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婚約者も功績も妹に奪われた私は、死ぬと噂の北辺公爵に嫁ぐことになりました 〜愛のない結婚のはずが、冷酷な夫は私を手放してくれない〜  作者: 師走
第10章 あなたが、私を選ぶ

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第44話

大広間の扉が開く。


先にクラリスが入り、その少し後ろにエレノアが続いた。ヴィクトルは反対側へ並ぶ。ルシアンはすでに中央寄りの位置で誰かと話していたが、こちらの動きに気づくと、すぐに会話を切って顔を上げた。


広間の灯りは変わっていない。

音楽も流れている。

けれど、戻ってきた三人を見た瞬間、場の気配がまた一段だけ静まった。


王太子妃の近くへ置かれたエレノア。

その反対側に立つヴィクトル。


さっきまでの「北辺公爵夫妻」という眺めとは、少し違って見えるのだろう。


クラリスは何も問わないまま、広間の中央近くへ進む。

その歩みに合わせて、エレノアも足を動かした。


もう下がらない。


そう自分に言い聞かせる必要もなく、足がその位置を選んでいた。


ところが、その空気を裂くように、明るい声が飛ぶ。


「お姉様!」


ローザリアだった。


広間の半ばから、まるで昔と同じ調子でこちらへ歩いてくる。継母が後ろから追うが、止めるには遅い。周囲の視線が一斉にその動きを追った。


エレノアは立ち止まる。


ローザリアはもう、人目も忘れていた。

目はまっすぐ胸元のネックレスへ向いている。


「まだつけていらしたのね」

息を弾ませるように言う。

「さっきは驚いたわ。少しお借りしたいだけだったのに」


その言葉に、場の空気が薄く冷えた。


王都の人間は察しがいい。

妹が姉の装身具へ執着していることも、

それが“姉妹のじゃれあい”では済まない場であることも、

もう半分ほどは分かっている顔だった。


継母がすぐに追いつき、柔らかく笑う。


「申し訳ありません、公爵夫人。ローザリアはまだ子どもっぽいところがあって」

子どもっぽい。

その一言で済ませるつもりなのだ。


エレノアはローザリアを見る。


昔ならここで、周囲に聞こえない声で「あとで」と言ったかもしれない。

あるいは、曖昧に笑って、その場だけやり過ごしたかもしれない。


けれど今は、後ろに下がる場所がない。

いや、違う。

下がらないと、さっき決めたのだ。


エレノアは低く言った。


「ローザリア」

妹の目がぱっと明るくなる。

「その首飾りは」

「譲れないわ」


広間の音楽が、遠くへ引いた。


ローザリアの顔から笑みが抜ける。

継母の扇が、ぴたりと止まる。


エレノアは目を逸らさない。


「今夜だけではなく」

喉の奥は熱い。けれど声は震えなかった。

「もう譲りません」


その言葉は、大きくはなかった。

だが広間の中央に近い場所では、十分すぎるほど届いた。


誰かが息を呑む。

誰かが扇の影で目を見開く。


継母がすぐに笑みを作り直す。


「公爵夫人、そんなに大げさに受け取らなくても」

「大げさではありません」

エレノアは先に返した。

「私が要らぬと申し上げています」


ローザリアが、信じられないものを見るみたいな目をする。


「お姉様……」

「公爵夫人だ」


低い声が、横から落ちた。


ヴィクトルだった。


それだけで、広間の空気が一変する。


ヴィクトルはローザリアを見たまま、もう一度言う。


「この場で、その呼び方を違えるな」


ローザリアの頬から色が引く。

継母でさえ、一瞬言葉を失った。


ヴィクトルは続ける。


「妻が断った」

一語ずつ、切るように落ちる。

「話は終わりだ」


継母がようやく口を開く。


「公爵様、妹が少し子どもっぽいだけで」

「そうか」

ヴィクトルの目が初めて継母へ向く。

「なら今のうちに教えておけ」

「……」

「公爵夫人の装身具へ、勝手に手を出すなと」


柔らかくもなく、怒鳴りもせず、ただ事実として言い渡す。

そのほうが、王都の貴婦人たちにはよく効いた。


継母の笑みが、ついに少し崩れる。


ローザリアがそれでも何か言おうと一歩出た時、ヴィクトルは初めてエレノアへ手を差し出した。


「来い」


たった一言。


だがそれは、広間の真ん中で、誰にでも分かる形の選び方だった。


エレノアはその手を見た。


王都で何度も、誰かの後ろへ回るために自分の足を動かしてきた。

譲るために。

目立たぬために。

場を荒らさないために。


今は違う。


エレノアはその手を取った。


ヴィクトルは強く引かない。

けれど迷いなく、自分の隣へエレノアを立たせる。


その位置で止まった時、クラリスがごく自然に微笑んだ。


「ノルデンフェルト公爵夫人、その首飾り、とてもお似合いですわ」

穏やかな声だった。

だが意味は鋭い。


そのネックレスが誰のもので、

誰がそれを身につけるべきか、

王太子妃が公の場で言葉にしたのだ。


エレノアは一礼する。


「ありがとうございます」


クラリスはそれ以上触れない。

触れないことで、なおさら位置が定まる。


ルシアンが横から、いかにも軽い調子で笑う。


「これはまた、王都の噂好きには忙しい夜だね」

誰へともなく言っているようで、実際には広間じゅうへ届いていた。

「北辺公爵夫妻の話題だけで、今夜は十分だろうな」

ヴィクトルが「うるさい」と低く返す。

ルシアンは肩をすくめる。

「うるさくもなるよ。見れば分かるから」


その一言で、また別のざわめきが場へ広がる。


見れば分かる。


北辺公爵が、誰を隣へ置くのか。

誰を拒むのか。

誰を公爵夫人として扱うのか。


もう、あいまいにはできなかった。


ローザリアは完全に言葉を失っていた。

継母は扇を持つ手を微動だにさせないまま、顔だけを整えている。

少し離れた場所では、父がこちらを見ていた。顔色一つ変えていないのに、その目だけがひどく冷たい。


エレノアはその視線を感じながらも、もうそちらを見なかった。


ヴィクトルの隣へ立つ。

クラリスの近くにいる。

王太子が軽く笑いながら場を流す。


その位置そのものが、もう答えだった。


しばらくして、ルシアンが杯を手に広間の視線を引いた。


「せっかくだ」

軽やかな声なのに、皆の耳が向く。

「今夜は北辺公爵夫妻の王都入りも祝おう」

誰かがすぐに杯を取る。

「春の社交期に、よき再会と、新しい顔ぶれに」

クラリスも杯を上げる。

ヴィクトルは無言で従い、エレノアもそれに倣った。


祝辞そのものは短い。

だが、王太子が北辺公爵夫妻をまとめて祝う、それだけで十分すぎる。


公の場で。

王太子夫妻の前で。

大広間の中央で。


エレノアは杯を持つ手を、静かに支えた。


勝った、と言葉にするにはまだ早い。

けれど、もう奪われる側へ戻ってはいない。


そのことだけが、指先の震えより先に、はっきりと体へ残っていた。

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