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婚約者も功績も妹に奪われた私は、死ぬと噂の北辺公爵に嫁ぐことになりました 〜愛のない結婚のはずが、冷酷な夫は私を手放してくれない〜  作者: 師走
第9章 遅すぎた後悔

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第38話

午後の茶会がひと区切りついたあと、エレノアは王城の回廊に出た。


王太子妃のそばにいたあいだは気を張っていたのだろう。人の少ない石廊へ出た瞬間、ようやく息が落ちた。リネットが半歩後ろにつき、裾を踏まないよう静かに見ているのが分かった。


その時、向こうから年配の侍女が近づいてきて一礼した。


「ノルデンフェルト公爵夫人」

「はい」

「アシュベリー侯爵夫人とローザリア様が、少しご挨拶をと」


背筋が、ひやりとする。


逃げられない場面ではない。断ることもできる。けれど、ここで避ければそれもまた話になると分かった。


「どちらに」

「奥の小広間脇でお待ちです」


エレノアは小さく頷いた。


回廊を曲がると、すぐに二人の姿が見えた。


継母は相変わらずよく整っている。淡い色の外套に、柔らかな微笑み。ローザリアは春らしい明るい色のドレスで、遠くから見れば、仲の良い母娘そのものだった。


先に口を開いたのは継母だった。


「ノルデンフェルト公爵夫人、少しお時間をいただけるかしら」

言葉はきれいに整っている。

公の場での呼び方だ。


「お義母様」

エレノアも礼を返す。

「ローザリア」


ローザリアはそれだけで、少しほっとしたみたいに顔を明るくした。


「お姉様、昨日からずっとお話ししたかったの」

継母がすぐにたしなめるような顔をする。

「ローザリア、公の場では」

「だって、お姉様でしょう?」


その言い方に悪意はない。

ないからこそ、手が冷たくなる。


ローザリアは本気でそう思っているのだ。公爵夫人として立つ姉を見ても、まず「お姉様」が先に来る。相手がどの位置にいるかより、自分がどう話したいかのほうが大きい。


継母が扇を軽く閉じた。


「昨日は驚いたわ。まさか王太子妃殿下のお近くにいらっしゃるなんて」

「クラリス殿下が、お声をかけてくださいました」

「そうでしょうね。あなた、昔から真面目に見えるもの。ああいう方には好まれやすいわ」


褒めているようで、どこか薄い。

真面目“に見える”。

その言い方ひとつで、昔と何も変わっていないのだと分かる。


ローザリアが堪えきれないように口を挟む。


「でも本当にびっくりしたの。公爵様、もっとずっと年上かと思っていたわ」

「ローザリア」

「だって皆そう言っていたじゃない。怖い人で、血まみれで、社交にも出ないって」

継母は困ったように眉を下げるが、本気で止める気はないらしい。

「失礼でしょう」

「でも、本当にそう思っていたのだもの」


ローザリアの目が、きらきらと好奇心に揺れる。


「お姉様、怖くないの?」

「……」

「思ったよりずっとお綺麗なお顔だったし、あんな方なら」


そこまで言って、ローザリアはようやく何かに気づいたように口を閉じた。けれど遅い。


継母が柔らかく笑う。


「この子、思ったことをすぐ口にしてしまうの。悪気はないのよ」

「ええ」

「あなたも、分かっているでしょう?」


分かっているでしょう。


その言い方まで昔のままだ。

妹の無邪気さを受け止めるのは姉の役目だと、何の疑いもなく思っている。


エレノアは二人を見た。


継母は相変わらず、柔らかい声で人を押す。

ローザリアは相変わらず、自分が少し困れば姉が飲み込んでくれると思っている。


王都の空気も、社交の灯りも、この二人の浅さまでは変えていなかった。


継母がさらに声を落とす。


「あなたが今、良いお立場におられるのは本当に喜ばしいわ」

「……」

「ですから、余計な誤解を招くようなことはなさらないでちょうだいね。王都はちょっとしたことで話が広がるでしょう」

「誤解、ですか」

「昔のことを、いつまでも感情的に持ち出すのは得策ではないということよ」


言外の意味ははっきりしていた。


婚約のこと。

家の中のこと。

あの家での扱い。


全部、今さら騒ぐなと言っているのだ。


エレノアはゆっくり息を吸った。


「私は、何も申し上げておりません」

「そうでしょうね」

継母は微笑む。

「あなたは賢いもの」


賢いから黙れ。

昔と同じだ。


ローザリアがその横で首をかしげる。


「でも、お姉様が元気そうでよかったわ。北辺ってもっとひどいところかと思っていたもの」

「……」

「また王都にいるあいだ、お茶くらいできるでしょう? お母様も心配していたのよ」

継母が、今度は止めなかった。


心配。


その言葉の薄さに、かえって頭が冷える。


エレノアはローザリアを見る。


妹は本当に、自分が差し伸べれば姉は戻ってくると思っている顔をしていた。婚約も功績も奪ったという意識ではなく、ただ今まで通り、必要な時に姉がこちらへ寄るものだと信じている顔。


その幼さが、もう遠かった。


「お気遣いありがとうございます」

エレノアは静かに言う。

「ですが、王都では公務を優先いたします」

ローザリアが目を丸くする。

「お姉様」

「それに」

そこで一度、言葉を区切る。

「今の私は、アシュベリー侯爵家の娘としてではなく、ノルデンフェルト公爵夫人として動いておりますので」


継母の微笑みが、かすかに薄くなった。


ローザリアは、意味を飲み込むのに一拍遅れる。

それから少し傷ついたような顔をした。


「そんな言い方」

「言い方ではないわ」

エレノアは目を逸らさない。

「事実です」


廊下の空気が静まる。


継母はすぐに笑みを戻した。


「そうね。公の場では、それが正しいのでしょう」

正しいのでしょう、という言い方に棘がある。

だがそれ以上は踏み込めないらしい。

「ローザリア、もうよしましょう」

「でも」

「今はね」


その「今は」に含まれるものを、エレノアは聞かないことにした。


継母は一礼する。


「お引き留めしてごめんなさいね」

「いいえ」

「どうか、お身体だけは大事になさって」


最後までやわらかい声だった。


ローザリアはまだ何か言いたそうにしていたが、継母に袖を引かれて渋々頭を下げる。その顔には、まだ納得のいかない困惑が残っていた。


二人が去っていく背を見送りながら、エレノアは静かに指先を重ねた。


痛みがないわけではない。

けれど昔みたいに、あの声に引っ張られて自分の位置を見失うことはなかった。


「お嬢様」


リネットが小さく呼ぶ。


振り向くと、少し眉を寄せている。

「大丈夫ですか」

「ええ」

「本当に?」

「今は、本当に」


そう答えた時、回廊の先にヴィクトルの姿が見えた。


壁際で侍従と二言三言話していたらしい。こちらを見ると、そのまま歩いてくる。急ぎもしないし、わざとらしく待っていた顔もしない。ただ、そこにいるのが自然みたいに近づいてくる。


継母たちとすれ違わなかったはずはない。

それでも何も聞かない。


エレノアの前で足を止めると、短く言う。


「終わったか」

「はい」

「戻るぞ」

「……ええ」


それだけで、十分だった。


エレノアはヴィクトルの少し隣へ並ぶ。


もう、戻る場所を間違えたくなかった。

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