第4話
出立の朝、空は薄く曇っていた。
まだ雪の気配はない。けれど風は冷たく、庭の土は夜のあいだに白く乾いていた。北へ向かうには遅いくらいの時季だと、屋敷の者たちが囁いているのを、エレノアは聞こえないふりで通り過ぎた。
荷は多くない。
ドレスも装身具も、侯爵家の長女が嫁ぐにしては驚くほど少なかった。継母は「北は社交より実用でしょう」と笑っていたが、選別されたのだと分からないほど鈍くはない。けれど、抗う気力はもう残っていなかった。
机の引き出しから小さな箱を取り出す。
底に忍ばせた走り書きの紙は、そのままだった。北向け物資の品目と数字。帳場で見た綻びの欠片。
それを衣類の下へ滑り込ませ、ふたを閉じる。
「お嬢様」
背後で声がして、振り向く。
リネットが立っていた。目の下が少し赤い。昨夜、あまり眠らなかったのだろう。
「馬車の支度が整ったそうです」
「そう」
言いながら、手が止まる。
この子は、どこまでついて来られるのだろう。昨夜から、そのことを考えないようにしていた。考えて、駄目だった時の顔を見たくなかった。
リネットも同じだったのかもしれない。いつもより口数が少ない。
エレノアは櫛を一つ、包みの中へ入れた。飾り気のない古い櫛だ。母の遺した品の中で、いちばん人目につかないものだった。
「行きましょうか」
そう言った時、リネットがかすかに唇を噛んだ。
「……お嬢様」
「なに」
「もし、向こうでお困りのことがあれば、きっと」
「リネット」
続きを止めると、彼女はうつむいた。
きっと、などないのだ。
連れて行けるなら、昨夜のうちに誰かがそう言っていた。父も継母も、そんな配慮は見せなかった。前の奥方の縁で来た侍女見習いを、北辺公爵家へ持ち込ませるはずがない。
それでも部屋を出るまで、何も言わないでいた。
言葉にしたら、本当になる。
玄関前にはすでに馬車が待っていた。護衛が四人、御者が二人、荷馬車が一台。花嫁の輿入れにしては控えめすぎる人数だったが、父は見送りに出ていない。継母とローザリアだけが、外套を羽織って立っていた。
「まあ、エレノア。寒いでしょう」
継母はいつものやわらかい声で言った。
「北はもっと冷えるのでしょうね。道中、体を悪くしないようになさい」
「ありがとうございます」
礼だけを返す。
ローザリアは目を潤ませた顔を作っていた。
「お姉様、お手紙くださる?」
「余裕があれば」
「やだ、そんな言い方」
くすくす笑う声は、どこか浮いていた。寂しがる妹を演じたいのか、本当にそう思っているのか、もうよく分からない。
継母の視線が、エレノアの後ろへ向く。
「リネット。あなたはここまででいいわ」
「……え」
小さな声が漏れる。
リネットは一歩、二歩、前へ出た。
「奥様、私はお嬢様のお支度を」
「北辺公爵家へお出しする花嫁に、前の奥方の名残を持たせる必要はありません」
継母は笑っていた。笑っているのに、声はよく切れた。
「あなたの役目はもう終わりよ」
「ですが」
「聞こえなかったかしら」
その一言で、場が静まる。
護衛も御者も、顔を上げない。こういう時に誰も助けないことを、エレノアは知っている。
リネットはぎゅっと拳を握った。言い返したいのだろう。けれど言えば、ここで終わるのは自分だけでは済まない。
エレノアは振り返った。
「リネット」
「お嬢様、私は」
「ここまででいいわ」
自分でも驚くほど静かな声が出た。
リネットの顔が歪む。
「いやです」
「だめ」
「せめて途中まででも」
「だめよ」
強く言うと、彼女ははっと息を詰めた。
言い方を間違えた。そう気づいた時には、もう遅い。優しくしたら、この子はたぶん本当に馬車へしがみつく。
エレノアは手を伸ばし、リネットの袖をそっと整えた。
「元気でいて」
「お嬢様……」
「風邪をひかないように。食事も、抜かないで」
「そんなの、私は」
最後まで言えず、リネットは唇を噛んだ。
泣き顔を見たくなかった。見たら、たぶん自分も揺れる。
エレノアは手を離し、そのまま馬車へ向かった。
後ろでローザリアが「お姉様」と呼ぶ声がしたが、振り返らない。継母の衣擦れの音も、御者が戸を開ける音も、やけに遠く聞こえた。
馬車へ乗り込む直前、ようやく小さな声が届く。
「どうか、ご無事で」
リネットだった。
エレノアは振り返らなかった。
振り返れば、この家でたった一人、自分を見てくれた子を置いていく顔をしなくてはならない。
戸が閉まる。外の空気が遮られ、車輪が軋んだ。
屋敷がゆっくり遠ざかる。
誰も追ってこない。
膝の上で手を重ねる。冷たい。けれど震えてはいなかった。
見送られたのではない。出されたのだ。
その事実だけが、ひどく静かだった。
王都近郊の景色は、最初の二日ほどで見慣れたものから変わっていった。広い畑、低い丘、宿場町。南ではまだ秋の名残があったが、北へ進むごとに木々の葉は減り、風は乾いていく。
三日目の夕刻、宿の女将が火を足しながら言った。
「北へ? この時季にまあ」
「何か」
「いえね。主街道の先はまだ通れるけど、最後の方は急に冷えますよ。冬支度を誤ると、あっという間ですから」
脅すつもりではないのだろう。ただの事実として言っている。
翌日から、馬車の窓越しに見える景色が変わった。街が減り、行き交う荷馬車に毛皮が増え、馬の息が白くなる。停まる宿でも、出される湯の温度が少しずつ高くなった。
エレノアは道中、帳面の代わりに荷札や積み荷の包み方を見るようになっていた。北へ向かう商人の車には、油布の巻き方ひとつにも癖がある。紐が二重で、雪を払いやすい結び方をしている。干し肉の包みも厚い。
生きるための工夫が、もう目に見える。
王都では飾りだった知恵が、ここではそのまま体温になるのだと分かった。
八日目に、大きな街へ入った。北辺公爵領の主要都市だと、護衛の一人が教えた。石造りの建物が多く、空気が鋭い。市の声は活気があるのに、どこか忙しない。道の端には割った薪が高く積まれ、行商人が布より先に燃料の値を口にする。
公爵本邸までは、ここからさらに数日。
その道のりは、日を追うごとに体へこたえた。
街を離れると道は細くなり、馬車の揺れが急に荒くなる。風を遮るものも減り、昼でも窓の隙間から冷気が忍び込んだ。護衛たちの会話も少なくなる。休憩のたびに馬具の状態を念入りに見ているのが、素人目にも分かった。
十一日目の朝、外がやけに静かで目が覚めた。
窓を少し開けると、冷気が頬を刺す。道の脇に、白いものが薄く残っていた。雪だ。
まだ積もるほどではない。けれど、初雪というだけで世界の色が変わる。
「お嬢様、窓を閉めてください」
向かいの席にいた年嵩の侍女が、ぎょっとした顔で言った。王都から途中で合流した、公爵家側の手配らしい女だ。必要なことしか話さない。
エレノアは素直に窓を閉めた。
「もう降るのですね」
「このあたりでは珍しくありません」
「早いのね」
「早いから困るのです」
それだけ言って、女は黙った。
昼過ぎ、馬車が大きく揺れて止まる。何事かと思って戸が開くと、護衛の一人が短く告げた。
「車輪を見ます。少しお待ちを」
「分かりました」
外へ降りると、空気が痛いほど冷たかった。風が吹くたび、外套の裾が煽られる。道の先は緩やかな坂になっていて、その向こうに黒々とした森が見えた。
護衛たちは手際よく馬車の周りを動いている。無駄口はない。御者も、ただ手をこすって待つのではなく、馬の脚を見ていた。
北辺は寒い土地だと思っていた。
それだけではなかった。
皆、寒さを前提に動いている。止まることひとつ、荷を積むことひとつが、そのまま命に関わる土地なのだと、体より先に空気が教えてくる。
「奥方様」
公爵家側の侍女が呼ぶ。最初からそう呼ばれてはいたが、そこに敬意はない。ただ呼称として使っているだけの平たい声だ。
「風が強くなります。中へ」
エレノアは頷き、馬車へ戻った。
夕刻が近づいた頃、ようやく本邸が見えた。
高い石壁と、灰色の屋根。華やかさとは縁のない、重く静かな館だった。雪の残る空の下で見ると、まるで山の一部のように動かない。
門前には人が並んでいたが、誰も明るい顔をしていない。花嫁を迎える空気ではなかった。見定めるような、冷えた視線だけがある。
馬車の中で、エレノアはそっと息を吸った。
ここでも歓迎はされない。
それでも、この冷たさは王都のあの家とは違っていた。嫌われているのではない。値踏みされている。役に立つかどうかを見られている目だ。
戸が開く。
風が吹き込み、薄く積もった雪の匂いがした。
「奥方様、どうぞ」
差し出された手はない。
エレノアは自分で裾を持ち上げ、馬車の踏み台へ足をかけた。
北辺の空気は、肌を薄く切るように鋭かった。




