第39話
その日の夜会は、茶会より少し遅くまで続いた。
音楽もある。笑い声も、グラスの触れ合う音も、昨日よりかすかに華やかだ。けれどエレノアには、どこか薄い膜の向こうで鳴っているように聞こえた。
継母とローザリアに会ったあとから、小さな緊張が喉の奥に居座っている。
父はまだ来ていない。
だが、来ないはずがない気もしていた。
王都の社交はそういう場だ。姿を見せた以上、旧い世界の人間は必ずどこかで近づこうとする。優しさであれ、好奇心であれ、計算であれ。
エレノアはリネットと短く言葉を交わしたあと、少し空気を入れ替えたくて、広間に続く回廊へ出た。
人通りはある。だが広間の中ほどではない。声を潜めれば、表向きの礼を崩さずに言葉を交わせる程度の距離がある。
石壁の窓から夜気が薄く入り、首筋を冷やした。
「ノルデンフェルト公爵夫人」
背後から呼ばれて、エレノアはゆっくり振り返る。
父だった。
アルフレッド・アシュベリー侯爵は、昔と何も変わらない顔で立っている。怒りも驚きも表に出さない。場にふさわしい微笑みすらない。ただ、公の場で娘ではなく公爵夫人へ声をかける時の、きれいに整えた無表情だけがある。
エレノアも礼を取る。
「お父様」
「少しよろしいか、公爵夫人」
その呼び方に、あえて訂正はしなかった。
父は回廊の端、柱の影が少しかかる場所まで歩く。完全な密室ではない。だが人の耳が届きにくい程度には離れている。
そこでようやく足を止め、こちらを見た。
「思ったより、うまくやっているようだな」
最初の言葉がそれだった。
久しぶりだとか、元気そうだとか、そういうものは一つもない。娘へ向ける声ではなく、予想外に値を上げた駒を見る声だ。
エレノアは静かに答える。
「おかげさまで」
「そういう返しができるようになったか」
「前からしていたつもりです」
「私の前では、そうでもなかった」
父の目は冷たい。
昔と同じだ。相手を見ているようで、実際には使い道と危険度だけを測っている。
少しの沈黙のあと、父は単刀直入に言った。
「余計なことは話していないだろうな」
エレノアは目を細める。
「何のことでしょう」
「分からないふりをするな」
声は低く、平坦だった。
「北辺向けの帳簿の件だ」
背筋が、ひやりと冷える。
やはり、と思った。
婚約のことでもない。今夜の立場でもない。父が最初に口にしたのは、あの頃エレノアが見つけた綻びのことだった。
「昔の感情を引きずって、家の内を外へ持ち出す真似はするな」
「昔の感情」
「婚約を失った腹いせに騒いだ時のことだ」
「……まだ、そういうことになっているのですね」
「そう見える、という話だ」
その言葉に、喉の奥が少し熱くなる。
昔と何も変わらない。
見えるように扱えば、それが真実になると思っている。
父は続ける。
「北辺公爵夫人として立つなら、家の恥を外へ晒す愚かさくらい分かるだろう」
「家の恥、ですか」
「お前が口を滑らせれば、恥になる」
「不正があったなら、それは口にしたほうではなく」
「言葉を選べ」
ぴしゃりと切られる。
だが怒鳴らない。
怒鳴らないからこそ、冷たさがよく分かる。
エレノアは父を見つめた。
「お父様は、私が何を知っているかではなく」
一拍置く。
「私が何を言うかを怖がっておられるのですね」
父の目が、かすかに変わる。
それだけで十分だった。
後悔ではない。
心配でもない。
脅威として見ているのだ。
王太子妃のそばに立ち、北辺公爵の妻として王都へ戻った長女を。
父は言う。
「思い上がるな」
「思い上がってなど」
「北辺公爵の妻という位置が、永遠にお前を守るとでも思っているのか」
「……」
「王都の風向きなど、いくらでも変わる」
脅しだった。
露骨ではない。けれど十分に分かる。今の立場を失うかもしれない、と先に思わせておきたいのだ。
エレノアは不思議なほど静かだった。
怖くないわけではない。
けれど、昔みたいに足が竦む感じはもうない。
「そうかもしれません」
父の眉がかすかに寄る。
「ですが」
「何だ」
「だからといって、戻ることはありません」
その言葉は、自分でも驚くほどまっすぐ落ちた。
回廊の空気が冷える。
父は娘を見た。
その目に初めて、はっきりと不快が浮かぶ。
「戻る?」
「お父様の家の論理で、私が黙る立場にはもうおりません」
「アシュベリーの娘であることは変わらん」
「血筋はそうでしょうね」
エレノアは目を逸らさない。
「でも、今の私はノルデンフェルト公爵夫人です」
父の口元が、かすかに固くなる。
その顔を見て、エレノアはようやく分かった。
この人は、自分が公爵夫人として公の場に立ち、その立場を自分の口で言えるようになったことを、いちばん嫌がっているのだ。
従順なままならよかった。
遠くへやったまま消えていればよかった。
けれど戻ってきた。
しかも、昔の家の論理では動かせない位置で。
父は低く言う。
「お前ひとりの意地で済むならいい」
「意地ではありません」
「違わない。お前は昔から、余計なところばかり見て、余計なことを抱え込む」
「……」
「それで誰が得をする」
「少なくとも、冷える人をそのままにはしません」
「北辺の話をしているのではない」
そこに本音が出ていた。
北辺を案じているわけではない。
自分の家がどう見られるかだけなのだ。
エレノアはもう一度息を吸った。
「私は、もう戻りません」
父の目が細くなる。
「何と」
「たとえ王都の風向きが変わっても」
声は震えなかった。
「それでも、あの家へ戻って黙ることはしません」
言い切った瞬間、足元に重さが戻った。
父はしばらく何も言わなかった。
やがて、ひどく冷たい声で言う。
「……北辺で少し居場所を得たからといって、強くなったつもりか」
「強くなったかどうかは分かりません」
「なら何だ」
「もう、自分で下がるのをやめただけです」
父の顔から、最後の温度まで消える。
それで十分だった。
今のこの人に必要なのは、娘を説得することではなく、どう扱うかを決め直すことだ。目の前の娘が昔のままではないと、ようやく認めた顔だった。
「後悔するなよ」
最後に残したのは、その一言だけだった。
脅しとも忠告とも取れる。
けれどエレノアには、負け惜しみに近く聞こえた。
父はそれ以上何も言わず、回廊の向こうへ去っていく。背筋は伸び、歩幅も乱れない。だが、その背を追いたいとは少しも思わなかった。
エレノアはその場に一人残る。
膝が少し重い。
けれど、昔みたいに息ができなくなるほどではない。
「お嬢様」
低い声に振り向くと、リネットが少し離れた場所に立っていた。顔色はよくない。全部は聞こえなくても、相手が父だとは分かっていたのだろう。
「待たせたわね」
「……はい」
「大丈夫よ」
「本当に?」
「ええ」
そう答えた時、回廊のさらに向こうにヴィクトルの姿が見えた。
急いで来たわけではない。
だが、そこにいるべき顔をして立っている。
視線が合う。
彼はまずエレノアを見て、それから父の去った方角へ目をやった。事情は聞かずともおおよそ察したらしい。けれど問い詰めることもしない。
ただ短く言う。
「戻るぞ」
「……はい」
エレノアはリネットとともに歩き出す。
ヴィクトルは先に立たない。横へ並ぶでもない。けれど、自然にエレノアがその隣へおさまる速度で歩く。
回廊の先には、まだ王都の灯りが揺れている。
あの家も、この城も、変わっていない。
それでも今はもう、自分からあちらへ戻ることはないと、足がはっきり知っていた。




