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婚約者も功績も妹に奪われた私は、死ぬと噂の北辺公爵に嫁ぐことになりました 〜愛のない結婚のはずが、冷酷な夫は私を手放してくれない〜  作者: 師走
第10章 あなたが、私を選ぶ

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第41話

夜会の会場は、昨日までの広間よりずっと明るかった。


天井の高い大広間に、いくつもの燭台が灯っている。磨かれた床へ光が落ち、音楽が流れ、色とりどりの装いが波のように揺れていた。春の社交期らしい華やぎだ。けれど、その華やぎの芯には王都特有の冷たい目がある。


名を呼ばれ、ヴィクトルとともに中へ入った瞬間、それが一斉にこちらへ向いた。


「ノルデンフェルト公爵夫妻」


ざわめきは小さい。

だが確かだった。


北辺公爵の実像を見ようとする目。

その隣に立つ女を見る目。

どちらも隠されてはいない。


エレノアはヴィクトルの半歩後ろへ下がりかけて、すぐに足を止める。昨日、クラリスに与えられた位置が頭に残っていた。後ろではない。隣だ。


ヴィクトルは何も言わない。

ただ、歩幅を少し緩めた。


それだけで十分だった。


二人で進むあいだ、左右からいくつもの視線が刺さる。王都の貴婦人たちは扇で口元を隠し、紳士たちは話しながらも目だけは追ってくる。


「……あれが」

「北辺公爵」

「思っていたより」

「公爵夫人のほうは」

「アシュベリー家の……」


エレノアは聞こえないふりをした。


できないことではない。

王都で生きていた頃から、都合の悪い囁きには耳を貸さない顔を覚えていた。けれど今夜は、昔より少し意味が違う。聞こえないふりをするのは、怯えているからではなく、足を止めないためだった。


最初の挨拶を終え、二組目の貴族夫妻の前へ出た時、伯爵夫人が柔らかく微笑んだ。


「公爵夫人、北辺の冬を越えられたそうですね」

「ええ」

「おつらくはありませんでしたか」

「厳しくはありました」

エレノアは相手の目を見て答える。

「でも、備えと回し方で越えられる冬でもありました」

伯爵夫人の扇が、ほんの少し止まる。

「まあ」

「王都では見えにくいだけで、北辺にも暮らしがありますから」

「……そうですわね」


その会話の端を、周囲の何人かが聞いていたのが分かった。


北辺をただの寒く荒れた土地としてではなく、暮らしと備えのある場所として話す。公爵夫人として、その土地の言葉を持っている。それだけで、こちらを見る目の温度がかすかに変わる。


ヴィクトルは隣で何も足さない。

だが否定もしない。


三組目の挨拶の途中で、ようやく見つかった。


視界の向こう、燭台の光の下で、ローザリアがはっと息を呑んだのが分かる。明るい色のドレスに、甘い笑みを浮かべるよう整えられた顔。その笑みだけが、今は消えていた。


継母はその横で扇を持つ手を少し止め、父はさらに後ろからこちらを見ている。


エイドリアンもいた。


背筋が、ひやりとする。


遠いのに、近い。

あの家の空気だけが、王都の広い広間の中をまっすぐ届いてくるみたいだった。


ローザリアの視線は、まずエレノアの顔へ、次に胸元へ落ちる。

母のネックレスだ、と気づいたのだろう。目がさらに大きくなる。

継母はすぐに何か囁き、父は動かないまま場を測る目をしていた。


ヴィクトルの低い声が横から落ちる。


「持つか」

「……はい」

「前を見ろ」

「ええ」


短いやり取りなのに、古い世界へ引かれかけた足元が戻る。


エレノアはもう一度、正面へ目を向けた。


次の挨拶相手は侯爵夫人だった。王都で何度か同席したことのある顔だ。向こうも思い出したらしく、目元がほんの少し揺れる。だがすぐに整えて、淑やかに礼をする。


「公爵夫人、王都へようこそ」

「ありがとうございます」

「北辺のお話を、ぜひまた聞かせていただきたいですわ」

「機会がございましたら」


昔の自分なら、この言葉の奥を読みすぎていたかもしれない。社交辞令なのか、打診なのか、様子見なのか。けれど今は、それを全部受け止めすぎない。


必要なだけ返し、立つ位置を崩さない。


それで足りるのだと、昨日から少しずつ分かってきた。


挨拶が続くうち、じわじわと熱がこもってきた。


会場の灯り。

人の密度。

慣れない装いの重さ。

そして、胸元へ落ち着いているはずのネックレスの感触。


留め具が外れそうなわけではない。だが首筋に少し触れ方が気になった。髪の結い上げが緩んだのかもしれない。ほんの小さな違和感なのに、今夜のような場ではやけに意識へ引っかかる。


ヴィクトルは王太子の側近らしい男に呼び止められ、短い言葉を交わしていた。


その隙に、エレノアは小さく言う。


「公爵様」

ヴィクトルが顔だけを向ける。

「少し、身だしなみを整えてまいります」

「具合が悪いのか」

「いいえ。少し、ネックレスが」

その言葉に、ヴィクトルの目が胸元へ落ちる。

「留め具か」

「外れそうではないのですが」

「……」

「すぐ戻ります」


ヴィクトルは一拍だけ黙った。

それから短く言う。


「長居するな」

「はい」


リネットを呼ぼうとしたが、ちょうど反対側でアグネスに何か確認を取っているのが見えた。大広間の入口脇に小さな控えの間があったはずだ。そこまでなら一人でも問題ない。


エレノアは裾を乱さぬよう気をつけながら、人の流れの端を抜ける。


広間から半歩外へ出るだけで、音楽が少し遠くなる。控えの間へ続く細い回廊は人通りも少なく、壁際の燭台の灯りも柔らかい。


扉を閉めると、ようやく深く息ができた。


鏡の前に立ち、首筋へ手をやる。

留め具は外れていない。

ただ、髪の細い後れ毛が絡んでいただけだった。


ほんのそれだけ。


自分でも笑ってしまいそうになる。あれほど気を張っていたのだから、これくらいの違和感でも大きく感じたのだろう。


エレノアはそっと髪を払う。

石はきちんと胸元に留まっている。


大丈夫。

戻れる。


そう思ったところで、控えの間の外から、軽い足音が近づいてきた。


一人ではない。

柔らかい衣擦れも混じる。


血の気が、すうっと引いた。


次の瞬間、扉の向こうで、聞き慣れた明るい声がした。


「お姉様、いらっしゃるのでしょう?」

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