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婚約者も功績も妹に奪われた私は、死ぬと噂の北辺公爵に嫁ぐことになりました 〜愛のない結婚のはずが、冷酷な夫は私を手放してくれない〜  作者: 師走
第11章 この先を、あなたと

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第51話

北辺へ戻る頃には、雪はもう高いところにしか残っていなかった。


山の影と、石垣の際と、北向きの窪み。そういう場所にだけ白が細く残り、その代わり地面のあちこちから短い草が顔を出しはじめている。春というより、ようやく冬の手が離れたのだと分かる景色だった。


本邸の裏手では、乾燥庫の戸が朝から開いていた。


薬草を吊るす縄の位置を少し上げたいのだと、アグネスが言う。湿り気が残る日は風の通りが変わるからだ。エレノアは乾燥庫の中を一巡りして、吊るした束の間隔を見た。


「この列だけ、一つおきにしてください」

「中央を?」

「ええ。今は詰めすぎると乾きが遅いわ」

「量は減ります」

「そのぶん、下の棚を半分空けて。薄い葉だけ先に回せば足ります」


アグネスは少し考え、それから短く頷いた。


「分かりました」

そう言ってから、もう一度縄の列を見上げる。

「……奥様」

「なに」

「去年なら、私は今の返事をしなかったでしょうね」

エレノアは思わず目を瞬いた。

「ええ、知ってるわ」

「知っておられるなら結構です」


言い方は相変わらずだった。

けれど、声の芯にあった壁だけがもうない。


乾燥庫を出ると、初夏の風が少し頬へ当たった。


北辺の夏は王都のように柔らかくない。日差しが出ても空気はからりとしていて、朝夕はまだ上着が要る。それでも、冬を越えたあとの匂いがする。濡れた土と、若い葉と、乾いていく木の匂いだ。


中庭の向こうでは、ミアたちが洗い場の桶を運んでいた。


今ではもう、あの子たちはエレノアを見ても怯えない。礼はきちんと取る。けれど、そのあとで仕事の続きを止めない。必要なら声もかける。


「奥様、北棟の予備札、一枚だけ端が割れました」

「昼のうちに替えましょう」

「はい」


それだけのやり取りが、もう特別ではなくなっている。


エレノアはそのことが、ときどきまだ不思議だった。


役に立つから置かれているのではなく、役目も位置も含めて、もうこの屋敷の中にある。そう思う瞬間が、少しずつ増えている。


昼を少し過ぎた頃、マルタの部屋へ顔を出した。


吹雪の夜に熱へ伏せた人は、今ではもうすっかり元気だ。窓辺の椅子に座って針を動かし、若い下働きの裾を直していた。


「またそんな細かいことを」

「細かいことほど、先にやっておくんですよ」

「マルタが言うと重いわ」

「重くしているんです」


そう言いながらも、マルタは針を置いてエレノアの顔を見る。


「お疲れですか」

「そう見える?」

「少し」

「乾燥庫へ行ってきただけよ」

「乾燥庫へ行って、洗い場を見て、北棟を回って、そのあと帳場でしょう」

「……見ていたのね」

「見なくても分かります」


その返しに、エレノアは少し笑った。


「午後は帳場へ行く前にお茶をお飲みなさい」

「命令?」

「助言です」

「似たようなものだわ」

「違いませんかねえ」


マルタの部屋を出ると、廊下の向こうから老家令が来た。


「奥様」

「どうしました」

「帳場の前に一つだけ。北街道の宿場から、夏前の油布が少し前倒しで届くそうです」

「予定より早いのですね」

「はい」

「でしたら、南倉ではなく東の中倉へ。あちらのほうが乾いています」

「承知いたしました」


それももう、当たり前のように受け取られる。


北辺へ来たばかりの頃には考えられなかったことだった。


帳場を出る頃には、日が少し傾きはじめていた。


窓の外では使用人たちが夕方の水を運び、馬番が厩舎の戸を閉めるところだった。屋敷の一日が、冬ほど切迫してはいない速さで、それでも無駄なく夜へ向かっていく。


エレノアは帳面を閉じ、ようやく息をつく。


王都から戻ってしばらくは、朝になるたびどこか肩が強張っていた。呼び出しが来るかもしれない、監査がどう進むか、あの家が何をしてくるか。頭の隅では今も完全には消えていない。


それでも、日々の手触りは北辺のほうが正直だった。


乾くか乾かないか。

足りるか足りないか。

人が冷えるか、持ち直すか。


そういうもののほうが、エレノアにはずっと分かりやすい。


帳場を出て廊下を曲がると、窓の外に見慣れた背があった。


ヴィクトルだ。


中庭の端で、荷運びの下男に何か言っている。声は届かない。けれど、相手がすぐに背を伸ばし、箱の置き方を直したので、指示の中身は分かった。


決断し、守り、通す男。


北辺へ来たばかりの頃は、その役目の冷たさばかりが目についた。今は違う。冷たさではなく、揺れないほうの強さだと分かる。


ヴィクトルが顔を上げ、帳場の窓越しにエレノアを見つけた。


何でもないように、ただ一度だけ目が合う。


それだけなのに、張りつめていた息が少しほどける。


エレノアは部屋を出て、玄関ホールへ向かった。


まだ夕食には少し早い。

けれど、自然と足がそちらへ向く。


帰る、という言葉が喉元まで来て、まだ口にはしないまま飲み込んだ。


玄関の戸が開き、ヴィクトルが入ってくる。

外気を少しまとったまま、エレノアを見て足を止めた。


「終わったか」

「ええ」

「遅い」

「帳場が少し」

「聞いている」


短いやり取りだった。


昔なら、それで終わっていただろう。

けれど今は、そのあとにごく自然な沈黙が続く。追い払われるわけでもなく、説明を求められるわけでもない。ただ、同じ屋根の下へ戻ってきた者同士の沈黙だ。


ヴィクトルが言う。


「夕食はすぐだ」

「はい」

「先に湯へ入れ」

「公爵様は」

「あとでいい」

「でも」

「お前が先だ」


その言い方が、もう昔の「愛はいらない」と同じ場所にはないことを、エレノアは説明されなくても知っていた。


北辺の夕方の光が、玄関ホールの石床へ長く伸びている。


エレノアは小さく頷いた。


「分かりました」

それから一歩だけ、ヴィクトルの隣へ寄る。

呼ばれたからではなく、前へ出るでもなく、ただそうしたかったから。


ヴィクトルは何も言わなかった。

だが、少し歩幅を緩める。


二人で廊下を進む。

その静けさが、もう不自然ではなかった。

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― 新着の感想 ―
2日続けての更新ありがとうございます。楽しめましたし嬉しく思っています・・ヴイクトル様やさしい。
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