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婚約者も功績も妹に奪われた私は、死ぬと噂の北辺公爵に嫁ぐことになりました 〜愛のない結婚のはずが、冷酷な夫は私を手放してくれない〜  作者: 師走
第1章 選ばれたのは妹でした

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第1話

晩秋の朝は冷えたが、まだ火を増やすほどではない。


それでも、屋敷の裏手にある洗い場では若い下働きの娘が指先を真っ赤にしていた。大きな桶を持ち上げようとして、ふらつく。エレノアは廊下の窓からそれを見つけて、足を止めた。


「そのまま運ばなくていいわ。半分に分けて」


声をかけると、娘はびくりと肩を跳ねさせた。


「で、ですが、昼までに終えろと……」


「終えるために倒れたら意味がないでしょう。エマ、あなた、昨日から咳をしていたわね」


娘は口をつぐんだ。叱られると思ったのだろう。


エレノアは窓辺に置かれていた籠から、まだ使っていない厚手の布を一枚取り上げた。もともとは食器棚の養生に回すつもりで、倉庫から出させておいたものだ。


「これを肩に掛けて。洗い場の水は午前だけぬるま湯に変えるよう、厨房に伝えておくわ」

「そんな、勝手に……」

「私が言ったと伝えればいいの」


娘は目を丸くしたまま、恐る恐る布を受け取った。


エレノアはそのまま厨房へ向かい、昼の仕込みに入っていた料理長へ二言三言頼んだ。ついでに薬棚から乾かした香草を少し分けてもらい、小さな紙包みにして洗い場へ戻る。


「寝る前に湯に落として飲んで。苦いけれど、何もないよりはましよ」


娘は唇を震わせ、深々と頭を下げた。礼を言われる前に、エレノアは歩き出した。


ありがとうと受け取られるより先に、次に片づけるべきことがある。そうやって朝はいつも過ぎていく。


食堂の花、客間の帳、父の書斎へ上げる書類、継母の好む茶葉、ローザリアの新しいドレスの袖幅直し。屋敷じゅうの綻びが、彼女の前に置かれる。


長女だからではない。


便利だからだ。


侯爵家の娘として社交に出る時だけは、それらしい席に座らされる。だが屋敷の内側では、家族より先に手として数えられた。


侍女見習いのリネットだけが、そんな朝のたびに小さく眉を寄せる。


「お嬢様、せめて朝食だけでも……」

「あとでいただくわ」

「あとで、で召し上がったこと、今月に入って何度ありましたか」

「数えたの」

「数えたくもなります」


むっとした顔が幼くて、少し頬がゆるむ。


「心配しすぎよ、リネット」

「お嬢様がなさらないので、私がするしかありません」


亡くなった母の実家から来た子だった。まだ年若いのに、ひどくよく気がつく。エレノアが食卓で何も口にしなくても、目立たないよう一口大の焼き菓子を包んで持たせてくれるのは、屋敷でこの子だけだ。


「昼前には戻るわ。帳場へ行ってくる」

「またですか」

「昨日の納入書に気になるところがあったの」

「お嬢様」


今度の呼びかけは低かった。


エレノアは足を止める。リネットは言いにくそうに視線を落とし、それでも言った。


「見て見ぬふりをなさったほうがいいことも、ございます」


指先に力が入った。


「それができたら、あなたに苦労はかけていないわね」

「そういうところが、私は好きですけれど……」


その先を、リネットは飲み込んだ。言わなくても分かる。好きだからこそ、怖いのだ。


エレノアは紙包みを一つ受け取り、ようやく焼き菓子を口に入れた。甘さは薄かったが、喉を通るだけで息がつけた。


その時、廊下の向こうから家令付きの下男が慌ただしくやって来る。


「エレノアお嬢様。奥様がお呼びです。昼の茶会へ、すぐにと」

「茶会?」


こんな時間に、という言葉を飲み込む。継母が人を呼ぶ時は、理由より先に顔を出すべきだとこの家では決まっている。


下男は頭を下げたまま、急かすように一歩退いた。


「旦那様も、すでに」

「分かったわ」


エレノアはリネットに紙包みを渡し、ひと息だけ吸った。


帳場は逃げない。けれど、喉の奥に小さな棘が残った。


「行ってくるわ」

「……どうか、お気をつけて」


案内された客間には、甘い花の香りと強い茶葉の匂いが満ちていた。


客の数が多い。父の取引相手である商人が二人、継母が贔屓にしている仕立屋、それからエイドリアン・フェアクロフト。


扉の前で名を告げられ、部屋へ入る。窓際の長椅子にはローザリアが座っていた。淡い桃色のドレスに身を包み、何か楽しい話でもしていたのだろう、頬がほんのり赤い。そのすぐ隣に、エイドリアンがいた。


距離が近い。


それだけのことなのに、喉の奥がかすかにこわばる。


「まあ、エレノア。いらっしゃい」


継母が穏やかに笑って手を差し向けた。


「ちょうどよかったわ。あなたもこちらへ」


空いている席は、父からもローザリアからも少し離れた端だった。誰も気にしていない顔でそうなっているのが、いっそう息苦しい。


エレノアは勧められるまま腰を下ろした。


給仕が茶を注ぐ。秋の終わりらしい、香りの強い茶葉だった。湯気が立つ間にも、商人の一人が感心したように言う。


「いやはや、若いお嬢様とは思えぬご見識でした。北への荷は、積み方ひとつで傷みが変わると」

「本当に。あれには私も驚きましたわ」


継母が目を細める。


「ローザリアは昔から、人が困っていることによく気づく子なのです」


エレノアの指先が、カップの持ち手で止まった。


北への荷。積み方。傷み。


それは先月、自分が帳場の記録を見て気づき、父へ進言した内容だった。湿気を含みやすい防寒布と油布の保管を分けること。馬用の濃縮飼料は床から上げて置くこと。薬品原料は出入り口の近くに積まないこと。


父はその書面をろくに読まず、机の隅に追いやったはずだ。


「私、難しいことなんて分かりませんわ」


ローザリアが恥じらうように笑う。


「でも、お父様に教わっていたら、少し。お役に立てたなら嬉しいです」


父は何も言わない。


否定しないということは、認めるということだった。


エレノアは静かにカップを置いた。薄い陶器が受け皿に当たり、かすかな音を立てる。


エイドリアンがローザリアを見ている。穏やかで、満ち足りた顔だった。誰かの賢さに感心している顔ではない。その場で自分を立ててくれる可愛らしさに満足している顔だった。


昔、自分が彼の書類を整え、抜けを埋め、商談相手の好みを先回りして伝えた時も、似たような顔をしていた。


けれどあの時の視線は、礼と満足が混じっていただけだ。


いまローザリアに向けられているそれは、もっと甘い。


仕立屋が扇を口元に当てて笑った。


「フェアクロフト卿もお幸せですこと。お二人を見ていると、本当にお似合いですわ」


部屋の空気が、やわらかくうなずく。


その一言で、指先に力が入った。


正式な発表など、まだ聞いていない。けれど、知らされていないのが自分だけなのだと分かるには十分だった。


継母が楽しげに言葉を継ぐ。


「ローザリアは明るいでしょう。あの子がいると場が和むの。家を持つ方には、そういうことも大切ですものね」

「ええ、まことに」


商人が大きく頷く。


父はそこで初めて口を開いた。


「ローザリアは、人の機微が分かる」

「お父様、そんな」


頬を染めて目を伏せる妹は、見事だった。計算しているようには見えない。見えないからこそ、たちが悪い。


「エレノア嬢」


不意に、エイドリアンがこちらを見た。


視線が合う。


彼はかすかに眉を寄せた。困ったような、言いにくそうな顔。だが、その困惑の奥にあるのは後ろめたさではない。話しにくいことを話さねばならない面倒さだ。


「君にも、早く伝えるべきだとは思っていた」

「そうでしょうね」


声は、ひどく落ち着いて聞こえた。


エイドリアンは少し目をそらし、咳払いをひとつする。


「その、今回のことは……君の助けに感謝していないわけではない。ただ、私と君では」

「相性がよくない、ですか」

「……」


図星だったのだろう。彼は言葉に詰まった。


継母がすぐにやわらかく口を挟む。


「エレノア。そんな言い方をしてはだめよ。フェアクロフト卿もお困りでしょう」

「困っていらっしゃるのは、私ではなくて?」


部屋が静まる。


継母の笑みが、わずかに硬くなった。


父の視線が向けられる。冷たい。だが、それだけだ。庇う気は最初からない。


ローザリアがそっと口を開く。


「お姉様……怒っている?」

「怒ってはいないわ」

「でも」


ローザリアは本当に不思議そうな顔をした。


「だって、お姉様はそういうの、気にしないと思っていたの」


その一言は、予想していたより深く刺さった。


ローザリアは悪びれていない。ただ少し気まずそうで、それでもどこか甘えている。姉なら分かってくれるはずだと、本気で思っている顔だった。


「祝ってくださるわよね?」


小さく首をかしげる妹を見て、エレノアは唇を閉じた。


ここで笑えたら、たぶんもう二度と自分の足で立てなくなる。


「お祝い申し上げます」


自分でも驚くほど、きれいな声だった。


ローザリアの顔が明るくなる。


「ありがとう、お姉様」

「フェアクロフト卿も」

「……ああ」


エイドリアンはどこかほっとした顔をした。


その表情を見た瞬間、指先に力が入った。自分が引けば、この人は安心するのだ。ずっとそうだった。


エレノアは立ち上がった。


「失礼いたします」

「エレノア」


父の声が飛ぶ。


足は止めたが、振り返らない。


「場を乱すな」

「乱してはおりません」


それだけ返し、部屋を出た。


扉が閉まる直前、ローザリアの「お姉様」という戸惑った声が聞こえた。けれど、それに答える気にはなれなかった。


廊下の空気は冷たい。


窓から差す日暮れ前の光が白くて、体の芯まで冷えそうだった。


「お嬢様」


振り向くと、リネットがいた。少し離れた場所で待っていたらしい。表情を見た途端、彼女の顔が曇る。


「……聞いてしまいました」

「耳がいいのね」

「皆さま、隠す気がありませんでした」


エレノアは少し笑った。笑ったつもりだったが、うまく形になったかは分からない。


リネットが一歩近づく。


「お部屋へ戻りましょう」

「まだよ」

「お嬢様」

「帳場へ行くわ」


リネットが目を見開く。


「今から、ですか」

「ええ」


婚約のことだけなら、部屋へ閉じこもって終わりにしてもよかった。けれど父がローザリアの手柄として口にした北向け物資の話が、頭から離れない。


あれは父の耳に入っている。入っていて、その上で握り潰されている。


「お嬢様、今は」

「今だからよ」


エレノアは窓の外へ目を向けた。荷馬車の出入りする裏門の方角は、ここからは見えない。


「今日のうちに見なければ、明日にはなくなるかもしれない」


リネットは何か言い返しかけて、やめた。代わりにきゅっと唇を結ぶ。


「私も参ります」

「だめ」

「だめではありません」

「巻き込みたくないの」

「もう巻き込まれています」


小さな声なのに、妙にはっきりしていた。


エレノアは目を伏せる。


「……裏門の鍵番が、今夜だれか調べて」

「はい」

「それと、北へ回す荷の出立がいつかも」

「承知しました」


リネットはもう迷わない顔をしていた。


食堂からまだ笑い声が届いてくる。


エレノアはそれを振り切るように歩き出した。


痛みは残っている。けれど今は、それに沈んでいる時間が惜しかった。

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