台も整っている。だがそれだけだ。どこにも、主を迎えるためのぬくもりはない。
公爵の返り血の色が、まだ目に残っていた。
ここへ来ても、簡単には息はつけないらしい。




