第3話
夕食のあと、呼ばれたのは小広間だった。
食堂でも客間でもない。家族だけで使う部屋だ。壁際の燭台にはもう火が入っていて、厚い絨毯が足音を吸っている。その静けさが、妙に息苦しかった。
扉を叩くと、すぐに父の声がした。
「入れ」
中には父のほかに、継母とローザリアもいた。
それを見た瞬間、腹の底が重く沈んだ。帳場の件を叱るだけなら、こんな顔ぶれにはならない。もう決めた話を聞かせるつもりなのだ。
継母がいつもの笑みを浮かべる。
「座りなさいな、エレノア」
勧められた席は、ローザリアの向かいだった。父からは少し離れている。
エレノアは腰を下ろした。膝の上で組んだ指先だけが冷たい。
父は机の上の書状に目を落とし、それから娘を見た。
「今日の振る舞いについて、言うことはあるか」
帳場のことだ。
けれど、謝って済む話ではない。見たものを見ていないとは言えなかった。
「ございません」
「そうか」
父の声は平坦だった。
「なら、こちらの話をする」
継母が膝の上で扇を閉じる。ローザリアは少し背を固くしていたが、怯えではない。何かを待っている顔だった。
父はまず妹を見た。
「フェアクロフト家との話は、ローザリアで進める」
「……はい、お父様」
弾んだ返事だった。頬もかすかに紅潮している。
昼の茶会で、もう分かっていたことだ。あの場の空気だけで十分だった。
父の視線がエレノアへ移る。
「お前の婚約は白紙に戻す」
「承知しております」
自分でも驚くほど静かな声が出た。
継母が、いかにも気遣うふうに口を開く。
「エレノア、あなたも分かっているでしょう? 婚約というのは気持ちだけではなく、釣り合いも大事なのよ。フェアクロフト卿は、ああいう明るい子のほうが」
「お義母様」
声が低く落ちた。
継母が小さく目を見開く。けれど笑みは崩さない。
「何かしら」
「もう結構です」
部屋の空気が、ぴんと張った。
ローザリアが気まずそうに視線を落とす。けれど本気で悪いと思っている顔ではなかった。姉はいずれ分かってくれると、まだどこかで信じている目だ。
父は二人の間を断つように、書状を手に取った。
「お前の行き先は別に決まった」
「行き先、ですか」
「ノルデンフェルト公爵家だ」
一瞬、燭台の火が遠のいた。
北辺公爵。
王都では、名前より噂のほうが先に立つ。血塗れ、公の場に出ない、冷酷で、人を寄せつけない。顔も年齢もはっきり知られず、戦場の話ばかりが独り歩きしている男。
継母がやわらかく言う。
「北辺公爵家から花嫁の打診があったの。断る理由はないでしょう。むしろ、お前には過ぎた縁かもしれないわね」
「私に、ですか」
問い返すと、継母は扇で口元を隠した。
「ローザリアはもう話が進んでいますもの。家としては、ちょうどよかったのよ」
ちょうどよかった。
その軽さに、膝の上の指がきつく重なる。
父が続けた。
「公爵家は花嫁を求めている。お前は近く王都を発つ」
「なぜ私なのか、お聞きしても」
「侯爵家の長女だからだ」
「それだけですか」
「それで足りる」
エレノアは父を見た。
「北辺は、冬支度を誤れば人が死ぬ土地だと聞いております」
「そうだ」
「それでも、今すぐ?」
「今だからだ」
間を置かない返答だった。
昼の帳場が脳裏をよぎる。北へ送る荷の数字。父の態度。握り潰された進言。そして、その日のうちに決まる北辺への輿入れ。
出来すぎていた。
エレノアは手を重ねたまま、声だけをまっすぐ保つ。
「……私が見た帳簿のことと、関係がおありですか」
継母の目が、かすかに揺れた。ローザリアは意味が分からないまま姉と父を見比べている。
父だけが動かない。
「お前は考えなくていいことを考えすぎる」
「否定はなさらないのですね」
「必要ない」
みぞおちが、鈍く縮んだ。
継母が諭すように口を挟む。
「エレノア。女の身で、家の取引や帳場にまで口を出せば、周りも困るでしょう」
「困るのは、北へ渡る物資が足りないほうです」
「また、そうやって」
継母は小さく息をついた。
「婚約のことがあったばかりでしょう。意地を張ってはだめよ」
「意地ではありません」
「そう見えてしまうの」
昼に父から向けられたのと同じ言葉だった。
そう片づけてしまえば終わる。
婚約を奪われた長女が騒いでいる、それで。
ローザリアが、おずおずと口を開く。
「お姉様、公爵夫人なんて、すごいことだわ」
「……そうね」
「北辺は遠いけれど、きっと立派なお屋敷でしょうし」
悪意はない。
ないからこそ、遠かった。
父が書状を机に置いた。
「この話は覆らん」
「……」
「婚約の件も、北辺への輿入れも、家のためだ」
家のため。
その一言で、すとんと落ちた。
婚約を妹に渡したことも。
帳場から遠ざけたことも。
今夜ここで北へやると決めたことも。
最初から、ひとつだったのだ。
「お返事を」
促されて、エレノアは顔を上げた。
拒んだところで婚約は戻らない。帳場に近づくことも、もう難しい。父は初めから、自分を切り離すつもりで動いていた。
ならば、ここで縋る顔だけは見せたくなかった。
「承知いたしました」
継母が目に見えて息をつく。ローザリアもほっとしたように肩の力を抜いた。
父だけが無表情のまま頷く。
「物分かりがよくて助かる」
「……ええ」
「お前もアシュベリーの娘なら、最後くらい役に立て」
最後、という言葉だけが耳に残った。
エレノアは立ち上がる。
「失礼いたします」
誰も引き留めない。
扉に手をかけた時、背後で継母が言った。
「支度は急がせるわ。北は寒いのでしょう? 丈夫なお前でよかった」
振り向かなかった。
廊下へ出た途端、喉の奥に詰まっていた息がほどける。体は、熱くなるより先に冷えきっていた。
部屋へ戻ると、リネットが待っていた。
顔を見た瞬間、立ち上がる。
「お嬢様」
「北辺へ嫁ぐことになったわ」
リネットの顔色が変わった。
「そんな」
「ノルデンフェルト公爵家ですって」
「どうして……」
「都合がいいのよ」
口にした途端、喉の奥がひりついた。
エレノアは机の前に座り、引き出しから昼の走り書きを取り出した。帳場で全部を持ち出すことはできなかったが、違和感のあった品目と数だけは書き留めてある。
防寒油布。濃縮飼料。薬品原料。
北へ送るには、どれも欠かせないものばかりだった。
「お嬢様、それは」
「捨てないでおくわ」
「危ないです」
「分かってる」
持っているだけで危うい。
それでも、手放す気にはなれなかった。
何の役に立つのかはまだ分からない。北へ嫁いだ先で使えるとも限らない。それでも何も持たずに行けば、全部なかったことにされる。
リネットがそっと近づく。
「お嬢様……お連れくださいとは、言えませんね」
「言わないで」
「はい」
返事は短かったのに、声が震えていた。
エレノアは紙をたたみ、小箱の底へ滑り込ませる。誰も気に留めない、小さな箱だ。
窓の外で風が強まる。庭木が鳴り、硝子がかすかに震えた。
北は、もっと寒いのだろう。
見知らぬ土地。
噂ばかりの公爵。
歓迎されるはずもない婚姻。
それでも、何も持たずに行くつもりはなかった。
エレノアは小箱に手を置いたまま、しばらく動かなかった。




