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婚約者も功績も妹に奪われた私は、死ぬと噂の北辺公爵に嫁ぐことになりました 〜愛のない結婚のはずが、冷酷な夫は私を手放してくれない〜  作者: 師走
第10章 あなたが、私を選ぶ

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第43話

回廊の角は静かだった。


広間の音楽は遠くに聞こえるのに、ここだけ別の空気みたいに冷えている。エレノアは首筋へ触れたまま、しばらく動けなかった。


「今は違う」


ヴィクトルの言葉は短い。

けれど、その短さのぶんだけ逃げ場がない。


エレノアはゆっくり目を開ける。


「頭では、分かっているのです」

「……」

「でも、ああ言われると」

喉が少し掠れた。

「体が先に思い出します」


誰かが欲しがる。

父が言う。

継母がなだめる。

ローザリアが笑う。


そうすると、考えるより先に差し出すほうへ手が動く。

あの家では、それが一番波風が立たなかったからだ。


ヴィクトルは黙って聞いていた。


エレノアは首を振る。


「嫌なのに」

「……」

「だめだと分かっているのに、外そうとした」


その言葉が、思ったより情けなく響いて、喉が痛んだ。


ヴィクトルは少し間を置いてから言った。


「分かっているなら、次は止めろ」

「簡単に言いますね」

「簡単ではない」

「……」

「だが、止めるのはお前だ」


慰めではなかった。

でも、突き放す言い方でもない。


エレノアは壁へ半歩ぶん背を預ける。冷たい石の感触が、少し頭を冴えさせた。


「公爵様は」

「何だ」

「私があのまま部屋を出て、もう戻らなくても」

言葉を選ぶ。

「それでよかったはずです」

「そうか?」

「だって、私を連れ帰れば、余計な噂が」

「噂ならもう立っている」

あっさり返されて、エレノアは顔を上げた。


ヴィクトルは続ける。


「今さら一つ二つ増えても同じだ」

「でも」

「問題はそこではない」


低い声だった。


「お前は、どうしたい」


その問いに、呼吸が止まる。


どうしたいか。

怖いかどうかではなく。

傷ついたかどうかでもなく。


自分がどうするのか。


エレノアは指先を胸元から離した。ネックレスはまだきちんと留まっている。外しかけた事実は消えないけれど、奪われてもいない。


「……戻ります」

口にすると、喉の奥が少し熱くなる。

「このまま下がったら、あの人たちは」

父も、継母も、ローザリアも。

「結局、私が自分で譲ったと思うでしょう」

「……」

「それは嫌です」


風の音はもう届かない。

なのに耳の奥で、出立の日の声や、さっきの「それくらい」がまだ鳴っている。


エレノアはまっすぐ前を見る。


「今まで、何度もそうでした」

「……」

「私が我慢した形に整えられて、それで丸く収まったことにされる」

言いながら、冷えきっていた指先に力が戻っていく。

「でも、もう」

一度、息を吸う。

「もう譲りません」


言った瞬間、留め具へ伸びていた指が止まった。


怒鳴ったわけではない。

強い声でもない。

けれど、それで足りた。


ヴィクトルはその顔をしばらく見ていた。


やがて、ひどく短く問う。


「立てるか」

「はい」

「震えている」

「それでも立てます」

「……そうか」


その返事のあと、彼は一歩だけ近づいた。


エレノアは思わず身をこわばらせたが、ヴィクトルはただ、胸元のネックレスを一瞥しただけだった。石座も留め具も乱れていないのを確かめるような、短い視線。


「そのままでいい」

「……はい」

「外すな」

「はい」


エレノアは小さく頷く。


ヴィクトルは先に歩き出さない。

ただ、広間へ戻る回廊のほうへ体を向ける。


「行くぞ」

「ええ」


二人で角を曲がる。


広間の灯りが近づくにつれて、音楽も笑い声もまたはっきりしてくる。さっきまでの私的な冷えた空間から、公の場へ戻る数歩がやけに長い。


その途中で、向こうからクラリスが現れた。


王太子妃は人の少ない回廊でも姿勢を崩さない。けれど今は、誰かを探していたのだと一目で分かった。エレノアとヴィクトルを見つけると、まずエレノアの顔を見て、それから首元のネックレスへ視線を落とす。


何があったのかは聞かない。

けれど何かあったことだけは、瞬時に察したらしい。


クラリスはごく自然に近づき、柔らかく言った。


「ちょうどよかったわ、公爵夫人」

その声だけで、張りつめていたものが少しほどける。

「こちらへいらして」


差し出されたのは腕でも手でもない。

ただ、クラリス自身のすぐ隣にできた空間だった。


そこがあなたの位置だと、言葉より先に示すための空間。


エレノアは一瞬だけ息を止めた。


ここで下がれば、また昔へ戻る。

けれど今はもう、それを選びたくない。


エレノアはゆっくり歩き、クラリスの示した場所へ立った。


クラリスはそれで十分だと言うように、ごく小さく頷く。

「では、参りましょう」


ヴィクトルは反対側へ並んだ。

ルシアンの姿も広間の入口近くに見える。


王太子夫妻。

北辺公爵夫妻。


その並びへ、自分が入る。


足はまだ少し重い。

けれど、もう下がらない。


広間の扉が開く直前、エレノアは一度だけネックレスへ触れた。

今度は外すためではない。

そこにあることを確かめるために。


そして顔を上げた。

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目が離せません・頑張れエレノア。更新待っています。
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