第44話
大広間の扉が開く。
先にクラリスが入り、その少し後ろにエレノアが続いた。ヴィクトルは反対側へ並ぶ。ルシアンはすでに中央寄りの位置で誰かと話していたが、こちらの動きに気づくと、すぐに会話を切って顔を上げた。
広間の灯りは変わっていない。
音楽も流れている。
けれど、戻ってきた三人を見た瞬間、場の気配がまた一段だけ静まった。
王太子妃の近くへ置かれたエレノア。
その反対側に立つヴィクトル。
さっきまでの「北辺公爵夫妻」という眺めとは、少し違って見えるのだろう。
クラリスは何も問わないまま、広間の中央近くへ進む。
その歩みに合わせて、エレノアも足を動かした。
もう下がらない。
そう自分に言い聞かせる必要もなく、足がその位置を選んでいた。
ところが、その空気を裂くように、明るい声が飛ぶ。
「お姉様!」
ローザリアだった。
広間の半ばから、まるで昔と同じ調子でこちらへ歩いてくる。継母が後ろから追うが、止めるには遅い。周囲の視線が一斉にその動きを追った。
エレノアは立ち止まる。
ローザリアはもう、人目も忘れていた。
目はまっすぐ胸元のネックレスへ向いている。
「まだつけていらしたのね」
息を弾ませるように言う。
「さっきは驚いたわ。少しお借りしたいだけだったのに」
その言葉に、場の空気が薄く冷えた。
王都の人間は察しがいい。
妹が姉の装身具へ執着していることも、
それが“姉妹のじゃれあい”では済まない場であることも、
もう半分ほどは分かっている顔だった。
継母がすぐに追いつき、柔らかく笑う。
「申し訳ありません、公爵夫人。ローザリアはまだ子どもっぽいところがあって」
子どもっぽい。
その一言で済ませるつもりなのだ。
エレノアはローザリアを見る。
昔ならここで、周囲に聞こえない声で「あとで」と言ったかもしれない。
あるいは、曖昧に笑って、その場だけやり過ごしたかもしれない。
けれど今は、後ろに下がる場所がない。
いや、違う。
下がらないと、さっき決めたのだ。
エレノアは低く言った。
「ローザリア」
妹の目がぱっと明るくなる。
「その首飾りは」
「譲れないわ」
広間の音楽が、遠くへ引いた。
ローザリアの顔から笑みが抜ける。
継母の扇が、ぴたりと止まる。
エレノアは目を逸らさない。
「今夜だけではなく」
喉の奥は熱い。けれど声は震えなかった。
「もう譲りません」
その言葉は、大きくはなかった。
だが広間の中央に近い場所では、十分すぎるほど届いた。
誰かが息を呑む。
誰かが扇の影で目を見開く。
継母がすぐに笑みを作り直す。
「公爵夫人、そんなに大げさに受け取らなくても」
「大げさではありません」
エレノアは先に返した。
「私が要らぬと申し上げています」
ローザリアが、信じられないものを見るみたいな目をする。
「お姉様……」
「公爵夫人だ」
低い声が、横から落ちた。
ヴィクトルだった。
それだけで、広間の空気が一変する。
ヴィクトルはローザリアを見たまま、もう一度言う。
「この場で、その呼び方を違えるな」
ローザリアの頬から色が引く。
継母でさえ、一瞬言葉を失った。
ヴィクトルは続ける。
「妻が断った」
一語ずつ、切るように落ちる。
「話は終わりだ」
継母がようやく口を開く。
「公爵様、妹が少し子どもっぽいだけで」
「そうか」
ヴィクトルの目が初めて継母へ向く。
「なら今のうちに教えておけ」
「……」
「公爵夫人の装身具へ、勝手に手を出すなと」
柔らかくもなく、怒鳴りもせず、ただ事実として言い渡す。
そのほうが、王都の貴婦人たちにはよく効いた。
継母の笑みが、ついに少し崩れる。
ローザリアがそれでも何か言おうと一歩出た時、ヴィクトルは初めてエレノアへ手を差し出した。
「来い」
たった一言。
だがそれは、広間の真ん中で、誰にでも分かる形の選び方だった。
エレノアはその手を見た。
王都で何度も、誰かの後ろへ回るために自分の足を動かしてきた。
譲るために。
目立たぬために。
場を荒らさないために。
今は違う。
エレノアはその手を取った。
ヴィクトルは強く引かない。
けれど迷いなく、自分の隣へエレノアを立たせる。
その位置で止まった時、クラリスがごく自然に微笑んだ。
「ノルデンフェルト公爵夫人、その首飾り、とてもお似合いですわ」
穏やかな声だった。
だが意味は鋭い。
そのネックレスが誰のもので、
誰がそれを身につけるべきか、
王太子妃が公の場で言葉にしたのだ。
エレノアは一礼する。
「ありがとうございます」
クラリスはそれ以上触れない。
触れないことで、なおさら位置が定まる。
ルシアンが横から、いかにも軽い調子で笑う。
「これはまた、王都の噂好きには忙しい夜だね」
誰へともなく言っているようで、実際には広間じゅうへ届いていた。
「北辺公爵夫妻の話題だけで、今夜は十分だろうな」
ヴィクトルが「うるさい」と低く返す。
ルシアンは肩をすくめる。
「うるさくもなるよ。見れば分かるから」
その一言で、また別のざわめきが場へ広がる。
見れば分かる。
北辺公爵が、誰を隣へ置くのか。
誰を拒むのか。
誰を公爵夫人として扱うのか。
もう、あいまいにはできなかった。
ローザリアは完全に言葉を失っていた。
継母は扇を持つ手を微動だにさせないまま、顔だけを整えている。
少し離れた場所では、父がこちらを見ていた。顔色一つ変えていないのに、その目だけがひどく冷たい。
エレノアはその視線を感じながらも、もうそちらを見なかった。
ヴィクトルの隣へ立つ。
クラリスの近くにいる。
王太子が軽く笑いながら場を流す。
その位置そのものが、もう答えだった。
しばらくして、ルシアンが杯を手に広間の視線を引いた。
「せっかくだ」
軽やかな声なのに、皆の耳が向く。
「今夜は北辺公爵夫妻の王都入りも祝おう」
誰かがすぐに杯を取る。
「春の社交期に、よき再会と、新しい顔ぶれに」
クラリスも杯を上げる。
ヴィクトルは無言で従い、エレノアもそれに倣った。
祝辞そのものは短い。
だが、王太子が北辺公爵夫妻をまとめて祝う、それだけで十分すぎる。
公の場で。
王太子夫妻の前で。
大広間の中央で。
エレノアは杯を持つ手を、静かに支えた。
勝った、と言葉にするにはまだ早い。
けれど、もう奪われる側へ戻ってはいない。
そのことだけが、指先の震えより先に、はっきりと体へ残っていた。




