第47話
エレノアはすぐには答えられなかった。
そうしたいのか。
そうするべきだと思っているのか。
その違いを問われると、喉の奥で言葉が絡まる。
ヴィクトルは待っていた。
急かさない。だが視線を逸らさない。その沈黙の前では、曖昧な言い逃れはすぐに崩れる。
やがてエレノアは、ゆっくり口を開く。
「……王都へ出る役目は、昨夜で果たせた気がするのです」
「役目」
「はい」
「誰の」
「公爵夫人としての、です」
言いながら、自分でもどこかよそよそしいと思った。
“役目”という言葉に逃げているのだと、分かっている。だが他にどう言えばいいのか分からない。
ヴィクトルは短く聞く。
「昨夜、誰があの場で物を言った」
「……私です」
「誰が、譲らないと言った」
エレノアの指先が少し強張る。
「私、です」
「なら、なぜ今朝になって引っ込める」
その一言が、静かに刺さる。
エレノアは目を伏せた。
「引っ込めるつもりでは」
「そう見える」
「……」
「勝手に役目は済んだと決めて、端へ下がろうとしている」
図星だった。
食堂の窓の外では、王都の朝がもう動き始めている。馬車の音も、人の呼び声も、遠くから聞こえるのに、この机の上だけがひどく静かだった。
エレノアは膝の上で手を重ねる。
「私が前へ出れば、アシュベリー家の件はどうしても私情に見られます」
「見せたくないのか」
「……はい」
「なぜ」
「公爵様にご迷惑を」
「それは私が決める」
ぴたりと返された。
エレノアは顔を上げる。
ヴィクトルは、表情をほとんど動かしていなかった。けれどその目だけは、今朝ずっと静かに張っている。
「お前が前へ出ることで不利益があるなら、最初から連れてきていない」
「でも」
「昨夜、王太子の前で口を開いたのは誰だ」
「……私です」
「私が通した」
その言い方には飾りがない。
「それで十分だ」
十分。
その二文字に、なぜか落ち着かなくなる。
エレノアは小さく息を吸った。
「私が怖いのは」
言いかけて、少し止まる。
「また、私のせいにされることです」
「されただろうな」
あまりにもあっさり言われて、瞬きをする。
ヴィクトルは続けた。
「今後もする」
「……」
「お前が下がれば、なおさらだ」
エレノアは言葉を失った。
それは、考えなかったわけではない。けれど真正面から言われると、逃げ道がなくなる。
ヴィクトルは茶器へ手を戻さないまま、低く言った。
「北辺でもそうだった」
「え?」
「洗い場が回るようになった時も」
短く区切る。
「北棟の運用が落ち着いた時も」
さらに一拍。
「副家令の件が済んだあとも、お前はすぐ自分を外へ出そうとした」
エレノアは何も言えなかった。
見られていたのだと、そこでようやく分かる。
自分では隠していたつもりの癖を、この人はずっと見ていたのだ。
ヴィクトルはまっすぐ聞いた。
「なぜ下がる」
その問いは、責める響きではなかった。
だが、もっと逃げられない。
エレノアは目を伏せる。
言いたくなかったわけではない。
ただ、言葉にするとあまりにもみじめな気がして、避けてきただけだ。
「……埋まれば、要らないと思ってしまうからです」
口にした瞬間、喉の奥が熱くなる。
それでも止まらなかった。
「足りないところを埋めるのが私の役目なら」
指先を強く組む。
「埋まったあとは、邪魔にならないほうがいいと」
「誰にそう言われた」
「言われたというより」
エレノアは首を振る。
「そうしているほうが、うまく回ったのです」
侯爵家で。
婚約の場で。
あの家の中でずっと。
自分が一歩下がれば、誰かは満足した。
自分が譲れば、揉めずに済んだ。
そしてそれが賢いことだと、何度も思い込まされてきた。
食堂に、長い沈黙が落ちる。
リネットもアグネスも、今は離れた位置にいる。こちらの会話が全部は聞こえない距離だ。けれど二人とも、空気の重さだけは感じている顔だった。
ヴィクトルが、ひどく静かな声で言う。
「私は、お前をそういう位置へ置いた覚えはない」
エレノアは息を止めた。
ヴィクトルは続ける。
「役目が済んだら消える妻を、連れてきたつもりもない」
「……」
「昨夜の件も同じだ。お前が前へ出て、私が通した」
短い言い方なのに、言葉の一つ一つが重い。
「それを今朝になって、お前が自分で軽くするな」
喉の奥が、ひりつく。
軽くするな。
責められているのではない。
正されているのだと分かる。
それが苦しいのに、どこかでほっとする自分もいる。
エレノアはようやく言った。
「……では、私はどうすれば」
ヴィクトルの答えは早かった。
「下がるな」
「でも」
「公でも私でもだ」
一拍置いて、さらに低く落ちる。
「勝手に消えるな」
その言葉に、食堂の空気が静かに変わった。
公でも私でも。
王都の場だけではない。
北辺でも。
この屋敷でも。
二人のあいだでも。
そこまで含まれている気がして、エレノアはすぐに返事ができなかった。
ヴィクトルはそこで初めて、少し苛立ったように眉を寄せる。
「何だ」
「……いえ」
「分からない顔をするな」
「分かっているつもりです」
「つもりはいらん」
「そう簡単に変われません」
「知っている」
「知っていて、それでも」
「それでもだ」
切るように言ってから、ヴィクトルは息をひとつ吐いた。
「簡単に変われるなら、そもそも昨夜ああはならん」
「……」
「だが、だからといって放っておく気もない」
その一言が、妙に胸へ残る。
放っておく気もない。
優しい言い方ではない。
けれど、見ているだけでは終わらせないという意思だけは、ひどくはっきりしていた。
ヴィクトルは椅子を引いた。
「昼の訪問も、お前が出る」
「……はい」
「夜の席もだ」
「ですが」
「王太子妃の近くに立ったのは、昨夜だけではない」
「……」
「分かるな」
「はい」
エレノアは小さく頷いた。
逃げたくないと思ったのは本当だ。
なら、勝ったあとだけ引くのは違う。
そのことを、ようやく自分でも認めるしかなくなる。
ヴィクトルは席を立つ前に、最後に言った。
「王都で動きやすいかどうかを、お前が先に決めるな」
「……はい」
「必要なら言う」
「はい」
「不要になってから下がれ」
エレノアは思わず顔を上げる。
「そんな時が来ますか」
「来ないかもしれん」
あまりにも当然のように言われて、息が詰まった。
ヴィクトルはもうこちらを見ていなかった。
それが冗談ではないことだけは分かる。
「支度をしておけ」
「あ……はい」
「顔が白い」
「少し驚いただけです」
「驚くな」
「無理です」
「なら慣れろ」
そう言ってヴィクトルは食堂を出ていく。
扉が閉まったあと、エレノアはしばらく椅子から立てなかった。
勝ったあと、すぐ自分を外へ出そうとする。
役目が済んだら消える位置。
勝手に軽くするな。
どれも、痛いほど当たっている。
そして、言われなければたぶん、また同じことをしたのだろうと思う。
「お嬢様」
リネットがそっと近づいてくる。
「お茶を」
「ええ……お願い」
カップが置かれ、湯気が上がる。
その熱へ指先を寄せながら、エレノアはゆっくり息を吐いた。
下がるな。
勝手に消えるな。
今まで誰にも、そんなふうに言われたことはなかった。




