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婚約者も功績も妹に奪われた私は、死ぬと噂の北辺公爵に嫁ぐことになりました 〜愛のない結婚のはずが、冷酷な夫は私を手放してくれない〜  作者: 師走
第10章 あなたが、私を選ぶ

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第42話

扉の向こうで、ローザリアの明るい声がもう一度した。


「お姉様、いらっしゃるのでしょう?」


返事をする前に、扉が開く。


ローザリアは春色のドレスの裾を軽く持ち上げたまま、中へ顔をのぞかせた。灯りの下で見ると、頬も唇もきれいに整っている。昔から、人の目を集める時の顔をよく知っている子だった。


「やっぱり。さっきお見かけして、もしかしてと思ったの」


その後ろから、継母がゆっくり入ってくる。


「勝手に入ってはだめよ、ローザリア」

たしなめる声は柔らかい。

だが、止めるつもりがないのは分かる。


エレノアは鏡台の前から離れなかった。


「何かご用ですか」

「そんなに硬くならないで」

ローザリアが笑う。

「少しお話ししたかっただけよ。だって、お姉様とこうして二人で――あ、三人だけれど――話せることなんて、もうあまりないでしょう?」


もう、という言い方が妙に引っかかった。


ローザリアの目が、エレノアの顔から胸元へ落ちる。

ネックレスを見たのだと、すぐに分かった。


「……それ」

一歩、近づく。

「やっぱり素敵。さっき遠くから見た時も気になっていたの」


エレノアは無意識に指先をネックレスへ寄せた。


ローザリアは悪びれずに続ける。


「前は見たことがなかったわ。古いもの?」

「ええ」

「そうなのね。石はきれいだけれど、少し昔風かしら」

継母が扇を閉じる。

「本当に。あなた、まだそんなものを持っていたのね」


その言い方で、継母は知っているのだと分かった。


母の形見だと。

それでも、わざと「そんなもの」と言う。


ローザリアはネックレスへ顔を寄せるようにして、目を輝かせた。


「でも、私の今夜のドレスには合いそう」

「ローザリア」

「だってほら、私のは首元が少し寂しいでしょう? お姉様はもう公爵夫人だもの、もっと立派なものをいくらでもお持ちでしょうし」


伸びてきた指が、石へ触れかける。


エレノアは半歩だけ引いた。


その小さな動きに、ローザリアがきょとんと目を丸くする。


「お姉様?」

「これは」

喉が少し乾く。

「貸せません」

「どうして?」

本気で不思議そうな顔だった。

「少しお借りするだけよ」

「だめです」

「そんなに怒らなくても」


継母が間に入るように声を落とす。


「妹が気に入っただけでしょう」

「お義母様」

「それくらい、譲ってあげてもいいじゃない」

柔らかな声のまま、扇の先がネックレスを指した。

「古いお品でしょう? ローザリアのほうが似合うなら、そのほうが石も喜ぶわ」


それくらい。


昔から、何度も聞かされた言い方だった。

それくらい我慢しなさい。

それくらい譲りなさい。

それくらいで騒がないで。


エレノアは首を振る。


「これは、だめです」

「どうしてそんなに」

ローザリアの声に、少し不満が混じる。

「たかが首飾りじゃない」

その一言で、背筋がひやりとする。


たかが。


その時、背後の扉がもう一度開いた。


父だった。


アルフレッド・アシュベリー侯爵は、部屋の空気をひと目見て、すぐに状況を察したらしい。ローザリア、継母、エレノア、そして胸元のネックレス。


「何をしている」


低く、乾いた声。


継母がすぐに微笑む。


「ローザリアが、お姉様の首飾りを少し気に入ったのですって」

「そうか」

父の目がネックレスへ向く。

それから、なんでもないものを見るように言った。

「そんな古い首飾りひとつで揉めるな」


その言葉で、時間が一瞬だけ止まる。


古い首飾り。


母の記憶も、

あの人が遺したたった二つの形見も、

父の目にはもう、その程度のものなのだ。


エレノアの喉がひどく冷えた。


ローザリアが、父の言葉にほっとしたような顔をする。


「ねえ、お父様もこう仰っているわ」

継母も静かに頷く。

「あなたはもう公爵夫人なのですもの。もっと相応しいものがあるでしょう?」

「ありません」

「そんなはずないでしょう」

「これは、私の」

言い切る前に、父が遮った。


「お前もアシュベリーの娘なら、最後くらい役に立て」


その一言が、深く落ちた。


最後くらい。


昔から、ずっとそうだった。

いらないものを引き受ける時。

誰かの穴を埋める時。

黙って差し出す時。


その役目が体へ染みついている。


気づいた時には、指先が首筋へ伸びていた。


留め具に触れる。

外そうとする。

頭ではだめだと分かっているのに、体が先に動く。


ローザリアの顔が明るくなる。

継母の目元が、ほんの少し緩む。


その瞬間だった。


「失礼。妻がどうかしましたか」


低い声が、扉口からまっすぐ落ちた。


全員が振り向く。


ヴィクトルが立っていた。


いつからそこにいたのか分からない。

黒の礼装のまま、表情も変えずにこちらを見ている。だが、その目だけがひどく冷たい。


エレノアの指先はまだ留め具にかかっていた。


ヴィクトルはそのまま部屋へ入り、誰にも断らずにエレノアの隣へ立つ。近い。肩が触れそうなほど。


そして、首元へ伸びたエレノアの手の上へ、自分の手を重ねた。


冷たい手ではなかった。

静かに、だが迷いなく、留め具から指を外させる。


「……公爵様」

継母が最初に声を取り戻す。

「少し家族で話していただけですの」

「そうか」


ヴィクトルはエレノアの手を離さないまま、ローザリアを見た。


「妻の身支度に、何の用だ」

ローザリアが一瞬言葉を失う。

「え……その、首飾りが素敵で」

「貸せと?」

「少しですわ」

「断ったはずだ」


声は大きくない。

なのに、ローザリアの肩が目に見えてすくむ。


継母がすぐに口を挟む。


「公爵様、誤解なさらないで。妹が気に入っただけなのです。古いものですし、それくらい」

「それくらい?」

ヴィクトルが初めて継母を見る。

その視線に、継母の笑みがかすかに固まる。

「妻が要らぬと言ったものを、なお求める理由になるのか」


継母は返せない。


父がそこで口を開いた。


「公爵閣下、娘同士のことです」

「公爵夫人と侯爵令嬢だ」

ヴィクトルの返しは間髪がなかった。

「呼び方を違えるな」


部屋の空気が、はっきり変わる。


父の目が冷たくなる。


「身内の話を」

「なら、身内として妻に何をさせようとしていた」


その一言に、父の言葉が途切れた。


ヴィクトルはそこで追及を重ねなかった。

代わりに、エレノアへ向き直る。


「戻るぞ」


それだけで十分だった。


エレノアはすぐには動けなかった。

首筋がまだ冷たい。

外しかけた指先だけが、遅れて震え出す。


ヴィクトルの目が一度だけ落ちる。

留め具へ伸びたまま、ぎこちなく止まっている手へ。


「行け」


今度は低かった。


エレノアはようやく頷く。


「……はい」


歩き出そうとした時、ローザリアが思わずというように前へ出た。


「公爵様、私」

ヴィクトルはもう見ない。

「下がれ」

それだけで終わる。


熱も冷たさもない、完全な拒絶だった。


ローザリアの顔から色が引く。

自分が拒まれるはずがないと思っていた子の顔だった。


エレノアはもう振り返らなかった。


ヴィクトルの半歩後ろを歩き、部屋を出る。回廊へ出た瞬間、張っていたものが一気にほどけかけて、足が少し揺れた。


ヴィクトルが立ち止まる。


「歩けるか」

「……大丈夫です」

「嘘だな」

その返しがあまりに早くて、少し息が止まる。


人気の少ない回廊の角へ連れて行かれる。

広間の音はまだ届くが、ここなら人目は薄い。


そこでようやく、ヴィクトルはエレノアの顔を見た。


「外す気だったのか」

責める声ではない。

けれど、逃がさない問いだった。


エレノアは首筋へ手をやる。

留め具は、まだきちんと留まっている。


「……体が、勝手に」

言った途端、喉が痛くなる。

「そう言われると、昔から」

最後まで言えない。


ヴィクトルは黙っていた。


何か大きな慰めが来るとは思わなかった。

この人はそういう人ではない。


やがて、短く言う。


「今は違う」

その一言だけが、ひどくまっすぐ胸へ入る。


エレノアは目を閉じた。

違う。

本当にそうなのだろうかと、まだどこかで確かめきれない自分がいる。


けれど、さっきこの人は、あの部屋で、父の前で、継母の前で、ローザリアの前で、ネックレスを外させなかった。


その事実だけは、揺らがない。


エレノアの指先が、ようやく留め具から離れた。

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