↓ ↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
婚約者も功績も妹に奪われた私は、死ぬと噂の北辺公爵に嫁ぐことになりました 〜愛のない結婚のはずが、冷酷な夫は私を手放してくれない〜  作者: 師走
第11章 この先を、あなたと

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
49/56

第47話

エレノアはすぐには答えられなかった。


そうしたいのか。

そうするべきだと思っているのか。


その違いを問われると、喉の奥で言葉が絡まる。


ヴィクトルは待っていた。


急かさない。だが視線を逸らさない。その沈黙の前では、曖昧な言い逃れはすぐに崩れる。


やがてエレノアは、ゆっくり口を開く。


「……王都へ出る役目は、昨夜で果たせた気がするのです」

「役目」

「はい」

「誰の」

「公爵夫人としての、です」


言いながら、自分でもどこかよそよそしいと思った。


“役目”という言葉に逃げているのだと、分かっている。だが他にどう言えばいいのか分からない。


ヴィクトルは短く聞く。


「昨夜、誰があの場で物を言った」

「……私です」

「誰が、譲らないと言った」

エレノアの指先が少し強張る。

「私、です」

「なら、なぜ今朝になって引っ込める」


その一言が、静かに刺さる。


エレノアは目を伏せた。


「引っ込めるつもりでは」

「そう見える」

「……」

「勝手に役目は済んだと決めて、端へ下がろうとしている」


図星だった。


食堂の窓の外では、王都の朝がもう動き始めている。馬車の音も、人の呼び声も、遠くから聞こえるのに、この机の上だけがひどく静かだった。


エレノアは膝の上で手を重ねる。


「私が前へ出れば、アシュベリー家の件はどうしても私情に見られます」

「見せたくないのか」

「……はい」

「なぜ」

「公爵様にご迷惑を」

「それは私が決める」


ぴたりと返された。


エレノアは顔を上げる。


ヴィクトルは、表情をほとんど動かしていなかった。けれどその目だけは、今朝ずっと静かに張っている。


「お前が前へ出ることで不利益があるなら、最初から連れてきていない」

「でも」

「昨夜、王太子の前で口を開いたのは誰だ」

「……私です」

「私が通した」

その言い方には飾りがない。

「それで十分だ」


十分。


その二文字に、なぜか落ち着かなくなる。


エレノアは小さく息を吸った。


「私が怖いのは」

言いかけて、少し止まる。

「また、私のせいにされることです」

「されただろうな」

あまりにもあっさり言われて、瞬きをする。

ヴィクトルは続けた。

「今後もする」

「……」

「お前が下がれば、なおさらだ」


エレノアは言葉を失った。


それは、考えなかったわけではない。けれど真正面から言われると、逃げ道がなくなる。


ヴィクトルは茶器へ手を戻さないまま、低く言った。


「北辺でもそうだった」

「え?」

「洗い場が回るようになった時も」

短く区切る。

「北棟の運用が落ち着いた時も」

さらに一拍。

「副家令の件が済んだあとも、お前はすぐ自分を外へ出そうとした」


エレノアは何も言えなかった。


見られていたのだと、そこでようやく分かる。

自分では隠していたつもりの癖を、この人はずっと見ていたのだ。


ヴィクトルはまっすぐ聞いた。


「なぜ下がる」


その問いは、責める響きではなかった。

だが、もっと逃げられない。


エレノアは目を伏せる。


言いたくなかったわけではない。

ただ、言葉にするとあまりにもみじめな気がして、避けてきただけだ。


「……埋まれば、要らないと思ってしまうからです」


口にした瞬間、喉の奥が熱くなる。


それでも止まらなかった。


「足りないところを埋めるのが私の役目なら」

指先を強く組む。

「埋まったあとは、邪魔にならないほうがいいと」

「誰にそう言われた」

「言われたというより」

エレノアは首を振る。

「そうしているほうが、うまく回ったのです」


侯爵家で。

婚約の場で。

あの家の中でずっと。


自分が一歩下がれば、誰かは満足した。

自分が譲れば、揉めずに済んだ。

そしてそれが賢いことだと、何度も思い込まされてきた。


食堂に、長い沈黙が落ちる。


リネットもアグネスも、今は離れた位置にいる。こちらの会話が全部は聞こえない距離だ。けれど二人とも、空気の重さだけは感じている顔だった。


ヴィクトルが、ひどく静かな声で言う。


「私は、お前をそういう位置へ置いた覚えはない」


エレノアは息を止めた。


ヴィクトルは続ける。


「役目が済んだら消える妻を、連れてきたつもりもない」

「……」

「昨夜の件も同じだ。お前が前へ出て、私が通した」

短い言い方なのに、言葉の一つ一つが重い。

「それを今朝になって、お前が自分で軽くするな」


喉の奥が、ひりつく。


軽くするな。


責められているのではない。

正されているのだと分かる。


それが苦しいのに、どこかでほっとする自分もいる。


エレノアはようやく言った。


「……では、私はどうすれば」

ヴィクトルの答えは早かった。

「下がるな」

「でも」

「公でも私でもだ」

一拍置いて、さらに低く落ちる。

「勝手に消えるな」


その言葉に、食堂の空気が静かに変わった。


公でも私でも。


王都の場だけではない。

北辺でも。

この屋敷でも。

二人のあいだでも。


そこまで含まれている気がして、エレノアはすぐに返事ができなかった。


ヴィクトルはそこで初めて、少し苛立ったように眉を寄せる。


「何だ」

「……いえ」

「分からない顔をするな」

「分かっているつもりです」

「つもりはいらん」

「そう簡単に変われません」

「知っている」

「知っていて、それでも」

「それでもだ」


切るように言ってから、ヴィクトルは息をひとつ吐いた。


「簡単に変われるなら、そもそも昨夜ああはならん」

「……」

「だが、だからといって放っておく気もない」


その一言が、妙に胸へ残る。


放っておく気もない。


優しい言い方ではない。

けれど、見ているだけでは終わらせないという意思だけは、ひどくはっきりしていた。


ヴィクトルは椅子を引いた。


「昼の訪問も、お前が出る」

「……はい」

「夜の席もだ」

「ですが」

「王太子妃の近くに立ったのは、昨夜だけではない」

「……」

「分かるな」

「はい」


エレノアは小さく頷いた。


逃げたくないと思ったのは本当だ。

なら、勝ったあとだけ引くのは違う。

そのことを、ようやく自分でも認めるしかなくなる。


ヴィクトルは席を立つ前に、最後に言った。


「王都で動きやすいかどうかを、お前が先に決めるな」

「……はい」

「必要なら言う」

「はい」

「不要になってから下がれ」

エレノアは思わず顔を上げる。

「そんな時が来ますか」

「来ないかもしれん」

あまりにも当然のように言われて、息が詰まった。


ヴィクトルはもうこちらを見ていなかった。

それが冗談ではないことだけは分かる。


「支度をしておけ」

「あ……はい」

「顔が白い」

「少し驚いただけです」

「驚くな」

「無理です」

「なら慣れろ」


そう言ってヴィクトルは食堂を出ていく。


扉が閉まったあと、エレノアはしばらく椅子から立てなかった。


勝ったあと、すぐ自分を外へ出そうとする。

役目が済んだら消える位置。

勝手に軽くするな。


どれも、痛いほど当たっている。

そして、言われなければたぶん、また同じことをしたのだろうと思う。


「お嬢様」


リネットがそっと近づいてくる。

「お茶を」

「ええ……お願い」


カップが置かれ、湯気が上がる。

その熱へ指先を寄せながら、エレノアはゆっくり息を吐いた。


下がるな。

勝手に消えるな。


今まで誰にも、そんなふうに言われたことはなかった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。