第51話
北辺へ戻る頃には、雪はもう高いところにしか残っていなかった。
山の影と、石垣の際と、北向きの窪み。そういう場所にだけ白が細く残り、その代わり地面のあちこちから短い草が顔を出しはじめている。春というより、ようやく冬の手が離れたのだと分かる景色だった。
本邸の裏手では、乾燥庫の戸が朝から開いていた。
薬草を吊るす縄の位置を少し上げたいのだと、アグネスが言う。湿り気が残る日は風の通りが変わるからだ。エレノアは乾燥庫の中を一巡りして、吊るした束の間隔を見た。
「この列だけ、一つおきにしてください」
「中央を?」
「ええ。今は詰めすぎると乾きが遅いわ」
「量は減ります」
「そのぶん、下の棚を半分空けて。薄い葉だけ先に回せば足ります」
アグネスは少し考え、それから短く頷いた。
「分かりました」
そう言ってから、もう一度縄の列を見上げる。
「……奥様」
「なに」
「去年なら、私は今の返事をしなかったでしょうね」
エレノアは思わず目を瞬いた。
「ええ、知ってるわ」
「知っておられるなら結構です」
言い方は相変わらずだった。
けれど、声の芯にあった壁だけがもうない。
乾燥庫を出ると、初夏の風が少し頬へ当たった。
北辺の夏は王都のように柔らかくない。日差しが出ても空気はからりとしていて、朝夕はまだ上着が要る。それでも、冬を越えたあとの匂いがする。濡れた土と、若い葉と、乾いていく木の匂いだ。
中庭の向こうでは、ミアたちが洗い場の桶を運んでいた。
今ではもう、あの子たちはエレノアを見ても怯えない。礼はきちんと取る。けれど、そのあとで仕事の続きを止めない。必要なら声もかける。
「奥様、北棟の予備札、一枚だけ端が割れました」
「昼のうちに替えましょう」
「はい」
それだけのやり取りが、もう特別ではなくなっている。
エレノアはそのことが、ときどきまだ不思議だった。
役に立つから置かれているのではなく、役目も位置も含めて、もうこの屋敷の中にある。そう思う瞬間が、少しずつ増えている。
昼を少し過ぎた頃、マルタの部屋へ顔を出した。
吹雪の夜に熱へ伏せた人は、今ではもうすっかり元気だ。窓辺の椅子に座って針を動かし、若い下働きの裾を直していた。
「またそんな細かいことを」
「細かいことほど、先にやっておくんですよ」
「マルタが言うと重いわ」
「重くしているんです」
そう言いながらも、マルタは針を置いてエレノアの顔を見る。
「お疲れですか」
「そう見える?」
「少し」
「乾燥庫へ行ってきただけよ」
「乾燥庫へ行って、洗い場を見て、北棟を回って、そのあと帳場でしょう」
「……見ていたのね」
「見なくても分かります」
その返しに、エレノアは少し笑った。
「午後は帳場へ行く前にお茶をお飲みなさい」
「命令?」
「助言です」
「似たようなものだわ」
「違いませんかねえ」
マルタの部屋を出ると、廊下の向こうから老家令が来た。
「奥様」
「どうしました」
「帳場の前に一つだけ。北街道の宿場から、夏前の油布が少し前倒しで届くそうです」
「予定より早いのですね」
「はい」
「でしたら、南倉ではなく東の中倉へ。あちらのほうが乾いています」
「承知いたしました」
それももう、当たり前のように受け取られる。
北辺へ来たばかりの頃には考えられなかったことだった。
帳場を出る頃には、日が少し傾きはじめていた。
窓の外では使用人たちが夕方の水を運び、馬番が厩舎の戸を閉めるところだった。屋敷の一日が、冬ほど切迫してはいない速さで、それでも無駄なく夜へ向かっていく。
エレノアは帳面を閉じ、ようやく息をつく。
王都から戻ってしばらくは、朝になるたびどこか肩が強張っていた。呼び出しが来るかもしれない、監査がどう進むか、あの家が何をしてくるか。頭の隅では今も完全には消えていない。
それでも、日々の手触りは北辺のほうが正直だった。
乾くか乾かないか。
足りるか足りないか。
人が冷えるか、持ち直すか。
そういうもののほうが、エレノアにはずっと分かりやすい。
帳場を出て廊下を曲がると、窓の外に見慣れた背があった。
ヴィクトルだ。
中庭の端で、荷運びの下男に何か言っている。声は届かない。けれど、相手がすぐに背を伸ばし、箱の置き方を直したので、指示の中身は分かった。
決断し、守り、通す男。
北辺へ来たばかりの頃は、その役目の冷たさばかりが目についた。今は違う。冷たさではなく、揺れないほうの強さだと分かる。
ヴィクトルが顔を上げ、帳場の窓越しにエレノアを見つけた。
何でもないように、ただ一度だけ目が合う。
それだけなのに、張りつめていた息が少しほどける。
エレノアは部屋を出て、玄関ホールへ向かった。
まだ夕食には少し早い。
けれど、自然と足がそちらへ向く。
帰る、という言葉が喉元まで来て、まだ口にはしないまま飲み込んだ。
玄関の戸が開き、ヴィクトルが入ってくる。
外気を少しまとったまま、エレノアを見て足を止めた。
「終わったか」
「ええ」
「遅い」
「帳場が少し」
「聞いている」
短いやり取りだった。
昔なら、それで終わっていただろう。
けれど今は、そのあとにごく自然な沈黙が続く。追い払われるわけでもなく、説明を求められるわけでもない。ただ、同じ屋根の下へ戻ってきた者同士の沈黙だ。
ヴィクトルが言う。
「夕食はすぐだ」
「はい」
「先に湯へ入れ」
「公爵様は」
「あとでいい」
「でも」
「お前が先だ」
その言い方が、もう昔の「愛はいらない」と同じ場所にはないことを、エレノアは説明されなくても知っていた。
北辺の夕方の光が、玄関ホールの石床へ長く伸びている。
エレノアは小さく頷いた。
「分かりました」
それから一歩だけ、ヴィクトルの隣へ寄る。
呼ばれたからではなく、前へ出るでもなく、ただそうしたかったから。
ヴィクトルは何も言わなかった。
だが、少し歩幅を緩める。
二人で廊下を進む。
その静けさが、もう不自然ではなかった。




