第41話
夜会の会場は、昨日までの広間よりずっと明るかった。
天井の高い大広間に、いくつもの燭台が灯っている。磨かれた床へ光が落ち、音楽が流れ、色とりどりの装いが波のように揺れていた。春の社交期らしい華やぎだ。けれど、その華やぎの芯には王都特有の冷たい目がある。
名を呼ばれ、ヴィクトルとともに中へ入った瞬間、それが一斉にこちらへ向いた。
「ノルデンフェルト公爵夫妻」
ざわめきは小さい。
だが確かだった。
北辺公爵の実像を見ようとする目。
その隣に立つ女を見る目。
どちらも隠されてはいない。
エレノアはヴィクトルの半歩後ろへ下がりかけて、すぐに足を止める。昨日、クラリスに与えられた位置が頭に残っていた。後ろではない。隣だ。
ヴィクトルは何も言わない。
ただ、歩幅を少し緩めた。
それだけで十分だった。
二人で進むあいだ、左右からいくつもの視線が刺さる。王都の貴婦人たちは扇で口元を隠し、紳士たちは話しながらも目だけは追ってくる。
「……あれが」
「北辺公爵」
「思っていたより」
「公爵夫人のほうは」
「アシュベリー家の……」
エレノアは聞こえないふりをした。
できないことではない。
王都で生きていた頃から、都合の悪い囁きには耳を貸さない顔を覚えていた。けれど今夜は、昔より少し意味が違う。聞こえないふりをするのは、怯えているからではなく、足を止めないためだった。
最初の挨拶を終え、二組目の貴族夫妻の前へ出た時、伯爵夫人が柔らかく微笑んだ。
「公爵夫人、北辺の冬を越えられたそうですね」
「ええ」
「おつらくはありませんでしたか」
「厳しくはありました」
エレノアは相手の目を見て答える。
「でも、備えと回し方で越えられる冬でもありました」
伯爵夫人の扇が、ほんの少し止まる。
「まあ」
「王都では見えにくいだけで、北辺にも暮らしがありますから」
「……そうですわね」
その会話の端を、周囲の何人かが聞いていたのが分かった。
北辺をただの寒く荒れた土地としてではなく、暮らしと備えのある場所として話す。公爵夫人として、その土地の言葉を持っている。それだけで、こちらを見る目の温度がかすかに変わる。
ヴィクトルは隣で何も足さない。
だが否定もしない。
三組目の挨拶の途中で、ようやく見つかった。
視界の向こう、燭台の光の下で、ローザリアがはっと息を呑んだのが分かる。明るい色のドレスに、甘い笑みを浮かべるよう整えられた顔。その笑みだけが、今は消えていた。
継母はその横で扇を持つ手を少し止め、父はさらに後ろからこちらを見ている。
エイドリアンもいた。
背筋が、ひやりとする。
遠いのに、近い。
あの家の空気だけが、王都の広い広間の中をまっすぐ届いてくるみたいだった。
ローザリアの視線は、まずエレノアの顔へ、次に胸元へ落ちる。
母のネックレスだ、と気づいたのだろう。目がさらに大きくなる。
継母はすぐに何か囁き、父は動かないまま場を測る目をしていた。
ヴィクトルの低い声が横から落ちる。
「持つか」
「……はい」
「前を見ろ」
「ええ」
短いやり取りなのに、古い世界へ引かれかけた足元が戻る。
エレノアはもう一度、正面へ目を向けた。
次の挨拶相手は侯爵夫人だった。王都で何度か同席したことのある顔だ。向こうも思い出したらしく、目元がほんの少し揺れる。だがすぐに整えて、淑やかに礼をする。
「公爵夫人、王都へようこそ」
「ありがとうございます」
「北辺のお話を、ぜひまた聞かせていただきたいですわ」
「機会がございましたら」
昔の自分なら、この言葉の奥を読みすぎていたかもしれない。社交辞令なのか、打診なのか、様子見なのか。けれど今は、それを全部受け止めすぎない。
必要なだけ返し、立つ位置を崩さない。
それで足りるのだと、昨日から少しずつ分かってきた。
挨拶が続くうち、じわじわと熱がこもってきた。
会場の灯り。
人の密度。
慣れない装いの重さ。
そして、胸元へ落ち着いているはずのネックレスの感触。
留め具が外れそうなわけではない。だが首筋に少し触れ方が気になった。髪の結い上げが緩んだのかもしれない。ほんの小さな違和感なのに、今夜のような場ではやけに意識へ引っかかる。
ヴィクトルは王太子の側近らしい男に呼び止められ、短い言葉を交わしていた。
その隙に、エレノアは小さく言う。
「公爵様」
ヴィクトルが顔だけを向ける。
「少し、身だしなみを整えてまいります」
「具合が悪いのか」
「いいえ。少し、ネックレスが」
その言葉に、ヴィクトルの目が胸元へ落ちる。
「留め具か」
「外れそうではないのですが」
「……」
「すぐ戻ります」
ヴィクトルは一拍だけ黙った。
それから短く言う。
「長居するな」
「はい」
リネットを呼ぼうとしたが、ちょうど反対側でアグネスに何か確認を取っているのが見えた。大広間の入口脇に小さな控えの間があったはずだ。そこまでなら一人でも問題ない。
エレノアは裾を乱さぬよう気をつけながら、人の流れの端を抜ける。
広間から半歩外へ出るだけで、音楽が少し遠くなる。控えの間へ続く細い回廊は人通りも少なく、壁際の燭台の灯りも柔らかい。
扉を閉めると、ようやく深く息ができた。
鏡の前に立ち、首筋へ手をやる。
留め具は外れていない。
ただ、髪の細い後れ毛が絡んでいただけだった。
ほんのそれだけ。
自分でも笑ってしまいそうになる。あれほど気を張っていたのだから、これくらいの違和感でも大きく感じたのだろう。
エレノアはそっと髪を払う。
石はきちんと胸元に留まっている。
大丈夫。
戻れる。
そう思ったところで、控えの間の外から、軽い足音が近づいてきた。
一人ではない。
柔らかい衣擦れも混じる。
血の気が、すうっと引いた。
次の瞬間、扉の向こうで、聞き慣れた明るい声がした。
「お姉様、いらっしゃるのでしょう?」




