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婚約者も功績も妹に奪われた私は、死ぬと噂の北辺公爵に嫁ぐことになりました 〜愛のない結婚のはずが、冷酷な夫は私を手放してくれない〜  作者: 師走
第2章 血塗れ公爵の花嫁

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第4話

出立の朝、空は薄く曇っていた。


まだ雪の気配はない。けれど風は冷たく、庭の土は夜のあいだに白く乾いていた。北へ向かうには遅いくらいの時季だと、屋敷の者たちが囁いているのを、エレノアは聞こえないふりで通り過ぎた。


荷は多くない。


ドレスも装身具も、侯爵家の長女が嫁ぐにしては驚くほど少なかった。継母は「北は社交より実用でしょう」と笑っていたが、選別されたのだと分からないほど鈍くはない。けれど、抗う気力はもう残っていなかった。


机の引き出しから小さな箱を取り出す。


底に忍ばせた走り書きの紙は、そのままだった。北向け物資の品目と数字。帳場で見た綻びの欠片。


それを衣類の下へ滑り込ませ、ふたを閉じる。


「お嬢様」


背後で声がして、振り向く。


リネットが立っていた。目の下が少し赤い。昨夜、あまり眠らなかったのだろう。


「馬車の支度が整ったそうです」

「そう」


言いながら、手が止まる。


この子は、どこまでついて来られるのだろう。昨夜から、そのことを考えないようにしていた。考えて、駄目だった時の顔を見たくなかった。


リネットも同じだったのかもしれない。いつもより口数が少ない。


エレノアは櫛を一つ、包みの中へ入れた。飾り気のない古い櫛だ。母の遺した品の中で、いちばん人目につかないものだった。


「行きましょうか」


そう言った時、リネットがかすかに唇を噛んだ。


「……お嬢様」

「なに」

「もし、向こうでお困りのことがあれば、きっと」

「リネット」


続きを止めると、彼女はうつむいた。


きっと、などないのだ。


連れて行けるなら、昨夜のうちに誰かがそう言っていた。父も継母も、そんな配慮は見せなかった。前の奥方の縁で来た侍女見習いを、北辺公爵家へ持ち込ませるはずがない。


それでも部屋を出るまで、何も言わないでいた。


言葉にしたら、本当になる。


玄関前にはすでに馬車が待っていた。護衛が四人、御者が二人、荷馬車が一台。花嫁の輿入れにしては控えめすぎる人数だったが、父は見送りに出ていない。継母とローザリアだけが、外套を羽織って立っていた。


「まあ、エレノア。寒いでしょう」


継母はいつものやわらかい声で言った。


「北はもっと冷えるのでしょうね。道中、体を悪くしないようになさい」

「ありがとうございます」


礼だけを返す。


ローザリアは目を潤ませた顔を作っていた。


「お姉様、お手紙くださる?」

「余裕があれば」

「やだ、そんな言い方」


くすくす笑う声は、どこか浮いていた。寂しがる妹を演じたいのか、本当にそう思っているのか、もうよく分からない。


継母の視線が、エレノアの後ろへ向く。


「リネット。あなたはここまででいいわ」

「……え」


小さな声が漏れる。


リネットは一歩、二歩、前へ出た。


「奥様、私はお嬢様のお支度を」

「北辺公爵家へお出しする花嫁に、前の奥方の名残を持たせる必要はありません」


継母は笑っていた。笑っているのに、声はよく切れた。


「あなたの役目はもう終わりよ」

「ですが」

「聞こえなかったかしら」


その一言で、場が静まる。


護衛も御者も、顔を上げない。こういう時に誰も助けないことを、エレノアは知っている。


リネットはぎゅっと拳を握った。言い返したいのだろう。けれど言えば、ここで終わるのは自分だけでは済まない。


エレノアは振り返った。


「リネット」

「お嬢様、私は」

「ここまででいいわ」


自分でも驚くほど静かな声が出た。


リネットの顔が歪む。


「いやです」

「だめ」

「せめて途中まででも」

「だめよ」


強く言うと、彼女ははっと息を詰めた。


言い方を間違えた。そう気づいた時には、もう遅い。優しくしたら、この子はたぶん本当に馬車へしがみつく。


エレノアは手を伸ばし、リネットの袖をそっと整えた。


「元気でいて」

「お嬢様……」

「風邪をひかないように。食事も、抜かないで」

「そんなの、私は」


最後まで言えず、リネットは唇を噛んだ。


泣き顔を見たくなかった。見たら、たぶん自分も揺れる。


エレノアは手を離し、そのまま馬車へ向かった。


後ろでローザリアが「お姉様」と呼ぶ声がしたが、振り返らない。継母の衣擦れの音も、御者が戸を開ける音も、やけに遠く聞こえた。


馬車へ乗り込む直前、ようやく小さな声が届く。


「どうか、ご無事で」


リネットだった。


エレノアは振り返らなかった。


振り返れば、この家でたった一人、自分を見てくれた子を置いていく顔をしなくてはならない。


戸が閉まる。外の空気が遮られ、車輪が軋んだ。


屋敷がゆっくり遠ざかる。


誰も追ってこない。


膝の上で手を重ねる。冷たい。けれど震えてはいなかった。


見送られたのではない。出されたのだ。


その事実だけが、ひどく静かだった。


王都近郊の景色は、最初の二日ほどで見慣れたものから変わっていった。広い畑、低い丘、宿場町。南ではまだ秋の名残があったが、北へ進むごとに木々の葉は減り、風は乾いていく。


三日目の夕刻、宿の女将が火を足しながら言った。


「北へ? この時季にまあ」

「何か」

「いえね。主街道の先はまだ通れるけど、最後の方は急に冷えますよ。冬支度を誤ると、あっという間ですから」


脅すつもりではないのだろう。ただの事実として言っている。


翌日から、馬車の窓越しに見える景色が変わった。街が減り、行き交う荷馬車に毛皮が増え、馬の息が白くなる。停まる宿でも、出される湯の温度が少しずつ高くなった。


エレノアは道中、帳面の代わりに荷札や積み荷の包み方を見るようになっていた。北へ向かう商人の車には、油布の巻き方ひとつにも癖がある。紐が二重で、雪を払いやすい結び方をしている。干し肉の包みも厚い。


生きるための工夫が、もう目に見える。


王都では飾りだった知恵が、ここではそのまま体温になるのだと分かった。


八日目に、大きな街へ入った。北辺公爵領の主要都市だと、護衛の一人が教えた。石造りの建物が多く、空気が鋭い。市の声は活気があるのに、どこか忙しない。道の端には割った薪が高く積まれ、行商人が布より先に燃料の値を口にする。


公爵本邸までは、ここからさらに数日。


その道のりは、日を追うごとに体へこたえた。


街を離れると道は細くなり、馬車の揺れが急に荒くなる。風を遮るものも減り、昼でも窓の隙間から冷気が忍び込んだ。護衛たちの会話も少なくなる。休憩のたびに馬具の状態を念入りに見ているのが、素人目にも分かった。


十一日目の朝、外がやけに静かで目が覚めた。


窓を少し開けると、冷気が頬を刺す。道の脇に、白いものが薄く残っていた。雪だ。


まだ積もるほどではない。けれど、初雪というだけで世界の色が変わる。


「お嬢様、窓を閉めてください」


向かいの席にいた年嵩の侍女が、ぎょっとした顔で言った。王都から途中で合流した、公爵家側の手配らしい女だ。必要なことしか話さない。


エレノアは素直に窓を閉めた。


「もう降るのですね」

「このあたりでは珍しくありません」

「早いのね」

「早いから困るのです」


それだけ言って、女は黙った。


昼過ぎ、馬車が大きく揺れて止まる。何事かと思って戸が開くと、護衛の一人が短く告げた。


「車輪を見ます。少しお待ちを」

「分かりました」


外へ降りると、空気が痛いほど冷たかった。風が吹くたび、外套の裾が煽られる。道の先は緩やかな坂になっていて、その向こうに黒々とした森が見えた。


護衛たちは手際よく馬車の周りを動いている。無駄口はない。御者も、ただ手をこすって待つのではなく、馬の脚を見ていた。


北辺は寒い土地だと思っていた。


それだけではなかった。


皆、寒さを前提に動いている。止まることひとつ、荷を積むことひとつが、そのまま命に関わる土地なのだと、体より先に空気が教えてくる。


「奥方様」


公爵家側の侍女が呼ぶ。最初からそう呼ばれてはいたが、そこに敬意はない。ただ呼称として使っているだけの平たい声だ。


「風が強くなります。中へ」


エレノアは頷き、馬車へ戻った。


夕刻が近づいた頃、ようやく本邸が見えた。


高い石壁と、灰色の屋根。華やかさとは縁のない、重く静かな館だった。雪の残る空の下で見ると、まるで山の一部のように動かない。


門前には人が並んでいたが、誰も明るい顔をしていない。花嫁を迎える空気ではなかった。見定めるような、冷えた視線だけがある。


馬車の中で、エレノアはそっと息を吸った。


ここでも歓迎はされない。


それでも、この冷たさは王都のあの家とは違っていた。嫌われているのではない。値踏みされている。役に立つかどうかを見られている目だ。


戸が開く。


風が吹き込み、薄く積もった雪の匂いがした。


「奥方様、どうぞ」


差し出された手はない。


エレノアは自分で裾を持ち上げ、馬車の踏み台へ足をかけた。


北辺の空気は、肌を薄く切るように鋭かった。

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