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婚約者も功績も妹に奪われた私は、死ぬと噂の北辺公爵に嫁ぐことになりました 〜愛のない結婚のはずが、冷酷な夫は私を手放してくれない〜  作者: 師走
第1章 選ばれたのは妹でした

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第3話

夕食のあと、呼ばれたのは小広間だった。


食堂でも客間でもない。家族だけで使う部屋だ。壁際の燭台にはもう火が入っていて、厚い絨毯が足音を吸っている。その静けさが、妙に息苦しかった。


扉を叩くと、すぐに父の声がした。


「入れ」


中には父のほかに、継母とローザリアもいた。


それを見た瞬間、腹の底が重く沈んだ。帳場の件を叱るだけなら、こんな顔ぶれにはならない。もう決めた話を聞かせるつもりなのだ。


継母がいつもの笑みを浮かべる。


「座りなさいな、エレノア」


勧められた席は、ローザリアの向かいだった。父からは少し離れている。


エレノアは腰を下ろした。膝の上で組んだ指先だけが冷たい。


父は机の上の書状に目を落とし、それから娘を見た。


「今日の振る舞いについて、言うことはあるか」


帳場のことだ。


けれど、謝って済む話ではない。見たものを見ていないとは言えなかった。


「ございません」

「そうか」


父の声は平坦だった。


「なら、こちらの話をする」


継母が膝の上で扇を閉じる。ローザリアは少し背を固くしていたが、怯えではない。何かを待っている顔だった。


父はまず妹を見た。


「フェアクロフト家との話は、ローザリアで進める」

「……はい、お父様」


弾んだ返事だった。頬もかすかに紅潮している。


昼の茶会で、もう分かっていたことだ。あの場の空気だけで十分だった。


父の視線がエレノアへ移る。


「お前の婚約は白紙に戻す」

「承知しております」


自分でも驚くほど静かな声が出た。


継母が、いかにも気遣うふうに口を開く。


「エレノア、あなたも分かっているでしょう? 婚約というのは気持ちだけではなく、釣り合いも大事なのよ。フェアクロフト卿は、ああいう明るい子のほうが」

「お義母様」


声が低く落ちた。


継母が小さく目を見開く。けれど笑みは崩さない。


「何かしら」

「もう結構です」


部屋の空気が、ぴんと張った。


ローザリアが気まずそうに視線を落とす。けれど本気で悪いと思っている顔ではなかった。姉はいずれ分かってくれると、まだどこかで信じている目だ。


父は二人の間を断つように、書状を手に取った。


「お前の行き先は別に決まった」

「行き先、ですか」

「ノルデンフェルト公爵家だ」


一瞬、燭台の火が遠のいた。


北辺公爵。


王都では、名前より噂のほうが先に立つ。血塗れ、公の場に出ない、冷酷で、人を寄せつけない。顔も年齢もはっきり知られず、戦場の話ばかりが独り歩きしている男。


継母がやわらかく言う。


「北辺公爵家から花嫁の打診があったの。断る理由はないでしょう。むしろ、お前には過ぎた縁かもしれないわね」

「私に、ですか」


問い返すと、継母は扇で口元を隠した。


「ローザリアはもう話が進んでいますもの。家としては、ちょうどよかったのよ」


ちょうどよかった。


その軽さに、膝の上の指がきつく重なる。


父が続けた。


「公爵家は花嫁を求めている。お前は近く王都を発つ」

「なぜ私なのか、お聞きしても」

「侯爵家の長女だからだ」

「それだけですか」

「それで足りる」


エレノアは父を見た。


「北辺は、冬支度を誤れば人が死ぬ土地だと聞いております」

「そうだ」

「それでも、今すぐ?」

「今だからだ」


間を置かない返答だった。


昼の帳場が脳裏をよぎる。北へ送る荷の数字。父の態度。握り潰された進言。そして、その日のうちに決まる北辺への輿入れ。


出来すぎていた。


エレノアは手を重ねたまま、声だけをまっすぐ保つ。


「……私が見た帳簿のことと、関係がおありですか」


継母の目が、かすかに揺れた。ローザリアは意味が分からないまま姉と父を見比べている。


父だけが動かない。


「お前は考えなくていいことを考えすぎる」

「否定はなさらないのですね」

「必要ない」


みぞおちが、鈍く縮んだ。


継母が諭すように口を挟む。


「エレノア。女の身で、家の取引や帳場にまで口を出せば、周りも困るでしょう」

「困るのは、北へ渡る物資が足りないほうです」

「また、そうやって」


継母は小さく息をついた。


「婚約のことがあったばかりでしょう。意地を張ってはだめよ」

「意地ではありません」

「そう見えてしまうの」


昼に父から向けられたのと同じ言葉だった。


そう片づけてしまえば終わる。

婚約を奪われた長女が騒いでいる、それで。


ローザリアが、おずおずと口を開く。


「お姉様、公爵夫人なんて、すごいことだわ」

「……そうね」

「北辺は遠いけれど、きっと立派なお屋敷でしょうし」


悪意はない。

ないからこそ、遠かった。


父が書状を机に置いた。


「この話は覆らん」

「……」

「婚約の件も、北辺への輿入れも、家のためだ」


家のため。


その一言で、すとんと落ちた。


婚約を妹に渡したことも。

帳場から遠ざけたことも。

今夜ここで北へやると決めたことも。


最初から、ひとつだったのだ。


「お返事を」


促されて、エレノアは顔を上げた。


拒んだところで婚約は戻らない。帳場に近づくことも、もう難しい。父は初めから、自分を切り離すつもりで動いていた。


ならば、ここで縋る顔だけは見せたくなかった。


「承知いたしました」


継母が目に見えて息をつく。ローザリアもほっとしたように肩の力を抜いた。


父だけが無表情のまま頷く。


「物分かりがよくて助かる」

「……ええ」

「お前もアシュベリーの娘なら、最後くらい役に立て」


最後、という言葉だけが耳に残った。


エレノアは立ち上がる。


「失礼いたします」


誰も引き留めない。


扉に手をかけた時、背後で継母が言った。


「支度は急がせるわ。北は寒いのでしょう? 丈夫なお前でよかった」


振り向かなかった。


廊下へ出た途端、喉の奥に詰まっていた息がほどける。体は、熱くなるより先に冷えきっていた。


部屋へ戻ると、リネットが待っていた。


顔を見た瞬間、立ち上がる。


「お嬢様」

「北辺へ嫁ぐことになったわ」


リネットの顔色が変わった。


「そんな」

「ノルデンフェルト公爵家ですって」

「どうして……」

「都合がいいのよ」


口にした途端、喉の奥がひりついた。


エレノアは机の前に座り、引き出しから昼の走り書きを取り出した。帳場で全部を持ち出すことはできなかったが、違和感のあった品目と数だけは書き留めてある。


防寒油布。濃縮飼料。薬品原料。


北へ送るには、どれも欠かせないものばかりだった。


「お嬢様、それは」

「捨てないでおくわ」

「危ないです」

「分かってる」


持っているだけで危うい。

それでも、手放す気にはなれなかった。


何の役に立つのかはまだ分からない。北へ嫁いだ先で使えるとも限らない。それでも何も持たずに行けば、全部なかったことにされる。


リネットがそっと近づく。


「お嬢様……お連れくださいとは、言えませんね」

「言わないで」

「はい」


返事は短かったのに、声が震えていた。


エレノアは紙をたたみ、小箱の底へ滑り込ませる。誰も気に留めない、小さな箱だ。


窓の外で風が強まる。庭木が鳴り、硝子がかすかに震えた。


北は、もっと寒いのだろう。


見知らぬ土地。

噂ばかりの公爵。

歓迎されるはずもない婚姻。


それでも、何も持たずに行くつもりはなかった。


エレノアは小箱に手を置いたまま、しばらく動かなかった。

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