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婚約者も功績も妹に奪われた私は、死ぬと噂の北辺公爵に嫁ぐことになりました 〜愛のない結婚のはずが、冷酷な夫は私を手放してくれない〜  作者: 師走
第10章 あなたが、私を選ぶ

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第40話

夜会の支度は、昼のうちから始まった。


王都屋敷の空気が、朝の茶会とは少し違う。廊下を行き交う足音が早くなり、客間の花が替えられ、銀器の触れ合う音まで澄んでいる。今夜はただ顔を見せるだけでは済まないのだと、屋敷そのものが知っているみたいだった。


リネットが衣装を広げる。


深い青より、さらに夜の灯りに沈む色だった。黒に見えるほどの濃紺。胸元や袖の線は端正で、余計な飾りはない。けれど布地そのものに品がある。王都の流行の甘さとは違う、公爵夫人として立つための装いだと一目で分かった。


「こちらですね」

リネットが小さく言う。

「ええ」

「お顔色が負けません」

「そうかしら」

「負けません」


昔と同じ言い方だった。

だから、少し笑ってしまう。


アグネスが後ろから言う。


「軽く見えないことが大事です」

「……北辺ではなく、王都でも?」

「王都だからです」


それも、もう前に聞いた。


エレノアは黙って腕を上げる。リネットが袖を通し、アグネスが背の線を整える。北辺の女たちの手つきは無駄がない。王都の侍女のように褒めながら飾るのではなく、立つために必要な形へ静かに仕上げていく。


最後に、ネックレスの箱が開かれた。


母の形見。

直された石座。

新しくなったのに、見た目だけは昔のままの留め具。


リネットがそれを手に取り、少し指先で温めてから背後へ回る。


「髪を少し上げます」

「ええ」

「苦しくないようにいたします」

「お願いします」


首筋へ冷たい鎖が触れる。


以前なら、その重みはいつも少し不安だった。どこかで留め具が頼りなく揺れて、うっかり触れれば壊れてしまいそうで。今は違う。かちりと噛み合う音が、ひどく静かで確かだった。


鏡の中で、石が胸元へ収まる。


それを見た瞬間、懐かしさより先に、今夜これをつけて出る意味のほうが胸へ落ちた。


「お嬢様」


リネットが鏡越しに目を合わせる。


「とてもきれいです」

「ありがとう」

「奥様も、お喜びになります」


その言葉に、少し言葉が詰まる。


母のため、とはもう言わない。

けれどこの形見を、あの家に奪われた娘としてではなく、公爵夫人として身につけることには意味があった。


扉が叩かれる。


返事をすると、入ってきたのはヴィクトルだった。


黒に近い礼装に身を包んでいる。軍服ほどの鋭さはないが、飾り気のない線が余計に体格を際立たせていた。王都の貴公子らしい華やかさとは違う。静かで、硬く、目を引く。


リネットとアグネスが一礼して、自然に半歩下がる。


ヴィクトルの視線が、まずエレノアの顔へ、それから胸元のネックレスへ落ちた。


「留め具は」

「問題ありません」

リネットが先に答える。

「動いてもずれません」

「そうか」


ヴィクトルはそれ以上近づかない。

けれど、その目がいつもより少し長く留まる。


エレノアは鏡の前で立ったまま、妙に落ち着かない。


「変ではありませんか」

気づけば、先に聞いていた。


ヴィクトルの眉がほんの少し動く。


「何が」

「装いが」

「変なら直させる」

「……では、変ではないのですね」

「変ではない」


短い返答だった。


それだけなのに、張りつめていた息が少しゆるむ。


ヴィクトルはもう一度ネックレスを見る。


「それにしろ」

「え?」

「今夜は」


深い青ではなく、母の形見のことを言っているのだと、遅れて気づく。


エレノアはそっと石へ指を添えた。


「はい」

「外れるならすぐ戻れ」

「大丈夫です」

「言い切るな」

「……たぶん」

「やめろ」


低い声だったが、リネットが後ろで小さく息を殺したのが分かる。


エレノアはかすかに口元を緩め、それをすぐに引き締めた。今夜は笑って崩れる夜ではない。


ヴィクトルは扉のほうへ体を向ける。


「行くぞ」

「はい」


リネットが裾を最後に払う。アグネスが肩の線を見て、黙って頷いた。


部屋を出ると、王都屋敷の廊下はもう夜会のための灯りに変わっていた。昼よりも少し落とした灯が壁の金具へ反射し、石床に柔らかい影を落とす。


玄関ホールには侍従が並び、外では馬車の用意が整っている。


階段を下りる時、エレノアは一度だけ足を止めた。


怖くないわけではない。

今夜は昨日より、もっと近くで見られる。

父も継母もローザリアも、エイドリアンも、たぶん同じ場にいる。


それでも、下がらないと決めたのは自分だ。


その時、横からヴィクトルの声が落ちる。


「前を見ろ」

昨日と同じ言葉だった。

「はい」

「下を見るな」

「……ええ」


エレノアは顔を上げる。


玄関ホールの鏡に、公爵夫妻の姿が並んで映った。


隣に立つ男は、王都の噂とは少し違うどころではない。冷たく、強く、目を引く。それでも自分を後ろへ下げず、隣に置く男だ。


ならば、自分もそれに見合う立ち方をしなければならない。


エレノアはネックレスの留め具へ一瞬だけ指を添えた。

確かに留まっている。

もう差し出すためのものではなく、今夜、自分で身につけて出るためのものとして。


馬車へ乗り込む直前、ヴィクトルが自然に手を差し出す。


エレノアはその手を取り、踏み台を上がった。


王都の夜は明るい。

けれど今夜、自分がどこへ向かうのかだけは、もう迷わなかった。

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