第46話
王都屋敷へ戻った時には、もう夜もだいぶ更けていた。
玄関の灯りは落とされているのに、使用人たちの足音だけがまだ残っている。王城から戻った公爵夫妻を迎えるために、火も湯も切らさず待っていたのだろう。
「お疲れでしょう」
アグネスが一礼する。
「湯をすぐに」
「ありがとう」
それだけ返して、自室へ戻る。
扉が閉まった瞬間、ようやく体の力が抜けた。勝った、とはまだうまく思えない。残っているのは晴れやかさより、長く息を止めていたあとの重さだった。
リネットが黙ってネックレスへ手を伸ばす。
「外します」
「ええ」
首筋の後ろで、留め具が静かに外れる。
あの場で外しかけたものを、今度は自分の意思で外される。その違いが妙に生々しくて、エレノアは鏡の前で目を伏せた。
「お嬢様」
「なに」
「今夜は、ちゃんとお守りになれましたね」
リネットの声は小さい。
エレノアはネックレスを受け取り、掌に載せた。冷えた石は、もう誰にも渡っていない。
「……そうね」
「怖かったでしょう」
「ええ」
「でも、お戻りになりました」
「公爵様がいらしたもの」
口にしてから、自分でも少し驚く。
あの場で戻れた理由を、こんなに迷いなく言えるとは思わなかった。
リネットは何も言わず、ただ髪をほどく手をやわらげた。
その夜は深く眠れなかった。
父の顔も、継母の声も、ローザリアの手も思い出した。けれど最後に残るのは、広間の中で差し出されたヴィクトルの手だった。
来い。
たったそれだけで、自分の立つ場所が決まった。
翌朝、王都屋敷の食堂には、また新しい封書が増えていた。
監査入りの話はもう一夜で広がったらしい。招待状より、様子を探る手紙のほうが多い。アシュベリー家と懇意だった家はなおさらだろう。
エレノアはその束を見て、ゆっくり息を吐いた。
「増えたな」
ヴィクトルがパンへ手を伸ばしながら言う。
「ええ」
「放っておけ」
「……はい」
返事をしながら、エレノアは手元の茶へ目を落とす。
昨夜のことで、王都の風向きは変わった。あの家の論理へ戻されることなく、公の場で通った。だから本来なら、ここで少しは楽になってもよさそうなものなのに、息はむしろ落ち着かなかった。
役目は果たした。
そう思ってしまう自分がいる。
北辺の公爵夫人として、王都で立つ。
公爵の悪評を少しでも和らげる。
あの家に、もう奪われない位置を見せる。
それは昨夜で十分果たしたのではないか。
そこで終わりにしてもよかった。
それでも、エレノアは顔を上げた。
「公爵様」
「何だ」
「今後の王都での場ですが」
ヴィクトルの手が止まる。
「私は、もうあまり出ないほうがよろしいかもしれません」
「……」
「昨夜の件で、アシュベリー家への監査は動きます。これ以上、私が表へ出ると」
言葉を探す。
「感情で動いていると、受け取られるかもしれません」
ヴィクトルは何も言わない。
エレノアは続けた。
「公務に必要な場だけで十分です。それに」
そこで少し視線を落とす。
「私が目立つより、公爵様お一人のほうが、王都では動きやすいこともあるでしょう」
言い終えたあと、自分の声がずいぶん静かなことに気づく。
引こうとしているのだ。
無意識に。
勝ったあとほど、自分で一歩下がって、場を整えようとする癖が出る。
食堂の窓から朝の光が差し、机の銀器が淡く光る。
ヴィクトルは茶器を置いた。
その音だけが、やけに小さく響いた。
「それは」
低い声が落ちる。
エレノアは顔を上げた。
ヴィクトルの目が、まっすぐこちらを見ていた。
「お前がそうしたいのか」
問いは短い。
だが、逃がさない種類の短さだった。
エレノアはすぐには答えられなかった。
そうしたいのか。
それとも、そうするべきだと思っているだけなのか。
その違いが、自分の中でまだうまく分からない。




