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婚約者も功績も妹に奪われた私は、死ぬと噂の北辺公爵に嫁ぐことになりました 〜愛のない結婚のはずが、冷酷な夫は私を手放してくれない〜  作者: 師走
第11章 この先を、あなたと

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第50話

王都での滞在が終わりに近づいたのは、監査の人間がアシュベリー侯爵家へ正式に入ったと知らされた翌日のことだった。


王都屋敷の執務室には、帰路の行程表がもう広げられている。来た時と同じ街道を戻るのに、今は北辺までの距離より、王都へ置いていくもののほうが重く見えた。


エレノアが呼ばれて部屋へ入ると、ヴィクトルは机上の書類から顔を上げた。


「座れ」

「はい」


窓の外では、王都の庭師が春先の枝を払っている。柔らかな日差しなのに、枝の影だけはまだ冬の細さを残していた。


ヴィクトルは書類を一枚脇へ寄せる。


「明後日、北辺へ戻る」

「はい」

「王都での公務はそれで切る」

「分かりました」


そこで話は終わると思った。


けれどヴィクトルは続ける。


「お前は残ってもいい」

エレノアは目を瞬いた。

「……王都に、ですか」

「ああ」

「なぜ」

「監査の関係で呼ばれるなら、王都のほうが近い」

短い言葉を置く。

「北辺まで戻れば、また往復に日を食う」

「でも、私は」

「無理に連れ帰るつもりはない」


その言い方が、静かに残る。


最初に北辺へ向かう時もそうだった。

王都へ出る時もそうだった。

この人は肝心な場面で、先に逃げ道を渡す。


だからこそ、今の問いは重かった。


王都に残る。

公爵家の王都屋敷なら、立場も安全もある。監査の呼び出しにも応じやすい。実家に近いぶん、傷は増えるかもしれない。けれど遠さを言い訳にせずに済む道でもある。


合理だけを考えるなら、悪くない話だった。


エレノアは視線を落とした。


王都に残った自分を、一度だけ想像してみる。

王都屋敷の窓。

呼び出しの書状。

監査の進み具合。

そして、北辺の朝の冷え、洗い場の湯気、マルタの低い声、アグネスのきびきびした足音、北棟の札。


思い浮かぶものの質が、もう違っていた。


「……残りません」

口にすると、自分でも驚くほど迷いがなかった。


ヴィクトルは何も言わない。


エレノアは顔を上げる。


「王都にいるほうが都合はいいのかもしれません」

「……」

「でも、私は戻ります」

「役目だからか」

その問いに、エレノアはほんの首を振った。


もう、役目だけでは足りないと思った。


「いいえ」

喉の奥が少し熱い。

「北辺へ帰りたいのです」

ヴィクトルの目が、かすかに細くなる。

「帰る」

「……はい」

「王都ではなく」

「ええ」

一拍置く。

「私は、もうあの家へ戻る気はありません」

「そうだろうな」

「王都の屋敷へ残ることも、できます。でも」

言葉を探す。

「それは、私が自分でまた半歩下がる選び方に思えてしまうのです」


執務室の空気は静かだった。


ヴィクトルは急かさない。

だから、最後まで言えた。


「公爵様が前に立って、私は王都で後から追いかける」

エレノアは膝の上で手を重ねる。

「それでは、また同じです」

「同じ?」

「私はすぐ、役目が済んだら消える側へ戻ろうとしますから」


ヴィクトルの視線がまっすぐ落ちる。


痛いところを、自分でようやく認めた。

それでも、今日は逸らしたくなかった。


「ですから」

エレノアは静かに息を吸う。

「私は北辺へ戻ります」

「……」

「公爵様の後ろへ下がるのではなく」

そこで、ほんの少しためらう。

けれどもう言うしかない。

「あなたの隣で、戻りたいのです」


部屋の中の音が、遠く引いた。


ヴィクトルはしばらく動かなかった。

表情もほとんど変わらない。

なのに、目だけが少し違った。


やがて、低く言う。


「そうか」

それだけだった。


けれど、その二文字のあとに長い沈黙は続かなかった。


ヴィクトルは机上の行程表へ手を戻す。


「では、予定はそのままだ」

「……はい」

「北辺へ戻る」

「ええ」

「道中、無理はするな」

「はい」

「王都の件は老家令と私で拾う。呼びが来ればその時考える」

「分かりました」


それで話は済んだはずなのに、エレノアは立ち上がれなかった。


帰りたい。

隣で戻りたい。


そう言ってしまったのが、遅れて胸へ戻ってくる。


ヴィクトルはそんなこちらを見て、ひどく短く言った。


「顔が赤い」

「……知っています」

「なら戻れ」

「はい」

「支度をしておけ」

「ええ」


部屋を出ると、廊下の空気が少し軽く感じた。


リネットはそれだけで何かを察したらしい。支度の最中、衣装箱を閉じながらそっと聞く。


「お嬢様、戻られるのですね」

「ええ」

「よかった」

「そんなに?」

「はい」

リネットはまっすぐ頷く。

「お嬢様が北辺のお話をなさる時だけ、お顔が違いますもの」

エレノアは思わず手を止める。

「そんなに分かる?」

「分かります」


その返しに、少し笑ってしまった。


翌朝、出立は早かった。


王都屋敷の玄関前には馬車が並び、護衛ももう整っている。王都の使用人たちが一礼して見送りに並ぶ中、荷は無駄なく積まれ、北辺のやり方そのままで準備が進んでいた。


リネットが最後に外套の襟を整える。


「冷えますから」

「ええ」

「もう少し」

「大丈夫」

「たぶん、ではなく」

その言い方に、エレノアは小さく笑う。

「大丈夫よ」


玄関の階段を下りた時、ヴィクトルがちょうど外へ出てきた。


護衛へ短く指示を飛ばし、馬の具合を一目見る。その横顔を見た瞬間、エレノアはもう迷わなかった。


昔なら、少し離れた場所で待っただろう。

呼ばれてから近づいたかもしれない。

目立たぬように、邪魔にならぬように。


けれど今は違う。


エレノアは自分から歩き、ヴィクトルの隣へ立った。


呼ばれる前に。

促される前に。

自分で選んで。


ヴィクトルが視線だけを寄越す。


「……そこか」

「ええ」


エレノアは外套の前を静かに押さえる。


「ここにいます」

その返事に、ヴィクトルの目がかすかに和らいだように見えた。

気のせいかもしれない。

それでも十分だった。


彼はそれ以上何も言わず、自然に手を差し出す。

エレノアはその手を取り、馬車の踏み台へ足をかけた。


今度は、ただ差し出されたから取ったのではない。

自分でその隣を選んだあとで、取った手だった。


馬車へ乗り込む直前、王都屋敷の門の向こうに、朝の光が広がっていた。

その先には長い街道がある。

北辺へ続く道が。


エレノアは振り返らなかった。


馬車の窓の向こうで、王都の門がゆっくり遠ざかっていく。


彼女はヴィクトルの隣へ腰を下ろした。

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― 新着の感想 ―
更新ありがとうございます。エレノア自身も立ち位置を見つけた様で良かったと思います。
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