第1話
窓枠の隙間から吹き込む風が、執務机の上に置かれた羊皮紙の端をかすかに揺らした。
インク壺の底が冷え切っているせいか、ペン先につけた黒い液体はいつもよりわずかに粘り気が強い。エレノア・ノルデンフェルトは羽ペンを走らせる手を一度止め、息を白く吐き出しながら、指先を軽く揉みほぐした。
机の上に広げられているのは、北辺各地の倉庫から上がってきた冬支度の目録だった。
南倉の乾燥蕪、塩漬けの豚肉。豆類、干し草、そして最も気にかかる薪の備蓄状況。指で数字をなぞりながら、エレノアは頭の中でそれらを城下や近隣の村々の人口と照らし合わせる。
「……南の第二倉庫、薪の搬入が予定より二日遅れているわね」
呟きは独り言のつもりだったが、机の向かいから低い声が応じた。
「先週の初雪で、北の山林からの搬出路が一時的にぬかるんだ。今は路面が凍りついたから、輓馬での輸送に切り替えている。明日の夕刻までには運び込まれる手筈だ」
顔を上げると、ヴィクトルが防衛計画の図面から目を上げ、こちらを見ていた。
公爵としての執務服の上に、袖のない厚手の毛皮胴着を重ねている。無駄のない骨太な体躯と、北辺の厳しい風雪をそのまま宿したような彫りの深い顔立ち。だが、その灰色の瞳がエレノアを捉えるとき、そこには硬質な冷たさは微塵もない。
「よかった。あそこの薪は、川沿いの家々と施療院へ優先して配る分だったから。あのあたりは川風が吹き抜けて、毎年一番に子供たちが熱を出すでしょう」
「施療院の暖炉用の炭も、すでに手配してある。薬草の乾燥室も冷え込ませるなと、薬師頭には伝えておいた」
「ありがとう、ヴィクトル。助かるわ」
エレノアが微笑むと、ヴィクトルの口元がわずかに緩んだ。
北辺の地へ嫁いできてから、季節がめぐった。
かつては居場所を探すように、役に立つことだけを求めて必死に帳面にしがみついていた。だが今はこの机を挟んでヴィクトルと並び、互いの分担を確かめ合いながら日々の仕事を回している。
「大橋の点検はどうだった?」
エレノアが尋ねると、ヴィクトルは手元の図面を指先で叩いた。
「敷石の緩みはすべて補修させた。橋脚に張る氷を砕くための防氷杭も打ち直してある。大雪になれば峠の街道はことごとく閉ざされるが、セルヴェ大橋の通行だけは止めるわけにいかないからな」
セルヴェ大橋。
オルセーヌ北辺と隣国ヴェルノワを隔てるセルヴェ川に架かる、頑丈な石造りの大橋だ。
冬の間、北辺と外部を結ぶ動脈は事実上この大橋一本に限られる。ヴェルノワや南部から運ばれる穀物、塩、布地、そして貴重な医薬品。大橋が滞りなく機能するかどうかが、この地に生きる人々の冬の命運を左右する。
同時に、それは国防の要でもあった。国境を跨ぐ橋である以上、常に緊張が孕む場所でもある。生活の糧を通す通路でありながら、敵を防ぐ巨大な閂でなければならない。
「今年も、何事もなく冬を越せればいいのだけれど」
「ああ。橋の守備隊には交代要員を増やし、常に路面の除雪を行えるよう手配した。備蓄さえ保てば、厳冬期も乗り切れる」
ヴィクトルの言葉に頷き、エレノアが再び帳面に目を落とそうとした、その時だった。
執務室の重い樫の扉が控えめにノックされ、近習の青年が姿を現した。その表情には、平時とは異なる緊張の色が滲んでいる。
「閣下、奥様。ヴェルノワより、王家の急使が到着いたしました。至急の手紙とのことです」
ヴィクトルが片手を上げ、入室を促した。差し出されたのは、上質な厚手の紙に青い封蝋が施された王家からの親書だった。蝋には、ヴェルノワ王家の紋章が刻まれている。
ヴィクトルがペーパーナイフで手際よく封を切り、広げられた書面へ視線を落とす。文字を追うにつれ、彼の眉間に深い溝が刻まれていった。
「……何が書かれているの?」
エレノアが尋ねると、ヴィクトルは息を吐き出し、書状を机のこちら側へと滑らせた。
「使節団が来る。それも、ただの外交官ではない」
エレノアは書状を引き寄せ、そこに並ぶ流麗な宮廷文字を素早く読み解いた。
ヴェルノワ王太子アルベール。第二王子テオドール。そしてヴェルノワ北部侯爵家の令嬢ミレーヌ。三人の名が並んでいた。
用件は、冬季におけるセルヴェ大橋の通行枠と交易についての協議。
そして何より、エレノアの目を引いたのは末尾に記された日程だった。
「……到着は十日後。随員には近衛兵と従僕も含まれる」
思わず声が漏れた。
「これだけの人数が……」
エレノアの頭の中で、先ほどまで並んでいた冬支度の数字が、猛烈な勢いで組み替えられていく。
王太子と第二王子、それに高位貴族の令嬢。迎える側としては、一分の隙もあってはならない最上級の貴客だ。
まず客室。客人にふさわしい部屋を、即座に整えなければならない。ここ数ヶ月使っていなかった部屋の換気、煙突の煤払い、暖炉の試運転。何より、客人を凍えさせないための最上質の薪と、煙の出ない白炭の確保。寝具は羽毛布団を天日に干し、替えのシーツを香草とともに干して湿気を抜く必要がある。
令嬢が同行するなら、化粧室の暖房や、湯浴み用の湯を絶え間なく沸かせるだけの燃料と人手も要る。
従者や近衛兵たちの宿舎はどうするか。兵舎の一角を空けさせ、藁を新しく敷き詰めて毛布を配給しなければならない。随員たちが使うとなれば、その寝具だけで倉庫の予備が底をつくかもしれない。
次に厨房。
大勢の人間が、少なくとも数日から十数日は滞在する。彼らが消費する食糧の量は莫大だ。
冬のために蓄えていた領民用の保存食を切り崩すわけにはいかない。城下の商人たちに急ぎ連絡を入れ、王都風の料理に耐えうる新鮮な肉や、保存の利く川魚の燻製、良質なチーズ、塩漬けではない根菜を至急買い集める必要がある。酒蔵の樽の数も確認しなければならない。
そして厩だ。
使節団の乗る馬車と、近衛兵たちの軍馬。馬も相当数入ってくる。
北辺の寒風に慣れていない南の馬は、少しの冷え込みで腹を壊し、脚を痛める。馬房の隙間風を防ぐための仕切り板を打ち付け、寝藁を厚く敷き、燕麦と上質な干し草を確保しなければ。
「……エレノア?」
思考の海に沈んでいたエレノアは、ヴィクトルの呼びかけで我に返った。夫が、少しだけ案じるような目でこちらを見つめている。
「すまない。あまりに急な話だ。ヴェルノワの王族が二人揃って北辺へ足を運ぶなど、前例がない。断る口実を作ることもできるが――」
「いいえ、それは悪手よ」
エレノアは即座に首を振った。
「大橋を何台通すかは、私たちの領地にとっても死活問題です。向こうの王太子殿下が直々に話し合いに来るのに、こちらの都合だけで断れば、話の主導権まで向こうに渡すことになる。それに……王家が動くということは、それだけ切迫した事情があるのかもしれないわ」
エレノアは書状を丁寧に折り畳み、机の上に置いた。
「城内の受け入れは、すべて私が引き受けます。客室の設え、厨房の手配、厩の割り当てまで、十日あれば間に合わせます」
「しかし、ただでさえ冬支度で忙しい時期だ。お前の負担が大きすぎる」
ヴィクトルの声には、妻を庇おうとする色が濃い。彼が自分を気遣ってくれているのは痛いほどわかる。だが、エレノアは微笑んで、夫の大きな手を机の上で軽く握った。
「私一人で全部を抱え込むつもりはありません。家政頭にも、料理長にも、手伝ってもらいます。任せられる仕事はしっかり任せますから」
ヴィクトルの手が、わずかにエレノアの手を握り返した。
「それに、外の守りはあなたにしかできないでしょう? 大橋から城までの街道の警備、随行してくる近衛兵への対応、城下の警戒。それらはすべて、ヴィクトル、あなたの領分です」
城の中をどれほど整えても、街道や城下が乱れれば冬は越せない。外の守りを彼が引き受けてくれるからこそ、自分は城内の差配に専念できるのだ。
ヴィクトルはしばらくエレノアの瞳を見つめていたが、やがて短く息をつき、頷いた。
「分かった。城の防備と街道の安全、それに大橋の儀仗は俺が引き受ける。……無理はするなよ」
「ええ。あなたも」
その日から、ノルデンフェルト公爵城は目まぐるしい慌ただしさに包まれた。
エレノアの十日間は、文字通り分刻みで過ぎていった。
朝一番に厨房へ足を運び、料理長と膝を突き合わせて献立を練った。北辺の素朴すぎる塩漬け肉ばかりでは隣国の王族を侮辱することになりかねないが、かといって無理に王都の華美な料理を真似ても粗が出る。北辺で採れる滋味深い根菜の煮込みに、南の香辛料を隠し味として効かせること。保存していた果実の蜜煮を肉料理のソースに仕立てること。料理長の腕を信じ、こちらの意図を伝えて材料の調達を命じた。
午後には家政頭とともに西翼の客室を点検した。
カーテンの埃を払い、床の絨毯を叩き、暖炉の火入れを自ら確認した。煙が逆流しないか、部屋全体に暖気が行き渡るか。客人の肌に触れるシーツの肌触りまで確かめ、少しでも湿気を感じれば干し直させた。
夕方には薬師の工房を訪れ、風邪薬の調合を確認した。ヴェルノワは北辺よりも温暖な土地だ。旅の疲れと急激な冷気で体調を崩す者が必ず出る。解熱の煎じ薬、咳止めのシロップ、そしてしもやけに効く動物性油脂の軟膏を、通常の倍量用意させた。
城内を歩き回り、帳面と現場を行き来しながらも、すべてを一人で抱え込もうとはしなかった。
献立の細かな調整は料理長に、客室の最終点検は家政頭に委ね、薬の調合も薬師の判断を信じて任せる。エレノア自身は各所から上がってくる報告を取りまとめ、全体の滞りを先回りして解消していく役に徹した。自分が倒れては元も子もないと、忙しい合間にも食事は欠かさず口にし、確実に城の受け入れ態勢を整えていった。
ヴィクトルもまた、城の外を駆け回っていた。
セルヴェ大橋へ自ら馬を走らせて検問の兵たちと打ち合わせを行い、道中の雪かきの手順を確認し、近衛兵たちを迎えるための儀礼と警備計画を練り上げていた。
夜、疲れ果てて執務室に戻ると、二人は暖炉の前の小さな丸机で、湯気の立つ熱いスープを分かち合った。
「厩の仕切り板、大工たちが今日中に仕上げてくれたわ。寝藁も十分に積んである」
「街道の除雪班も配置を終えた。橋から城までの道筋に、兵を等間隔で立たせる手筈だ」
互いに言葉を交わし、仕事の進み具合を伝え合う。
ヴィクトルの目の下にわずかに濃い影が差しているのを見て、エレノアは卓上の干し肉を彼の皿へ多めに移した。
「ちゃんと食べてね。明日からはもっと寒くなるそうだから」
「お前こそ、昼にほとんど休んでいないと家政頭が零していたぞ」
「ちゃんとスープをいただいたわ。……ほら、手を出して」
エレノアが言うと、ヴィクトルは素直に両手を差し出した。
外の冷風に晒されて赤くかじかんだ夫の大きな手を、エレノアは自分の両手で包み込んだ。じんわりとした体温が、皮膚を通じて互いに行き来する。
「冷たい。今夜は早く休んで」
「……ああ」
ヴィクトルは短く答え、包まれたエレノアの手に、そっと指を絡めた。
言葉は多くなくとも、肌の温もりだけで十分だった。互いに何を背負い、何を支え合っているのかが、その静かな接触の中にすべて溶け込んでいた。
そして、十日目の朝が訪れた。
前夜から降り始めた雪は、夜明けとともに細かい粉雪へと変わり、城の中庭を薄く白く染め上げていた。張り詰めたような冷気が、石造りの城館全体を包み込んでいる。
受け入れの準備は、完璧に整っていた。
西翼の貴賓室の暖炉には赤々と炭火が熾され、部屋は柔らかな温もりに満ちている。厨房からは香草と肉の出汁の豊かな香りが漂い、厩には真新しい寝藁が敷き詰められ、兵舎の空き部屋も整然と掃き清められていた。
城の大玄関ホールには、正装した家僕や侍女たちが整列し、静かな緊張の中で客人の到着を待っている。
エレノアは、公爵夫人としての正装である深い濃紺のドレスを纏い、その上に防寒用の厚手の毛皮付き外套を羽織っていた。
玄関ホールの大きな鏡の前で立ち止まり、身なりを確かめる。
その背後に、同じく黒の正装と重厚な外套を身にまとったヴィクトルが歩み寄ってきた。
「エレノア」
ヴィクトルの手が伸び、エレノアの首元へと添えられた。
外套の襟がわずかに折れ曲がっていたのを、彼の手が丁寧に直していく。冷たい外気が首筋に入り込まないよう、銀の留め具の位置を確かめ、肩にかかる柔らかな毛皮の毛並みを整えてくれた。
無骨で、剣を握るために硬くなった指先。だが、布地を直すその手つきは驚くほど優しく、細やかだった。
「ありがとう」
エレノアは見上げ、今度は自分の手をヴィクトルの胸元へと伸ばした。
彼の厚い外套の折り返しに手を添え、左右の打ち合わせの歪みを正す。胸元に光るノルデンフェルト家の紋章の留め針がまっすぐ前を向くよう、指先で微調整した。
布地越しに、夫の力強い鼓動が手のひらに伝わってくる。
「あなたも、完璧よ」
エレノアが言うと、ヴィクトルは満足そうに口端をわずかに持ち上げた。
「お前が整えてくれたおかげだ」
そのとき、遠く城門の物見櫓から、澄み渡るような角笛の音が響き渡った。
低く、長く、空気を震わせる合図。
セルヴェ大橋を渡り、街道を進んできた使節団の車列が、城下の第一関門を通過した合図だった。
玄関ホールの空気が、一気に引き締まる。従僕たちの背筋が伸び、重々しい沈黙が広がった。
「来たな」
ヴィクトルが呟き、エレノアに腕を差し出した。
エレノアは迷わず、その逞しい腕に自分の手を添えた。
ヴェルノワの王太子アルベール。第二王子テオドール。そして侯爵令嬢ミレーヌ。
彼らがどのような意図を持ち、この厳しい北辺の地に何を求めてやってくるのか、まだ何も分からない。橋をめぐる交渉が、穏やかに終わる保証もない。
だが、エレノアの心に揺らぎはなかった。
備えはすべて終えた。そして自分の隣には、同じ重荷を分かち合う夫がいる。
重厚な玄関の扉が、外気に向かって音を立てて開き始めた。
冷たい風とともに、舞い散る白い雪のひとひらが、ホールの石床へと滑り込んでくる。
遠くから、雪を踏みしめる多数の馬蹄の音が、確かに近づいていた。




