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婚約者も功績も妹に奪われた私は、死ぬと噂の北辺公爵に嫁ぐことになりました 〜愛のない結婚のはずが、冷酷な夫は私を手放してくれない〜  作者: 師走
第11章 この先を、あなたと

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第48話

その日の午後、王太子への短い報告のため、ふたたび王城へ上がることになった。


夜会ほどの華やかさは要らない。けれど公の場である以上、私的な楽さだけを優先もできない。リネットは淡い灰青のドレスを選び、襟元を整えながら言った。


「今日は座る場でしょうから、昨日より少し軽くてよろしいかと」

「ええ」

「でも、お顔色は軽く見せないほうが」

「お前もアグネスみたいなことを言うのね」

「正しいことは、だいたい似ます」


その返しに、少し肩の力が抜けた。


王城へ向かう馬車の中で、エレノアは窓の外を見ていた。昨日より空は曇っている。春の王都は明るく見えても、風の芯だけはまだ冷たい。


向かいのヴィクトルはいつも通り無駄口をきかない。だが王城が近づいた頃、ふいに言った。


「今日は報告だけだ」

「はい」

「長くは引き留められん」

「ええ」

「だからといって、勝手に端へ寄るな」


エレノアは思わず瞬いた。


昨日の朝の続きなのだと分かる。

分かるのに、こうして場の直前にもう一度言われると、妙に落ち着かなかった。


「気をつけます」

「気をつける、ではなく」

ヴィクトルはそこで言葉を切り、短く言った。

「覚えておけ」

「……はい」


王城へ着くと、案内の侍従がすぐに控えの間へ通した。


今日は王太子夫妻だけではなく、監査に関わる数名の実務官も同席しているらしい。控えの間の空気は昨日の夜会とは違い、華やぎより緊張のほうが濃かった。


名を呼ばれる直前、エレノアは無意識にヴィクトルの少し後ろへ下がろうとした。


その瞬間、低い声が横から落ちる。


「そこではない」


足が止まる。


ヴィクトルは前を向いたまま、もう一度言った。


「隣だ」


それだけで、足元の位置が変わった。


侍従に聞こえたかどうかも分からないほど小さい。けれどエレノアにははっきり届いた。心臓が静かに鳴る。


エレノアは深く息を吸い、半歩ぶん前へ出る。

ヴィクトルの隣へ。


それを見計らったように、扉が開いた。


「ノルデンフェルト公爵夫妻」


広間に入る。


今日はルシアンもクラリスも席についていた。傍らには実務官が二人、帳面を開いて控えている。社交の笑みではなく、公務の顔だ。


皆が礼を交わす。


「昨日は手間をかけたね」

ルシアンが先に口を開く。

「いや、あれでよかったんだろう。曖昧にしたほうが面倒だった」

ヴィクトルが短く返す。

「そういう意味では助かったよ」

ルシアンの視線がエレノアへ向く。

「公爵夫人も」

エレノアは小さく一礼した。

「お役に立てたなら」

「立ったとも」


クラリスは穏やかな顔で頷く。


「本日の記録でも、公爵夫人のお話と控えが重要になります」

「承知しております」

「監査官へは、もう写しを預けました。必要があれば追加で確認をお願いするかもしれません」

「はい」


そのやり取りのあいだ、エレノアは一度だけ気づく。


自分が言葉を返すたび、実務官の視線がちゃんとこちらへ向いている。

昨日の夜会のような社交の注目ではなく、公の話の当事者として見ている目だ。


それでも、話が北辺の補給に移ったところで、エレノアはまた無意識に一歩引きかけた。


品目の補充や、北辺の備蓄の話なら、本来はヴィクトルと実務官たちの領分だと思ったからだ。


だがヴィクトルはすぐに気づいたらしい。


「夫人」

「……はい」

「北棟の件で、冬の終わりに何がいちばん効いた」

突然問われ、エレノアは目を見開く。


ルシアンもクラリスも、実務官たちも黙って待っている。

ここで「公爵様が」と逃がしてはくれない空気だ。


エレノアは指先を静かに重ねた。


「物を増やすことではなく」

声は、ひどく落ち着いて聞こえた。

「冷える場所へ優先して回し、動線を詰まらせないことでした」

実務官の一人が顔を上げる。

エレノアは続けた。

「同じだけを全部へ薄く回すと、どこも足りなくなります。ですから、角部屋は物で持たせ、中ほどは見回りの刻で持たせました」

「なるほど」

実務官が帳面へ何か書きつける。

「夫人は現場をご覧になっていたのですね」

答える前に、ヴィクトルが言った。

「見ていたから、北棟は持ち直した」

その一言に、エレノアは顔を上げる。


褒める口調ではない。

けれど実務官の前で、手柄を曖昧にしない言い方だった。


ルシアンが小さく笑う。


「君、意外とそういうところはちゃんと言うんだね」

「事実だ」

「いや、そこを黙らないのが意外なんだよ」

「黙る理由がない」


その応酬に、クラリスの口元もほんの少しやわらぐ。


「公爵夫人」

クラリスが静かに言う。

「昨夜も今日も、立つ位置を違えないでいてくださってよかった」

エレノアは一瞬、返事に迷った。

「……違えそうには、なりました」

クラリスは驚いた顔をしない。

「それでも違えなかったのでしょう」

「はい」

「なら十分です」


言葉はそれだけだ。

けれど、その十分です、が深く残る。


報告が済み、場が緩みかけた頃、実務官の一人がヴィクトルへ向けて言った。


「今後、王都での細かな打ち合わせは、公爵閣下お一人でも」

「夫人も出る」

ヴィクトルが遮る。

「ですが、ご負担に」

「問題ない」

「……承知しました」


エレノアは思わず横顔を見る。


ヴィクトルは何でもない顔だった。

だが、今の一言ははっきりしていた。


王都での細かな打ち合わせにも、夫人も出る。


勝ったあとの飾りではなく、まだこれからの話へも外さないという意思だ。


場が解かれ、控えの間へ戻る途中、エレノアはようやく小さく息をついた。


するとヴィクトルが、歩きながら低く言う。


「また下がろうとしたな」

「……分かりましたか」

「分かる」

「そんなに露骨でした?」

「露骨ではない」

そこで一拍置き、少し視線が横へ向く。

「だから厄介だ」


叱られているのに、足は重くならない。


エレノアは少し勇気を出して言った。


「でも、さっきは」

「何だ」

「ありがとうございました」

「何が」

「私に聞いてくださったことと」

言葉を選ぶ。

「細かな打ち合わせも、外さないと仰ったことです」


ヴィクトルは歩みを緩めないまま、短く返した。


「昨日言ったはずだ」

「……」

「勝手に不要になるなと」


その言い方に、手の内がまた静かに熱くなる。


控えの間へ着く直前、ヴィクトルが足を止めた。


人払いのためではない。侍従が扉を開けるのを待つ、ほんの短い間だ。

けれどその数秒で、彼は低く言った。


「公の場では、私の後ろへ隠れるな」

エレノアは思わず息を止める。

「はい」

「私の隣にいろ」

たったそれだけだった。


扉が開く。

侍従が頭を下げる。

王城の音がまた戻る。


それでもエレノアは、すぐには動けなかった。


私の隣にいろ。


公の場で。

言い聞かせでも、方便でもなく。

あまりに当然のように言われたその一言が、足元を少しだけ確かにした。


エレノアは小さく頷いた。


「……はい」


今度は、ごまかさずに返せた。

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