第40話
夜会の支度は、昼のうちから始まった。
王都屋敷の空気が、朝の茶会とは少し違う。廊下を行き交う足音が早くなり、客間の花が替えられ、銀器の触れ合う音まで澄んでいる。今夜はただ顔を見せるだけでは済まないのだと、屋敷そのものが知っているみたいだった。
リネットが衣装を広げる。
深い青より、さらに夜の灯りに沈む色だった。黒に見えるほどの濃紺。胸元や袖の線は端正で、余計な飾りはない。けれど布地そのものに品がある。王都の流行の甘さとは違う、公爵夫人として立つための装いだと一目で分かった。
「こちらですね」
リネットが小さく言う。
「ええ」
「お顔色が負けません」
「そうかしら」
「負けません」
昔と同じ言い方だった。
だから、少し笑ってしまう。
アグネスが後ろから言う。
「軽く見えないことが大事です」
「……北辺ではなく、王都でも?」
「王都だからです」
それも、もう前に聞いた。
エレノアは黙って腕を上げる。リネットが袖を通し、アグネスが背の線を整える。北辺の女たちの手つきは無駄がない。王都の侍女のように褒めながら飾るのではなく、立つために必要な形へ静かに仕上げていく。
最後に、ネックレスの箱が開かれた。
母の形見。
直された石座。
新しくなったのに、見た目だけは昔のままの留め具。
リネットがそれを手に取り、少し指先で温めてから背後へ回る。
「髪を少し上げます」
「ええ」
「苦しくないようにいたします」
「お願いします」
首筋へ冷たい鎖が触れる。
以前なら、その重みはいつも少し不安だった。どこかで留め具が頼りなく揺れて、うっかり触れれば壊れてしまいそうで。今は違う。かちりと噛み合う音が、ひどく静かで確かだった。
鏡の中で、石が胸元へ収まる。
それを見た瞬間、懐かしさより先に、今夜これをつけて出る意味のほうが胸へ落ちた。
「お嬢様」
リネットが鏡越しに目を合わせる。
「とてもきれいです」
「ありがとう」
「奥様も、お喜びになります」
その言葉に、少し言葉が詰まる。
母のため、とはもう言わない。
けれどこの形見を、あの家に奪われた娘としてではなく、公爵夫人として身につけることには意味があった。
扉が叩かれる。
返事をすると、入ってきたのはヴィクトルだった。
黒に近い礼装に身を包んでいる。軍服ほどの鋭さはないが、飾り気のない線が余計に体格を際立たせていた。王都の貴公子らしい華やかさとは違う。静かで、硬く、目を引く。
リネットとアグネスが一礼して、自然に半歩下がる。
ヴィクトルの視線が、まずエレノアの顔へ、それから胸元のネックレスへ落ちた。
「留め具は」
「問題ありません」
リネットが先に答える。
「動いてもずれません」
「そうか」
ヴィクトルはそれ以上近づかない。
けれど、その目がいつもより少し長く留まる。
エレノアは鏡の前で立ったまま、妙に落ち着かない。
「変ではありませんか」
気づけば、先に聞いていた。
ヴィクトルの眉がほんの少し動く。
「何が」
「装いが」
「変なら直させる」
「……では、変ではないのですね」
「変ではない」
短い返答だった。
それだけなのに、張りつめていた息が少しゆるむ。
ヴィクトルはもう一度ネックレスを見る。
「それにしろ」
「え?」
「今夜は」
深い青ではなく、母の形見のことを言っているのだと、遅れて気づく。
エレノアはそっと石へ指を添えた。
「はい」
「外れるならすぐ戻れ」
「大丈夫です」
「言い切るな」
「……たぶん」
「やめろ」
低い声だったが、リネットが後ろで小さく息を殺したのが分かる。
エレノアはかすかに口元を緩め、それをすぐに引き締めた。今夜は笑って崩れる夜ではない。
ヴィクトルは扉のほうへ体を向ける。
「行くぞ」
「はい」
リネットが裾を最後に払う。アグネスが肩の線を見て、黙って頷いた。
部屋を出ると、王都屋敷の廊下はもう夜会のための灯りに変わっていた。昼よりも少し落とした灯が壁の金具へ反射し、石床に柔らかい影を落とす。
玄関ホールには侍従が並び、外では馬車の用意が整っている。
階段を下りる時、エレノアは一度だけ足を止めた。
怖くないわけではない。
今夜は昨日より、もっと近くで見られる。
父も継母もローザリアも、エイドリアンも、たぶん同じ場にいる。
それでも、下がらないと決めたのは自分だ。
その時、横からヴィクトルの声が落ちる。
「前を見ろ」
昨日と同じ言葉だった。
「はい」
「下を見るな」
「……ええ」
エレノアは顔を上げる。
玄関ホールの鏡に、公爵夫妻の姿が並んで映った。
隣に立つ男は、王都の噂とは少し違うどころではない。冷たく、強く、目を引く。それでも自分を後ろへ下げず、隣に置く男だ。
ならば、自分もそれに見合う立ち方をしなければならない。
エレノアはネックレスの留め具へ一瞬だけ指を添えた。
確かに留まっている。
もう差し出すためのものではなく、今夜、自分で身につけて出るためのものとして。
馬車へ乗り込む直前、ヴィクトルが自然に手を差し出す。
エレノアはその手を取り、踏み台を上がった。
王都の夜は明るい。
けれど今夜、自分がどこへ向かうのかだけは、もう迷わなかった。




