第43話
回廊の角は静かだった。
広間の音楽は遠くに聞こえるのに、ここだけ別の空気みたいに冷えている。エレノアは首筋へ触れたまま、しばらく動けなかった。
「今は違う」
ヴィクトルの言葉は短い。
けれど、その短さのぶんだけ逃げ場がない。
エレノアはゆっくり目を開ける。
「頭では、分かっているのです」
「……」
「でも、ああ言われると」
喉が少し掠れた。
「体が先に思い出します」
誰かが欲しがる。
父が言う。
継母がなだめる。
ローザリアが笑う。
そうすると、考えるより先に差し出すほうへ手が動く。
あの家では、それが一番波風が立たなかったからだ。
ヴィクトルは黙って聞いていた。
エレノアは首を振る。
「嫌なのに」
「……」
「だめだと分かっているのに、外そうとした」
その言葉が、思ったより情けなく響いて、喉が痛んだ。
ヴィクトルは少し間を置いてから言った。
「分かっているなら、次は止めろ」
「簡単に言いますね」
「簡単ではない」
「……」
「だが、止めるのはお前だ」
慰めではなかった。
でも、突き放す言い方でもない。
エレノアは壁へ半歩ぶん背を預ける。冷たい石の感触が、少し頭を冴えさせた。
「公爵様は」
「何だ」
「私があのまま部屋を出て、もう戻らなくても」
言葉を選ぶ。
「それでよかったはずです」
「そうか?」
「だって、私を連れ帰れば、余計な噂が」
「噂ならもう立っている」
あっさり返されて、エレノアは顔を上げた。
ヴィクトルは続ける。
「今さら一つ二つ増えても同じだ」
「でも」
「問題はそこではない」
低い声だった。
「お前は、どうしたい」
その問いに、呼吸が止まる。
どうしたいか。
怖いかどうかではなく。
傷ついたかどうかでもなく。
自分がどうするのか。
エレノアは指先を胸元から離した。ネックレスはまだきちんと留まっている。外しかけた事実は消えないけれど、奪われてもいない。
「……戻ります」
口にすると、喉の奥が少し熱くなる。
「このまま下がったら、あの人たちは」
父も、継母も、ローザリアも。
「結局、私が自分で譲ったと思うでしょう」
「……」
「それは嫌です」
風の音はもう届かない。
なのに耳の奥で、出立の日の声や、さっきの「それくらい」がまだ鳴っている。
エレノアはまっすぐ前を見る。
「今まで、何度もそうでした」
「……」
「私が我慢した形に整えられて、それで丸く収まったことにされる」
言いながら、冷えきっていた指先に力が戻っていく。
「でも、もう」
一度、息を吸う。
「もう譲りません」
言った瞬間、留め具へ伸びていた指が止まった。
怒鳴ったわけではない。
強い声でもない。
けれど、それで足りた。
ヴィクトルはその顔をしばらく見ていた。
やがて、ひどく短く問う。
「立てるか」
「はい」
「震えている」
「それでも立てます」
「……そうか」
その返事のあと、彼は一歩だけ近づいた。
エレノアは思わず身をこわばらせたが、ヴィクトルはただ、胸元のネックレスを一瞥しただけだった。石座も留め具も乱れていないのを確かめるような、短い視線。
「そのままでいい」
「……はい」
「外すな」
「はい」
エレノアは小さく頷く。
ヴィクトルは先に歩き出さない。
ただ、広間へ戻る回廊のほうへ体を向ける。
「行くぞ」
「ええ」
二人で角を曲がる。
広間の灯りが近づくにつれて、音楽も笑い声もまたはっきりしてくる。さっきまでの私的な冷えた空間から、公の場へ戻る数歩がやけに長い。
その途中で、向こうからクラリスが現れた。
王太子妃は人の少ない回廊でも姿勢を崩さない。けれど今は、誰かを探していたのだと一目で分かった。エレノアとヴィクトルを見つけると、まずエレノアの顔を見て、それから首元のネックレスへ視線を落とす。
何があったのかは聞かない。
けれど何かあったことだけは、瞬時に察したらしい。
クラリスはごく自然に近づき、柔らかく言った。
「ちょうどよかったわ、公爵夫人」
その声だけで、張りつめていたものが少しほどける。
「こちらへいらして」
差し出されたのは腕でも手でもない。
ただ、クラリス自身のすぐ隣にできた空間だった。
そこがあなたの位置だと、言葉より先に示すための空間。
エレノアは一瞬だけ息を止めた。
ここで下がれば、また昔へ戻る。
けれど今はもう、それを選びたくない。
エレノアはゆっくり歩き、クラリスの示した場所へ立った。
クラリスはそれで十分だと言うように、ごく小さく頷く。
「では、参りましょう」
ヴィクトルは反対側へ並んだ。
ルシアンの姿も広間の入口近くに見える。
王太子夫妻。
北辺公爵夫妻。
その並びへ、自分が入る。
足はまだ少し重い。
けれど、もう下がらない。
広間の扉が開く直前、エレノアは一度だけネックレスへ触れた。
今度は外すためではない。
そこにあることを確かめるために。
そして顔を上げた。




