第48話
その日の午後、王太子への短い報告のため、ふたたび王城へ上がることになった。
夜会ほどの華やかさは要らない。けれど公の場である以上、私的な楽さだけを優先もできない。リネットは淡い灰青のドレスを選び、襟元を整えながら言った。
「今日は座る場でしょうから、昨日より少し軽くてよろしいかと」
「ええ」
「でも、お顔色は軽く見せないほうが」
「お前もアグネスみたいなことを言うのね」
「正しいことは、だいたい似ます」
その返しに、少し肩の力が抜けた。
王城へ向かう馬車の中で、エレノアは窓の外を見ていた。昨日より空は曇っている。春の王都は明るく見えても、風の芯だけはまだ冷たい。
向かいのヴィクトルはいつも通り無駄口をきかない。だが王城が近づいた頃、ふいに言った。
「今日は報告だけだ」
「はい」
「長くは引き留められん」
「ええ」
「だからといって、勝手に端へ寄るな」
エレノアは思わず瞬いた。
昨日の朝の続きなのだと分かる。
分かるのに、こうして場の直前にもう一度言われると、妙に落ち着かなかった。
「気をつけます」
「気をつける、ではなく」
ヴィクトルはそこで言葉を切り、短く言った。
「覚えておけ」
「……はい」
王城へ着くと、案内の侍従がすぐに控えの間へ通した。
今日は王太子夫妻だけではなく、監査に関わる数名の実務官も同席しているらしい。控えの間の空気は昨日の夜会とは違い、華やぎより緊張のほうが濃かった。
名を呼ばれる直前、エレノアは無意識にヴィクトルの少し後ろへ下がろうとした。
その瞬間、低い声が横から落ちる。
「そこではない」
足が止まる。
ヴィクトルは前を向いたまま、もう一度言った。
「隣だ」
それだけで、足元の位置が変わった。
侍従に聞こえたかどうかも分からないほど小さい。けれどエレノアにははっきり届いた。心臓が静かに鳴る。
エレノアは深く息を吸い、半歩ぶん前へ出る。
ヴィクトルの隣へ。
それを見計らったように、扉が開いた。
「ノルデンフェルト公爵夫妻」
広間に入る。
今日はルシアンもクラリスも席についていた。傍らには実務官が二人、帳面を開いて控えている。社交の笑みではなく、公務の顔だ。
皆が礼を交わす。
「昨日は手間をかけたね」
ルシアンが先に口を開く。
「いや、あれでよかったんだろう。曖昧にしたほうが面倒だった」
ヴィクトルが短く返す。
「そういう意味では助かったよ」
ルシアンの視線がエレノアへ向く。
「公爵夫人も」
エレノアは小さく一礼した。
「お役に立てたなら」
「立ったとも」
クラリスは穏やかな顔で頷く。
「本日の記録でも、公爵夫人のお話と控えが重要になります」
「承知しております」
「監査官へは、もう写しを預けました。必要があれば追加で確認をお願いするかもしれません」
「はい」
そのやり取りのあいだ、エレノアは一度だけ気づく。
自分が言葉を返すたび、実務官の視線がちゃんとこちらへ向いている。
昨日の夜会のような社交の注目ではなく、公の話の当事者として見ている目だ。
それでも、話が北辺の補給に移ったところで、エレノアはまた無意識に一歩引きかけた。
品目の補充や、北辺の備蓄の話なら、本来はヴィクトルと実務官たちの領分だと思ったからだ。
だがヴィクトルはすぐに気づいたらしい。
「夫人」
「……はい」
「北棟の件で、冬の終わりに何がいちばん効いた」
突然問われ、エレノアは目を見開く。
ルシアンもクラリスも、実務官たちも黙って待っている。
ここで「公爵様が」と逃がしてはくれない空気だ。
エレノアは指先を静かに重ねた。
「物を増やすことではなく」
声は、ひどく落ち着いて聞こえた。
「冷える場所へ優先して回し、動線を詰まらせないことでした」
実務官の一人が顔を上げる。
エレノアは続けた。
「同じだけを全部へ薄く回すと、どこも足りなくなります。ですから、角部屋は物で持たせ、中ほどは見回りの刻で持たせました」
「なるほど」
実務官が帳面へ何か書きつける。
「夫人は現場をご覧になっていたのですね」
答える前に、ヴィクトルが言った。
「見ていたから、北棟は持ち直した」
その一言に、エレノアは顔を上げる。
褒める口調ではない。
けれど実務官の前で、手柄を曖昧にしない言い方だった。
ルシアンが小さく笑う。
「君、意外とそういうところはちゃんと言うんだね」
「事実だ」
「いや、そこを黙らないのが意外なんだよ」
「黙る理由がない」
その応酬に、クラリスの口元もほんの少しやわらぐ。
「公爵夫人」
クラリスが静かに言う。
「昨夜も今日も、立つ位置を違えないでいてくださってよかった」
エレノアは一瞬、返事に迷った。
「……違えそうには、なりました」
クラリスは驚いた顔をしない。
「それでも違えなかったのでしょう」
「はい」
「なら十分です」
言葉はそれだけだ。
けれど、その十分です、が深く残る。
報告が済み、場が緩みかけた頃、実務官の一人がヴィクトルへ向けて言った。
「今後、王都での細かな打ち合わせは、公爵閣下お一人でも」
「夫人も出る」
ヴィクトルが遮る。
「ですが、ご負担に」
「問題ない」
「……承知しました」
エレノアは思わず横顔を見る。
ヴィクトルは何でもない顔だった。
だが、今の一言ははっきりしていた。
王都での細かな打ち合わせにも、夫人も出る。
勝ったあとの飾りではなく、まだこれからの話へも外さないという意思だ。
場が解かれ、控えの間へ戻る途中、エレノアはようやく小さく息をついた。
するとヴィクトルが、歩きながら低く言う。
「また下がろうとしたな」
「……分かりましたか」
「分かる」
「そんなに露骨でした?」
「露骨ではない」
そこで一拍置き、少し視線が横へ向く。
「だから厄介だ」
叱られているのに、足は重くならない。
エレノアは少し勇気を出して言った。
「でも、さっきは」
「何だ」
「ありがとうございました」
「何が」
「私に聞いてくださったことと」
言葉を選ぶ。
「細かな打ち合わせも、外さないと仰ったことです」
ヴィクトルは歩みを緩めないまま、短く返した。
「昨日言ったはずだ」
「……」
「勝手に不要になるなと」
その言い方に、手の内がまた静かに熱くなる。
控えの間へ着く直前、ヴィクトルが足を止めた。
人払いのためではない。侍従が扉を開けるのを待つ、ほんの短い間だ。
けれどその数秒で、彼は低く言った。
「公の場では、私の後ろへ隠れるな」
エレノアは思わず息を止める。
「はい」
「私の隣にいろ」
たったそれだけだった。
扉が開く。
侍従が頭を下げる。
王城の音がまた戻る。
それでもエレノアは、すぐには動けなかった。
私の隣にいろ。
公の場で。
言い聞かせでも、方便でもなく。
あまりに当然のように言われたその一言が、足元を少しだけ確かにした。
エレノアは小さく頷いた。
「……はい」
今度は、ごまかさずに返せた。




