第52話
初夏に入っても、北辺の朝はまだ少し冷えた。
その日エレノアは、北街道沿いの小村まで出ていた。
油布の届き方と、春先に崩れた荷置き場の仮補修を見に行くためだ。大げさな視察ではない。馬車も小さく、供はリネットと護衛が二人だけ。けれど道が乾ききる前に見ておいたほうがいい場所だった。
村では、まだ若い母親が抱いた子の咳が少し気になった。
油布は思ったより傷んでいた。
荷置き場の床板も、夏の雨が来る前にもう一度打ち直したほうがよさそうだった。
帳面へ書きつけることは多い。
それでも帰りの馬車へ乗り込んだ時、体は重くなかった。
役に立ったから、ではない。
北辺での一日は、必要なことが必要な形で前へ進む。
それが今のエレノアには、王都のどんな晴れやかな空気より落ち着いた。
帰り道、山の向こうへ日が傾きはじめる。
窓の外では、まだ若い緑が風に揺れていた。冬の名残はもうほとんどない。けれど道の端の石だけは、夕方になると早く冷える。
「少し急ぎましょうか」
リネットが外の空を見て言う。
「日が落ちると冷えます」
「ええ」
護衛が馬を少し速める。
その時、エレノアはふと気づいた。
昔なら、どこかへ出て戻る時、いつも小さな緊張があった。
帰った先で何を言われるか。
どの顔色をうかがうべきか。
何を先に差し出せば、今日が穏やかに終わるか。
今は違う。
本邸の屋根が見えてきた時、胸へ上がってきたのは緊張ではなかった。
ああ、帰るのだ、というただそれだけの感覚だった。
北辺公爵邸の石壁が夕暮れの光を受けている。
中庭の門が見え、乾燥庫の煙突から細く煙が立ちのぼる。
洗い場の戸はもう閉まりかけ、厩舎の前では馬番が最後の水桶を片づけていた。
この屋敷へ。
この灯りの中へ。
この人たちのいる場所へ。
そして、そのいちばん奥へ。
馬車が止まる。
リネットが先に降りようとしたが、外で扉が開く気配がして、動きを止めた。
開いた扉の向こうに、ヴィクトルが立っていた。
たぶん、今戻ったばかりではない。
少し前から玄関の前にいたのだろう。夕方の外気をまとった外套の肩に、薄く土の粉がついている。
「遅い」
最初の言葉はそれだった。
エレノアは思わず少し笑う。
「村で少し」
「聞いている」
「では、遅くなった理由も」
「それでも遅い」
言いながら、ヴィクトルは自然に手を差し出した。
エレノアはその手を取って馬車を降りる。
地面へ足をつけた瞬間、日が落ちきる前の冷えが裾から上がった。けれどそれより早く、ヴィクトルが外套の前を軽く寄せる。
「冷えている」
「まだ大丈夫です」
「大丈夫ではない顔をしている」
「そんなに?」
「分かる」
それだけ言って、ヴィクトルはエレノアの持っていた小さな帳面束を取り上げた。
「公爵様」
「後で見る」
「でも、今日の分を早めに」
「湯が先だ」
「……はい」
昔なら、その一言に素直に従えただろうかと、エレノアはふと思う。
たぶん無理だった。
遠慮して、後回しにして、役目を終えるほうを先に選んだはずだ。
今は違う。
「分かりました」
そう返して、エレノアは玄関へ向かって歩き出した。
ヴィクトルが半歩ぶんだけ先に立つ。
けれど置いていく歩幅ではない。
自然に並べる速さだった。
玄関ホールへ入ると、ちょうどアグネスが奥から出てきた。
「お帰りなさいませ、奥様」
「ただいま」
その一言が、思いのほか自然に口から出た。
アグネスの目がほんの少し和らぐ。
「湯の支度は済んでおります」
「ありがとう」
「リネット、奥様の着替えを」
「はい」
屋敷の中は、夕食前の匂いがする。
スープの湯気、焼いたパン、乾いた木の匂い。
どれももう見知らぬものではない。
エレノアは階段へ足を向けかけて、ふと振り返った。
ヴィクトルはまだ玄関ホールに立っている。帳面束を片手に持ち、外套を脱ぎながらこちらを見ていた。
目が合う。
その瞬間、足元が静かに定まった。
王都ではなく。
実家でもなく。
ただ北辺という土地そのものでもなく。
自分が帰ってきたかったのは、たぶんこの人のいる場所なのだ。
エレノアは小さく息を吸う。
「公爵様」
「何だ」
「……ただいま戻りました」
言い直すと、ヴィクトルの動きがかすかに止まった。
長い沈黙ではなかった。
けれど、その一拍だけが妙に深い。
やがて、彼はひどく静かな声で言う。
「――エレノア」
その名前は、短く落ちた。
何度も呼ばれたわけではない。
たった一度。
それだけなのに、冬のあいだ積もっていた冷えが、音もなくほどけるみたいだった。
エレノアは返事をするのを忘れたまま、ただその声を聞いていた。
ヴィクトルはいつも通りの顔に戻り、帳面束を持ち直す。
「早く行け。冷える」
「……はい」
ようやくそれだけ返して、エレノアは階段を上がる。
足は軽いのに、息だけがひどく熱い。
振り返りたくなるのをこらえながら、二階の踊り場まで進む。
そこで一度だけ下を見ると、ヴィクトルはもう執務室のほうへ向かっていた。
いつもの背中だった。
けれど、もう昔と同じには見えない。
エレノアは手すりへそっと指を置く。
北辺の夜が降りてくる。
乾いた風。
暖炉の火。
働く人の足音。
この屋敷の中にある、たしかな暮らし。
階下で、ヴィクトルの低い声がした。
アグネスが返事をし、リネットが小さく笑う。
エレノアは手すりへ指を置いたまま、玄関の灯りをもう一度見下ろした。




