第49話
その夜、王都屋敷へ戻ってからも、エレノアはなかなか着替えられなかった。
昼の報告の場で言われた言葉が、まだ耳の奥に残っている。
公の場では、私の後ろへ隠れるな。
私の隣にいろ。
部屋の火は穏やかに燃えている。リネットは先に湯の支度へ下がり、鏡台の前にはエレノア一人だけが残っていた。
耳飾りを外し、髪をほどきかける。
最後にネックレスへ指をかけた。
外そうとして、留め具に髪が絡んでいるのに気づく。
「……」
無理に引けば痛む。
けれど外れないほどではない。
首筋の後ろへ手を回し、指先で探る。焦れてもう少し強く引きかけた時、扉が叩かれた。
「入るぞ」
ヴィクトルだった。
返事をするより先に入ってきたが、部屋の中へ深く踏み込まず、鏡台の前のエレノアを見て足を止める。
「どうした」
「いえ、少し髪が」
「動くな」
短く言われ、手が止まる。
ヴィクトルはそのまま近づいてきた。鏡越しに、黒に近い上着の肩が見える。昼の礼装からは少し楽な服に替えているのに、立つ姿の硬さは変わらない。
エレノアの後ろに立つと、ヴィクトルは首筋のあたりを一度だけ見た。
「髪が噛んでいる」
「やはり」
「下手に触るな」
その声のあと、エレノアの手首へ軽く触れる。どけさせるためだけの、短い手つきだった。
鏡の中で、自分の手が膝へ落ちる。
代わりにヴィクトルの指が留め具へかかる。
直した本人だからか、迷いがない。
髪を一本ずつ外し、金具の噛み合わせを確かめる。首筋へ触れる指は必要なぶんだけで、熱を残すような触れ方ではない。それなのに、エレノアはなぜか呼吸を浅くしてしまう。
「前も」
と、ヴィクトルが低く言った。
「こうして手をやったな」
エレノアは目を伏せる。
「……ええ」
「あの部屋で」
ローザリアに貸せと言われ、
父に最後くらい役に立てと言われ、
反射で留め具へ手が伸びた、あの時だ。
ヴィクトルは金具を外さない。
むしろ、いったん緩んだ留め具を正しい位置へ戻し、静かに留め直す。
かちり、と小さな音がした。
その音は、あの日控えの間で外しかけた時より、ずっと静かで、ずっと確かだった。
エレノアは鏡の中を見る。
自分の首には、まだネックレスがある。
外されてもいないし、差し出されてもいない。
ヴィクトルが言う。
「困ると、すぐ外そうとする」
「……」
「その癖をやめろ」
責める声ではなかった。
ただ、もう見過ごさないと決めた声だった。
エレノアは小さく息を吸う。
「簡単には」
「知っている」
「……」
「だから言っている」
ヴィクトルの指が、最後に留め具の上を一度だけ押さえる。
それは確認のための仕草だったはずなのに、エレノアには妙に深く残った。
「首飾りも」
低い声が、鏡越しに落ちる。
「お前の位置もだ」
エレノアは顔を上げる。
鏡の中で、ヴィクトルの目と合った。
「もう譲るな」
その一言で、心臓が静かに鳴った。
大きな慰めではない。
甘い言葉でもない。
けれど、それで足りた。
首飾りも。
位置も。
同じものとして言われたことが、ひどくまっすぐ体へ入ってくる。
エレノアはそっとネックレスへ指を触れた。
今度は外すためではなく、そこにあることを確かめるために。
「……はい」
返事は小さかった。
けれど、ごまかしではなかった。
ヴィクトルはそれ以上何も言わず、一歩だけ下がる。
「湯が冷める前に入れ」
「ええ」
「明日も出る」
「分かっています」
「なら寝不足でふらつくな」
「気をつけます」
「たぶん、ではなく」
エレノアはほんの少し口元をやわらげる。
「気をつけます」
ヴィクトルは短く頷いて、部屋を出ていった。
扉が閉まったあとも、エレノアはしばらく鏡の前から動けなかった。
留め具は、もう静かに留まっている。
あの時みたいに、誰かへ差し出すためのものではなく。
自分でつけて、自分で立つためのものとして。
首筋の後ろへ手をやる。
金具は冷たいはずなのに、今は少し温かく感じた。




