第45話
杯が下がり、広間のざわめきが少し戻りかけたところで、父が前へ出た。
あまりに自然な動きだったので、最初は誰も止めなかったのだろう。アシュベリー侯爵として、場を乱した令嬢たちの非礼を詫びるつもりだと見えたからだ。
アルフレッド・アシュベリー侯爵は、王太子夫妻へ一礼し、それからヴィクトルへ向いた。
「今宵はお見苦しいところをお見せしました」
声は低く、整っている。
怒りも焦りも乗せない、いつもの処理の声だ。
「長女は昔から、少々思い込みの強いところがありまして。婚約の一件以来、とくに家のことへ過敏に口を出すようになりました」
広間の空気が、また静まる。
父は続けた。
「先ほどの首飾りの件も、どうかご容赦を。妹へ譲るべきかどうかで意地を張るなど、家の中で済ませるべき話でした」
エレノアの指先が、静かに冷えた。
やはり、と思う。
父はこういう場で、必ず形を整える。
今起きたことを「姉妹のつまらない争い」へ落とし、自分を「婚約を失って意固地になった長女」へ戻そうとする。
昔なら、ここで黙っていたかもしれない。
波風を立てないために。
場を乱さないために。
けれど今は、もう譲らないとさっき自分で言った。
エレノアは一歩だけ前へ出た。
「お言葉ですが、お父様」
広間のあちこちで、息を呑む気配がする。
父がこちらを見る。
冷たい目だった。
だがもう、その目だけで口を閉じる自分ではない。
「私が家の帳場へ口を出したのは、婚約の腹いせではありません」
「公爵夫人」
父の声が低くなる。
「今は控えなさい」
「控えません」
言い切ると、足元がひどく静かになった。
エレノアは王太子夫妻のほうへ向き直る。
「昨秋、アシュベリー家名義で北辺へ送られるはずだった物資に、不自然な差異がありました」
広間の空気が一気に変わる。
「倉庫控えと写し帳で数字が合わず、写しは乾ききっておらず、綴じ紐も結び直されていました」
「……」
「品目は、防寒油布、濃縮飼料、薬品原料です」
父が一歩、前へ出る。
「たわ言です」
その声にも、まだ怒りはない。
だからこそ冷たい。
「長女は昔から、見たいものだけを見て騒ぐ癖が」
「騒いではいません」
エレノアは視線を逸らさない。
「当時、私の手元に控えを書き留めました。今もございます」
父の目が、かすかに変わる。
「もし私の見間違いであれば、調べれば済むことです」
それが落ちた瞬間、広間のざわめきは完全に止んだ。
姉妹喧嘩ではない。
家の中の感情論でもない。
北辺向けの物資。
帳簿の差異。
そして王都の春の社交の真ん中で、それが口にされた。
父が初めて、声の温度を失う。
「公爵夫人」
「嫉妬や意地で申していると仰るなら、なおさら調べてください」
エレノアは続けた。
「北辺は、備えを誤れば人が冷えます。私はそれを知っています」
「お前が語ることではない」
「いいえ」
ここで引けば、また同じになる。
感情的な長女として片づけられるだけだ。
エレノアはもう一度、はっきりと言った。
「私が見たことです」
沈黙が落ちる。
その沈黙を切ったのは、ヴィクトルだった。
「ならば調べればいい」
低い声が、広間の中央へまっすぐ落ちる。
ヴィクトルはエレノアの半歩前へ出た。
庇うために隠すのではない。
その言葉を、公の形へ通すための位置だった。
「北辺向け物資に不正がないなら、それでアシュベリー侯爵家の名は守られる」
父が息を詰める。
「違うか」
「……」
「違わぬなら、王家の監査を拒む理由はない」
ルシアンの顔から笑みが消えていた。
王太子は杯を卓へ置き、静かに言う。
「品目が北辺向けなら、聞き流せないな」
その声は軽くない。
「昨秋から補給の遅れは何度か上がっていた」
広間の何人かの顔色が変わる。
ルシアンは父を見る。
「アシュベリー侯爵」
「殿下、これは長女が昔の感情を」
「感情で言うには、具体がある」
ルシアンは遮った。
「控えが残っているなら、なおさらだ」
クラリスが、静かにエレノアのそばへ立つ。
それだけで十分だった。
今、この場でエレノアがただの家の娘ではなく、公爵夫人として扱われていると、誰にでも分かる。
父はなお口を開こうとした。
「王太子殿下、家名に関わることです」
「家名に関わるからだよ」
ルシアンの声は穏やかなまま鋭い。
「補給の件を曖昧にしたほうが、よほどまずい」
そこで近くに控えていた侍従長へ向く。
「今この場で記録しろ。アシュベリー家の北辺向け取引は、調べが済むまで停止」
「は」
「帳簿、倉庫控え、納入記録、すべて保全。監査は王家名義で入れる」
広間に、目に見えないほど大きな波が走る。
取引停止。
監査入り。
それは社交の噂ではなく、はっきりした処分の入口だった。
父の顔から、ついに最後の余裕が消える。
継母は扇を持つ手を固くした。
ローザリアの目に、涙が浮かぶ。
いつもなら、その顔だけで誰かが動いた。父が庇い、継母が抱き寄せ、エイドリアンが声をかけた。
けれど今夜は、誰も最初に動かなかった。
ローザリアは意味を飲み込めないまま、父と王太子を見比べている。
少し離れた場所にいたエイドリアンは、青ざめた顔で立ち尽くしていた。
ルシアンはそこで終わらせず、ヴィクトルへ視線を向ける。
「北辺側で必要な記録があれば、後で別途出してもらう」
「ああ」
「公爵夫人の控えも預かろう」
エレノアは小さく頷いた。
「承知いたしました」
その返事が、自分でも驚くほど落ち着いていた。
顔を上げても、誰も笑っていなかった。
婚約を失った娘を見る目ではない。北辺公爵夫人を見る目だった。
父が低く言う。
「……長女の一方的な記憶で、家を」
「だから調べるんです」
と、エレノアは静かに返した。
「私の記憶が違うなら、それで終わります」
「……」
「違わなければ、もっと早く口にすべきだっただけです」
広間の灯りが揺れる。
それ以上、父の言葉は続かなかった。
誰も助け舟を出さない。
王太子が監査と取引停止を口にした以上、もうこれは家の中の争いではなかった。
ヴィクトルが振り返る。
「夫人」
呼ばれて、エレノアは顔を上げる。
「戻るぞ」
「……はい」
その一言で、足が動いた。
ヴィクトルの隣へ並ぶ。
クラリスがごく小さく頷き、ルシアンはもう次の指示のために侍従長へ何か伝えている。
背後では、アシュベリー侯爵家の空気が崩れ始めていた。
けれどエレノアは振り返らなかった。
今夜の勝ちは、私闘ではない。
王家の前で、北辺公爵夫妻として通った勝ちだ。
そのことだけが、歩くたびに静かに残っていく。




