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婚約者も功績も妹に奪われた私は、死ぬと噂の北辺公爵に嫁ぐことになりました 〜愛のない結婚のはずが、冷酷な夫は私を手放してくれない〜  作者: 師走
第11章 この先を、あなたと

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第52話

初夏に入っても、北辺の朝はまだ少し冷えた。


その日エレノアは、北街道沿いの小村まで出ていた。


油布の届き方と、春先に崩れた荷置き場の仮補修を見に行くためだ。大げさな視察ではない。馬車も小さく、供はリネットと護衛が二人だけ。けれど道が乾ききる前に見ておいたほうがいい場所だった。


村では、まだ若い母親が抱いた子の咳が少し気になった。

油布は思ったより傷んでいた。

荷置き場の床板も、夏の雨が来る前にもう一度打ち直したほうがよさそうだった。


帳面へ書きつけることは多い。

それでも帰りの馬車へ乗り込んだ時、体は重くなかった。


役に立ったから、ではない。


北辺での一日は、必要なことが必要な形で前へ進む。

それが今のエレノアには、王都のどんな晴れやかな空気より落ち着いた。


帰り道、山の向こうへ日が傾きはじめる。


窓の外では、まだ若い緑が風に揺れていた。冬の名残はもうほとんどない。けれど道の端の石だけは、夕方になると早く冷える。


「少し急ぎましょうか」

リネットが外の空を見て言う。

「日が落ちると冷えます」

「ええ」


護衛が馬を少し速める。


その時、エレノアはふと気づいた。


昔なら、どこかへ出て戻る時、いつも小さな緊張があった。

帰った先で何を言われるか。

どの顔色をうかがうべきか。

何を先に差し出せば、今日が穏やかに終わるか。


今は違う。


本邸の屋根が見えてきた時、胸へ上がってきたのは緊張ではなかった。

ああ、帰るのだ、というただそれだけの感覚だった。


北辺公爵邸の石壁が夕暮れの光を受けている。

中庭の門が見え、乾燥庫の煙突から細く煙が立ちのぼる。

洗い場の戸はもう閉まりかけ、厩舎の前では馬番が最後の水桶を片づけていた。


この屋敷へ。

この灯りの中へ。

この人たちのいる場所へ。


そして、そのいちばん奥へ。


馬車が止まる。


リネットが先に降りようとしたが、外で扉が開く気配がして、動きを止めた。


開いた扉の向こうに、ヴィクトルが立っていた。


たぶん、今戻ったばかりではない。

少し前から玄関の前にいたのだろう。夕方の外気をまとった外套の肩に、薄く土の粉がついている。


「遅い」


最初の言葉はそれだった。


エレノアは思わず少し笑う。


「村で少し」

「聞いている」

「では、遅くなった理由も」

「それでも遅い」


言いながら、ヴィクトルは自然に手を差し出した。


エレノアはその手を取って馬車を降りる。

地面へ足をつけた瞬間、日が落ちきる前の冷えが裾から上がった。けれどそれより早く、ヴィクトルが外套の前を軽く寄せる。


「冷えている」

「まだ大丈夫です」

「大丈夫ではない顔をしている」

「そんなに?」

「分かる」


それだけ言って、ヴィクトルはエレノアの持っていた小さな帳面束を取り上げた。


「公爵様」

「後で見る」

「でも、今日の分を早めに」

「湯が先だ」

「……はい」


昔なら、その一言に素直に従えただろうかと、エレノアはふと思う。


たぶん無理だった。

遠慮して、後回しにして、役目を終えるほうを先に選んだはずだ。


今は違う。


「分かりました」

そう返して、エレノアは玄関へ向かって歩き出した。


ヴィクトルが半歩ぶんだけ先に立つ。

けれど置いていく歩幅ではない。

自然に並べる速さだった。


玄関ホールへ入ると、ちょうどアグネスが奥から出てきた。


「お帰りなさいませ、奥様」

「ただいま」

その一言が、思いのほか自然に口から出た。

アグネスの目がほんの少し和らぐ。

「湯の支度は済んでおります」

「ありがとう」

「リネット、奥様の着替えを」

「はい」


屋敷の中は、夕食前の匂いがする。

スープの湯気、焼いたパン、乾いた木の匂い。

どれももう見知らぬものではない。


エレノアは階段へ足を向けかけて、ふと振り返った。


ヴィクトルはまだ玄関ホールに立っている。帳面束を片手に持ち、外套を脱ぎながらこちらを見ていた。


目が合う。


その瞬間、足元が静かに定まった。


王都ではなく。

実家でもなく。

ただ北辺という土地そのものでもなく。


自分が帰ってきたかったのは、たぶんこの人のいる場所なのだ。


エレノアは小さく息を吸う。


「公爵様」

「何だ」

「……ただいま戻りました」


言い直すと、ヴィクトルの動きがかすかに止まった。


長い沈黙ではなかった。

けれど、その一拍だけが妙に深い。


やがて、彼はひどく静かな声で言う。


「――エレノア」


その名前は、短く落ちた。


何度も呼ばれたわけではない。

たった一度。

それだけなのに、冬のあいだ積もっていた冷えが、音もなくほどけるみたいだった。


エレノアは返事をするのを忘れたまま、ただその声を聞いていた。


ヴィクトルはいつも通りの顔に戻り、帳面束を持ち直す。


「早く行け。冷える」

「……はい」


ようやくそれだけ返して、エレノアは階段を上がる。


足は軽いのに、息だけがひどく熱い。

振り返りたくなるのをこらえながら、二階の踊り場まで進む。

そこで一度だけ下を見ると、ヴィクトルはもう執務室のほうへ向かっていた。


いつもの背中だった。

けれど、もう昔と同じには見えない。


エレノアは手すりへそっと指を置く。


北辺の夜が降りてくる。

乾いた風。

暖炉の火。

働く人の足音。

この屋敷の中にある、たしかな暮らし。


階下で、ヴィクトルの低い声がした。

アグネスが返事をし、リネットが小さく笑う。


エレノアは手すりへ指を置いたまま、玄関の灯りをもう一度見下ろした。

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― 新着の感想 ―
ありがとうございます。52話はほのぼのしていて良かったと思います。
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