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婚約者も功績も妹に奪われた私は、死ぬと噂の北辺公爵に嫁ぐことになりました 〜愛のない結婚のはずが、冷酷な夫は私を手放してくれない〜  作者: 師走
第10章 あなたが、私を選ぶ

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第45話

杯が下がり、広間のざわめきが少し戻りかけたところで、父が前へ出た。


あまりに自然な動きだったので、最初は誰も止めなかったのだろう。アシュベリー侯爵として、場を乱した令嬢たちの非礼を詫びるつもりだと見えたからだ。


アルフレッド・アシュベリー侯爵は、王太子夫妻へ一礼し、それからヴィクトルへ向いた。


「今宵はお見苦しいところをお見せしました」


声は低く、整っている。

怒りも焦りも乗せない、いつもの処理の声だ。


「長女は昔から、少々思い込みの強いところがありまして。婚約の一件以来、とくに家のことへ過敏に口を出すようになりました」

広間の空気が、また静まる。

父は続けた。

「先ほどの首飾りの件も、どうかご容赦を。妹へ譲るべきかどうかで意地を張るなど、家の中で済ませるべき話でした」


エレノアの指先が、静かに冷えた。


やはり、と思う。

父はこういう場で、必ず形を整える。

今起きたことを「姉妹のつまらない争い」へ落とし、自分を「婚約を失って意固地になった長女」へ戻そうとする。


昔なら、ここで黙っていたかもしれない。

波風を立てないために。

場を乱さないために。


けれど今は、もう譲らないとさっき自分で言った。


エレノアは一歩だけ前へ出た。


「お言葉ですが、お父様」


広間のあちこちで、息を呑む気配がする。


父がこちらを見る。

冷たい目だった。

だがもう、その目だけで口を閉じる自分ではない。


「私が家の帳場へ口を出したのは、婚約の腹いせではありません」

「公爵夫人」

父の声が低くなる。

「今は控えなさい」

「控えません」


言い切ると、足元がひどく静かになった。


エレノアは王太子夫妻のほうへ向き直る。


「昨秋、アシュベリー家名義で北辺へ送られるはずだった物資に、不自然な差異がありました」

広間の空気が一気に変わる。

「倉庫控えと写し帳で数字が合わず、写しは乾ききっておらず、綴じ紐も結び直されていました」

「……」

「品目は、防寒油布、濃縮飼料、薬品原料です」


父が一歩、前へ出る。


「たわ言です」

その声にも、まだ怒りはない。

だからこそ冷たい。

「長女は昔から、見たいものだけを見て騒ぐ癖が」

「騒いではいません」

エレノアは視線を逸らさない。

「当時、私の手元に控えを書き留めました。今もございます」

父の目が、かすかに変わる。

「もし私の見間違いであれば、調べれば済むことです」


それが落ちた瞬間、広間のざわめきは完全に止んだ。


姉妹喧嘩ではない。

家の中の感情論でもない。

北辺向けの物資。

帳簿の差異。

そして王都の春の社交の真ん中で、それが口にされた。


父が初めて、声の温度を失う。


「公爵夫人」

「嫉妬や意地で申していると仰るなら、なおさら調べてください」

エレノアは続けた。

「北辺は、備えを誤れば人が冷えます。私はそれを知っています」

「お前が語ることではない」

「いいえ」


ここで引けば、また同じになる。

感情的な長女として片づけられるだけだ。


エレノアはもう一度、はっきりと言った。


「私が見たことです」


沈黙が落ちる。


その沈黙を切ったのは、ヴィクトルだった。


「ならば調べればいい」


低い声が、広間の中央へまっすぐ落ちる。


ヴィクトルはエレノアの半歩前へ出た。

庇うために隠すのではない。

その言葉を、公の形へ通すための位置だった。


「北辺向け物資に不正がないなら、それでアシュベリー侯爵家の名は守られる」

父が息を詰める。

「違うか」

「……」

「違わぬなら、王家の監査を拒む理由はない」


ルシアンの顔から笑みが消えていた。


王太子は杯を卓へ置き、静かに言う。


「品目が北辺向けなら、聞き流せないな」

その声は軽くない。

「昨秋から補給の遅れは何度か上がっていた」

広間の何人かの顔色が変わる。

ルシアンは父を見る。

「アシュベリー侯爵」

「殿下、これは長女が昔の感情を」

「感情で言うには、具体がある」

ルシアンは遮った。

「控えが残っているなら、なおさらだ」


クラリスが、静かにエレノアのそばへ立つ。


それだけで十分だった。

今、この場でエレノアがただの家の娘ではなく、公爵夫人として扱われていると、誰にでも分かる。


父はなお口を開こうとした。


「王太子殿下、家名に関わることです」

「家名に関わるからだよ」

ルシアンの声は穏やかなまま鋭い。

「補給の件を曖昧にしたほうが、よほどまずい」

そこで近くに控えていた侍従長へ向く。

「今この場で記録しろ。アシュベリー家の北辺向け取引は、調べが済むまで停止」

「は」

「帳簿、倉庫控え、納入記録、すべて保全。監査は王家名義で入れる」


広間に、目に見えないほど大きな波が走る。


取引停止。

監査入り。


それは社交の噂ではなく、はっきりした処分の入口だった。


父の顔から、ついに最後の余裕が消える。


継母は扇を持つ手を固くした。


ローザリアの目に、涙が浮かぶ。


いつもなら、その顔だけで誰かが動いた。父が庇い、継母が抱き寄せ、エイドリアンが声をかけた。


けれど今夜は、誰も最初に動かなかった。


ローザリアは意味を飲み込めないまま、父と王太子を見比べている。


少し離れた場所にいたエイドリアンは、青ざめた顔で立ち尽くしていた。


ルシアンはそこで終わらせず、ヴィクトルへ視線を向ける。


「北辺側で必要な記録があれば、後で別途出してもらう」

「ああ」

「公爵夫人の控えも預かろう」

エレノアは小さく頷いた。

「承知いたしました」


その返事が、自分でも驚くほど落ち着いていた。


顔を上げても、誰も笑っていなかった。


婚約を失った娘を見る目ではない。北辺公爵夫人を見る目だった。


父が低く言う。


「……長女の一方的な記憶で、家を」

「だから調べるんです」

と、エレノアは静かに返した。

「私の記憶が違うなら、それで終わります」

「……」

「違わなければ、もっと早く口にすべきだっただけです」


広間の灯りが揺れる。


それ以上、父の言葉は続かなかった。


誰も助け舟を出さない。


王太子が監査と取引停止を口にした以上、もうこれは家の中の争いではなかった。


ヴィクトルが振り返る。


 「夫人」

呼ばれて、エレノアは顔を上げる。

「戻るぞ」

「……はい」


その一言で、足が動いた。


ヴィクトルの隣へ並ぶ。

クラリスがごく小さく頷き、ルシアンはもう次の指示のために侍従長へ何か伝えている。


背後では、アシュベリー侯爵家の空気が崩れ始めていた。

けれどエレノアは振り返らなかった。


今夜の勝ちは、私闘ではない。

王家の前で、北辺公爵夫妻として通った勝ちだ。


そのことだけが、歩くたびに静かに残っていく。

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更新ありがとうございます。エレノア頑張りました。
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