第50話
王都での滞在が終わりに近づいたのは、監査の人間がアシュベリー侯爵家へ正式に入ったと知らされた翌日のことだった。
王都屋敷の執務室には、帰路の行程表がもう広げられている。来た時と同じ街道を戻るのに、今は北辺までの距離より、王都へ置いていくもののほうが重く見えた。
エレノアが呼ばれて部屋へ入ると、ヴィクトルは机上の書類から顔を上げた。
「座れ」
「はい」
窓の外では、王都の庭師が春先の枝を払っている。柔らかな日差しなのに、枝の影だけはまだ冬の細さを残していた。
ヴィクトルは書類を一枚脇へ寄せる。
「明後日、北辺へ戻る」
「はい」
「王都での公務はそれで切る」
「分かりました」
そこで話は終わると思った。
けれどヴィクトルは続ける。
「お前は残ってもいい」
エレノアは目を瞬いた。
「……王都に、ですか」
「ああ」
「なぜ」
「監査の関係で呼ばれるなら、王都のほうが近い」
短い言葉を置く。
「北辺まで戻れば、また往復に日を食う」
「でも、私は」
「無理に連れ帰るつもりはない」
その言い方が、静かに残る。
最初に北辺へ向かう時もそうだった。
王都へ出る時もそうだった。
この人は肝心な場面で、先に逃げ道を渡す。
だからこそ、今の問いは重かった。
王都に残る。
公爵家の王都屋敷なら、立場も安全もある。監査の呼び出しにも応じやすい。実家に近いぶん、傷は増えるかもしれない。けれど遠さを言い訳にせずに済む道でもある。
合理だけを考えるなら、悪くない話だった。
エレノアは視線を落とした。
王都に残った自分を、一度だけ想像してみる。
王都屋敷の窓。
呼び出しの書状。
監査の進み具合。
そして、北辺の朝の冷え、洗い場の湯気、マルタの低い声、アグネスのきびきびした足音、北棟の札。
思い浮かぶものの質が、もう違っていた。
「……残りません」
口にすると、自分でも驚くほど迷いがなかった。
ヴィクトルは何も言わない。
エレノアは顔を上げる。
「王都にいるほうが都合はいいのかもしれません」
「……」
「でも、私は戻ります」
「役目だからか」
その問いに、エレノアはほんの首を振った。
もう、役目だけでは足りないと思った。
「いいえ」
喉の奥が少し熱い。
「北辺へ帰りたいのです」
ヴィクトルの目が、かすかに細くなる。
「帰る」
「……はい」
「王都ではなく」
「ええ」
一拍置く。
「私は、もうあの家へ戻る気はありません」
「そうだろうな」
「王都の屋敷へ残ることも、できます。でも」
言葉を探す。
「それは、私が自分でまた半歩下がる選び方に思えてしまうのです」
執務室の空気は静かだった。
ヴィクトルは急かさない。
だから、最後まで言えた。
「公爵様が前に立って、私は王都で後から追いかける」
エレノアは膝の上で手を重ねる。
「それでは、また同じです」
「同じ?」
「私はすぐ、役目が済んだら消える側へ戻ろうとしますから」
ヴィクトルの視線がまっすぐ落ちる。
痛いところを、自分でようやく認めた。
それでも、今日は逸らしたくなかった。
「ですから」
エレノアは静かに息を吸う。
「私は北辺へ戻ります」
「……」
「公爵様の後ろへ下がるのではなく」
そこで、ほんの少しためらう。
けれどもう言うしかない。
「あなたの隣で、戻りたいのです」
部屋の中の音が、遠く引いた。
ヴィクトルはしばらく動かなかった。
表情もほとんど変わらない。
なのに、目だけが少し違った。
やがて、低く言う。
「そうか」
それだけだった。
けれど、その二文字のあとに長い沈黙は続かなかった。
ヴィクトルは机上の行程表へ手を戻す。
「では、予定はそのままだ」
「……はい」
「北辺へ戻る」
「ええ」
「道中、無理はするな」
「はい」
「王都の件は老家令と私で拾う。呼びが来ればその時考える」
「分かりました」
それで話は済んだはずなのに、エレノアは立ち上がれなかった。
帰りたい。
隣で戻りたい。
そう言ってしまったのが、遅れて胸へ戻ってくる。
ヴィクトルはそんなこちらを見て、ひどく短く言った。
「顔が赤い」
「……知っています」
「なら戻れ」
「はい」
「支度をしておけ」
「ええ」
部屋を出ると、廊下の空気が少し軽く感じた。
リネットはそれだけで何かを察したらしい。支度の最中、衣装箱を閉じながらそっと聞く。
「お嬢様、戻られるのですね」
「ええ」
「よかった」
「そんなに?」
「はい」
リネットはまっすぐ頷く。
「お嬢様が北辺のお話をなさる時だけ、お顔が違いますもの」
エレノアは思わず手を止める。
「そんなに分かる?」
「分かります」
その返しに、少し笑ってしまった。
翌朝、出立は早かった。
王都屋敷の玄関前には馬車が並び、護衛ももう整っている。王都の使用人たちが一礼して見送りに並ぶ中、荷は無駄なく積まれ、北辺のやり方そのままで準備が進んでいた。
リネットが最後に外套の襟を整える。
「冷えますから」
「ええ」
「もう少し」
「大丈夫」
「たぶん、ではなく」
その言い方に、エレノアは小さく笑う。
「大丈夫よ」
玄関の階段を下りた時、ヴィクトルがちょうど外へ出てきた。
護衛へ短く指示を飛ばし、馬の具合を一目見る。その横顔を見た瞬間、エレノアはもう迷わなかった。
昔なら、少し離れた場所で待っただろう。
呼ばれてから近づいたかもしれない。
目立たぬように、邪魔にならぬように。
けれど今は違う。
エレノアは自分から歩き、ヴィクトルの隣へ立った。
呼ばれる前に。
促される前に。
自分で選んで。
ヴィクトルが視線だけを寄越す。
「……そこか」
「ええ」
エレノアは外套の前を静かに押さえる。
「ここにいます」
その返事に、ヴィクトルの目がかすかに和らいだように見えた。
気のせいかもしれない。
それでも十分だった。
彼はそれ以上何も言わず、自然に手を差し出す。
エレノアはその手を取り、馬車の踏み台へ足をかけた。
今度は、ただ差し出されたから取ったのではない。
自分でその隣を選んだあとで、取った手だった。
馬車へ乗り込む直前、王都屋敷の門の向こうに、朝の光が広がっていた。
その先には長い街道がある。
北辺へ続く道が。
エレノアは振り返らなかった。
馬車の窓の向こうで、王都の門がゆっくり遠ざかっていく。
彼女はヴィクトルの隣へ腰を下ろした。




