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婚約者も功績も妹に奪われた私は、死ぬと噂の北辺公爵に嫁ぐことになりました 〜愛のない結婚のはずが、冷酷な夫は私を手放してくれない〜  作者: 師走
第11章 この先を、あなたと

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第49話

その夜、王都屋敷へ戻ってからも、エレノアはなかなか着替えられなかった。


昼の報告の場で言われた言葉が、まだ耳の奥に残っている。


公の場では、私の後ろへ隠れるな。

私の隣にいろ。


部屋の火は穏やかに燃えている。リネットは先に湯の支度へ下がり、鏡台の前にはエレノア一人だけが残っていた。


耳飾りを外し、髪をほどきかける。

最後にネックレスへ指をかけた。


外そうとして、留め具に髪が絡んでいるのに気づく。


「……」


無理に引けば痛む。

けれど外れないほどではない。


首筋の後ろへ手を回し、指先で探る。焦れてもう少し強く引きかけた時、扉が叩かれた。


「入るぞ」


ヴィクトルだった。


返事をするより先に入ってきたが、部屋の中へ深く踏み込まず、鏡台の前のエレノアを見て足を止める。


「どうした」

「いえ、少し髪が」

「動くな」


短く言われ、手が止まる。


ヴィクトルはそのまま近づいてきた。鏡越しに、黒に近い上着の肩が見える。昼の礼装からは少し楽な服に替えているのに、立つ姿の硬さは変わらない。


エレノアの後ろに立つと、ヴィクトルは首筋のあたりを一度だけ見た。


「髪が噛んでいる」

「やはり」

「下手に触るな」


その声のあと、エレノアの手首へ軽く触れる。どけさせるためだけの、短い手つきだった。


鏡の中で、自分の手が膝へ落ちる。

代わりにヴィクトルの指が留め具へかかる。


直した本人だからか、迷いがない。

髪を一本ずつ外し、金具の噛み合わせを確かめる。首筋へ触れる指は必要なぶんだけで、熱を残すような触れ方ではない。それなのに、エレノアはなぜか呼吸を浅くしてしまう。


「前も」

と、ヴィクトルが低く言った。

「こうして手をやったな」

エレノアは目を伏せる。

「……ええ」

「あの部屋で」

ローザリアに貸せと言われ、

父に最後くらい役に立てと言われ、

反射で留め具へ手が伸びた、あの時だ。


ヴィクトルは金具を外さない。

むしろ、いったん緩んだ留め具を正しい位置へ戻し、静かに留め直す。


かちり、と小さな音がした。


その音は、あの日控えの間で外しかけた時より、ずっと静かで、ずっと確かだった。


エレノアは鏡の中を見る。


自分の首には、まだネックレスがある。

外されてもいないし、差し出されてもいない。


ヴィクトルが言う。


「困ると、すぐ外そうとする」

「……」

「その癖をやめろ」


責める声ではなかった。

ただ、もう見過ごさないと決めた声だった。


エレノアは小さく息を吸う。


「簡単には」

「知っている」

「……」

「だから言っている」


ヴィクトルの指が、最後に留め具の上を一度だけ押さえる。


それは確認のための仕草だったはずなのに、エレノアには妙に深く残った。


「首飾りも」

低い声が、鏡越しに落ちる。

「お前の位置もだ」

エレノアは顔を上げる。

鏡の中で、ヴィクトルの目と合った。

「もう譲るな」


その一言で、心臓が静かに鳴った。


大きな慰めではない。

甘い言葉でもない。


けれど、それで足りた。


首飾りも。

位置も。


同じものとして言われたことが、ひどくまっすぐ体へ入ってくる。


エレノアはそっとネックレスへ指を触れた。

今度は外すためではなく、そこにあることを確かめるために。


「……はい」


返事は小さかった。

けれど、ごまかしではなかった。


ヴィクトルはそれ以上何も言わず、一歩だけ下がる。


「湯が冷める前に入れ」

「ええ」

「明日も出る」

「分かっています」

「なら寝不足でふらつくな」

「気をつけます」

「たぶん、ではなく」

エレノアはほんの少し口元をやわらげる。

「気をつけます」


ヴィクトルは短く頷いて、部屋を出ていった。


扉が閉まったあとも、エレノアはしばらく鏡の前から動けなかった。


留め具は、もう静かに留まっている。

あの時みたいに、誰かへ差し出すためのものではなく。

自分でつけて、自分で立つためのものとして。


首筋の後ろへ手をやる。

金具は冷たいはずなのに、今は少し温かく感じた。

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― 新着の感想 ―
更新ありがとうございます。楽しめて読ませて頂いています。
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