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婚約者も功績も妹に奪われた私は、死ぬと噂の北辺公爵に嫁ぐことになりました 〜愛のない結婚のはずが、冷酷な夫は私を手放してくれない〜  作者: 師走
第1章 選ばれたのは妹でした

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第2話

帳場はもう閉める刻だった。


表の客間はまだ明るいのに、裏の廊下は冷えが早い。帳面を抱えた男が二人、足早に横切っていく。エレノアが声をかけると、どちらも露骨に目を逸らした。


「少し、倉の記録を見せて」

「お嬢様、それは……」

「今日の北向けの分だけでいいわ」


帳場付きの中年男は返事に詰まった。困っているのではない。答えたくないのだと分かる沈黙だった。


その時、背後から小さな足音が近づく。


「お嬢様」


リネットが戻ってきた。息を弾ませている。わざと聞かせないよう、エレノアのすぐそばまで寄って声をひそめた。


「裏門の鍵番は、今夜はゴドウィンです。北向けの荷は、明け方に一度、東の倉から出すと」

「明け方」


早すぎる。


「帳場の若い方が、明日の分の写しを今夜のうちに整えると話していました」

「今夜のうちに」


エレノアは帳場付きの男を見た。男の額に、じわりと汗がにじんでいる。


「写しを」

「ええと、いつもの手順でして」

「なら、確認しても差し支えないでしょう」


柔らかく言ったつもりだったが、男は一歩引いた。


「旦那様のご許可が」

「私が父に申し上げます」

「いえ、その」


男の視線が帳場の奥へ泳ぐ。


その先には、まだ閉じられていない半扉と、積まれた帳面、それに封を待つ書類の束があった。火を落としかけた燭台の明かりが、机の端だけを照らしている。


エレノアは返事を待たずに中へ入った。


「お嬢様……!」


止める声が上がる。けれど遅い。机の上の写し帳を開いた瞬間、目当ての頁がすぐに見つかった。


北辺向け、防寒油布二十反。

濃縮飼料五十樽。

薬品原料十二箱。


昼間、倉庫控えで見た数字と同じだ。


同じ、だが。


エレノアは指先で紙を押さえた。墨の乾き方が不自然に新しい。頁の下端に残る砂の跡も、ついさっきまで乾かしていたと告げている。しかも帳面の綴じ紐が、いったんほどかれて結び直されていた。


「これを、今日一日ずっとここに?」

「は、はい」

「嘘ね」


男が息を呑む。


エレノアは次の頁を開いた。数日前の納入分。さらにその前。倉庫控えと写しの数字が合っていない箇所が、ひとつ、ふたつ、三つ。どれも北へ送る重要物資ばかりだった。


「お嬢様」


リネットの声が硬い。


エレノアは頷き、帳面を閉じた。


「倉を見ます」

「お待ちください、お嬢様、それは本当に」

「本当に、何?」


男は答えない。答えられない。


言葉より先に、廊下の向こうで重い靴音がした。帳場付きの男が、はっと顔を強張らせる。


父だった。


アルフレッド・アシュベリー侯爵は、戸口のところで立ち止まり、室内をひと目見渡した。娘、侍女、開かれた帳面、青ざめた帳場付きの男。


状況を一瞬で理解したのだろう。顔色ひとつ変えない。


「何をしている」


低い声だった。


怒鳴っていないのに、場の空気が一気に冷える。


エレノアは帳面から手を離さなかった。


「北辺向けの納入記録を確認しておりました」

「なぜ」

「数字が合いません」

「お前が判断することではない」


だが今度は、帳面が目の前にある。墨の新しさも、綴じ直しの痕も、帳場の人間の怯えも。何一つ見間違いではない。


「倉庫控えと写しが違います。しかも今日、整え直した跡があります」

「帳面に手を入れること自体は珍しくない」

「北へ送る薬品原料まで」

「それがどうした」


父は近づいてきた。火鉢もない帳場は冷えているのに、その人の周りだけ空気が硬い。


「冬前の北辺で、薬も飼料も布も足りなくなれば、人が困ります」

「北辺公爵が困ろうと、我が家が凍えるわけではない」


エレノアは息を止めた。


父は言ってしまってからも、何も感じていない顔だった。失言だとも思っていない。ただ、事実を言っただけのように。


帳場付きの男が頭を深く下げる。リネットが隣で息を詰めたのが分かった。


「お父様」


ようやく出た声は、自分でも驚くほど低かった。


「ご存じなのですね」


父は黙って娘を見た。


その沈黙で、もう十分だった。


「帳面だけでは済みません。明け方に東の倉から荷が出ると聞きました。現物を改めれば」

「許可しない」

「なぜ」

「必要ないからだ」


必要ない。


その一言が、重く落ちた。


エレノアは父から目を逸らさない。


「必要です」

「必要ない」

「私は侯爵家の娘です。家の名で北へ送る荷が正しいか確かめる責任があります」

「お前に責任はない」


父の声がさらに冷たくなる。


「責任がないから、口も出すな」


リネットが何か言いそうになり、エレノアはかすかに手で制した。


「婚約の件で気が立っているのだろう」


父が淡々と続ける。


「だが、感情で家の取引に触れるな」

「感情ではありません」

「そう見える」


また、それだ。


嫉妬。腹いせ。婚約を奪われた娘の八つ当たり。そういう形にしてしまえば、女の言葉は軽くなる。


エレノアはゆっくり息を吸った。


「では、私が北辺公爵家に嫁いだ後で、この帳簿のことを見つけたら、何と申し上げればよろしいのでしょう」

「お前が気にすることではない」

「私が嫁ぐからこそ、気にします」

「嫁ぐからこそ、黙れ」


ぴたりと返される。


父は一歩だけ距離を詰めた。


「侯爵家の娘として振る舞え。余計な正しさで家を煩わせるな」


その言葉に、エレノアは一瞬だけ目を伏せた。


この家で自分に求められるのは、役に立つことだけだ。けれど家の都合に合わない正しさは、たちまち邪魔になる。


「出ていけ」


静かな命令だった。


エレノアは開かれた写し帳を見下ろした。乾ききっていない墨、きれいに並んだ数字、誰かが手を入れた跡。証拠としては弱い。けれど、何もないわけではない。


ここで引けば、明日にはすべて整えられる。そう分かるのに、今の自分には押し切る力がない。


父の前で。家の中で。娘という立場で。


「……承知いたしました」


声に出した瞬間、帳場の空気が緩んだ。帳場付きの男は露骨に安堵の息をつき、すぐにそれを隠すように頭を下げる。


父は何も言わなかった。


エレノアは帳面から手を離し、踵を返す。リネットもすぐ後ろについた。


廊下へ出て、角を曲がるまで、二人とも口を開かなかった。


先に声を出したのはリネットだった。


「お嬢様……」

「ごめんなさい」

「どうしてお嬢様が謝るんですか」

「止められなかったから」


言うと、声の端が少し震えた。


リネットは小さく首を振る。


「違います」

「違わないわ。見つけたのに、押し切れなかった」

「それでも見つけたんです」


エレノアは足を止めた。


リネットはまっすぐこちらを見上げている。若い、まだ丸みの残る顔なのに、その目だけは妙に強い。


「皆、見ないふりをしています。お嬢様だけです」


慰めではなかった。ただの事実みたいな声だった。


窓硝子に映る自分の顔が、ひどく遠く見えた。


エレノアは窓辺に寄り、外を見た。庭はもう暗い。裏門までは見えないが、夜明け前にはあの荷が出ていく。


止められないまま。


「リネット」

「はい」

「今夜のうちに、倉の出入りが分かるものを探せる?」

「やってみます」

「危ないことはしないで」

「お嬢様もです」


思わず、かすかに笑ってしまった。


けれど笑いはすぐ消える。残ったのは、重く冷たい感触だけだった。


父は知っている。知っていて、握り潰した。


婚約のことも、不正のことも、都合よく一緒に片づける気なのだとしたら。


その考えにたどり着いた時、背筋にぞくりとしたものが走る。


遠くで扉の開く音がした。足音が近づいてくる。


家令が一人、廊下の向こうで恭しく頭を下げた。


「お嬢様。旦那様が、夕食後にもう一度お部屋へ来るようにと」


エレノアは窓から手を離した。


父の声ではないのに、冷たいものが首筋をなでた。

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