第38話
午後の茶会がひと区切りついたあと、エレノアは王城の回廊に出た。
王太子妃のそばにいたあいだは気を張っていたのだろう。人の少ない石廊へ出た瞬間、ようやく息が落ちた。リネットが半歩後ろにつき、裾を踏まないよう静かに見ているのが分かった。
その時、向こうから年配の侍女が近づいてきて一礼した。
「ノルデンフェルト公爵夫人」
「はい」
「アシュベリー侯爵夫人とローザリア様が、少しご挨拶をと」
背筋が、ひやりとする。
逃げられない場面ではない。断ることもできる。けれど、ここで避ければそれもまた話になると分かった。
「どちらに」
「奥の小広間脇でお待ちです」
エレノアは小さく頷いた。
回廊を曲がると、すぐに二人の姿が見えた。
継母は相変わらずよく整っている。淡い色の外套に、柔らかな微笑み。ローザリアは春らしい明るい色のドレスで、遠くから見れば、仲の良い母娘そのものだった。
先に口を開いたのは継母だった。
「ノルデンフェルト公爵夫人、少しお時間をいただけるかしら」
言葉はきれいに整っている。
公の場での呼び方だ。
「お義母様」
エレノアも礼を返す。
「ローザリア」
ローザリアはそれだけで、少しほっとしたみたいに顔を明るくした。
「お姉様、昨日からずっとお話ししたかったの」
継母がすぐにたしなめるような顔をする。
「ローザリア、公の場では」
「だって、お姉様でしょう?」
その言い方に悪意はない。
ないからこそ、手が冷たくなる。
ローザリアは本気でそう思っているのだ。公爵夫人として立つ姉を見ても、まず「お姉様」が先に来る。相手がどの位置にいるかより、自分がどう話したいかのほうが大きい。
継母が扇を軽く閉じた。
「昨日は驚いたわ。まさか王太子妃殿下のお近くにいらっしゃるなんて」
「クラリス殿下が、お声をかけてくださいました」
「そうでしょうね。あなた、昔から真面目に見えるもの。ああいう方には好まれやすいわ」
褒めているようで、どこか薄い。
真面目“に見える”。
その言い方ひとつで、昔と何も変わっていないのだと分かる。
ローザリアが堪えきれないように口を挟む。
「でも本当にびっくりしたの。公爵様、もっとずっと年上かと思っていたわ」
「ローザリア」
「だって皆そう言っていたじゃない。怖い人で、血まみれで、社交にも出ないって」
継母は困ったように眉を下げるが、本気で止める気はないらしい。
「失礼でしょう」
「でも、本当にそう思っていたのだもの」
ローザリアの目が、きらきらと好奇心に揺れる。
「お姉様、怖くないの?」
「……」
「思ったよりずっとお綺麗なお顔だったし、あんな方なら」
そこまで言って、ローザリアはようやく何かに気づいたように口を閉じた。けれど遅い。
継母が柔らかく笑う。
「この子、思ったことをすぐ口にしてしまうの。悪気はないのよ」
「ええ」
「あなたも、分かっているでしょう?」
分かっているでしょう。
その言い方まで昔のままだ。
妹の無邪気さを受け止めるのは姉の役目だと、何の疑いもなく思っている。
エレノアは二人を見た。
継母は相変わらず、柔らかい声で人を押す。
ローザリアは相変わらず、自分が少し困れば姉が飲み込んでくれると思っている。
王都の空気も、社交の灯りも、この二人の浅さまでは変えていなかった。
継母がさらに声を落とす。
「あなたが今、良いお立場におられるのは本当に喜ばしいわ」
「……」
「ですから、余計な誤解を招くようなことはなさらないでちょうだいね。王都はちょっとしたことで話が広がるでしょう」
「誤解、ですか」
「昔のことを、いつまでも感情的に持ち出すのは得策ではないということよ」
言外の意味ははっきりしていた。
婚約のこと。
家の中のこと。
あの家での扱い。
全部、今さら騒ぐなと言っているのだ。
エレノアはゆっくり息を吸った。
「私は、何も申し上げておりません」
「そうでしょうね」
継母は微笑む。
「あなたは賢いもの」
賢いから黙れ。
昔と同じだ。
ローザリアがその横で首をかしげる。
「でも、お姉様が元気そうでよかったわ。北辺ってもっとひどいところかと思っていたもの」
「……」
「また王都にいるあいだ、お茶くらいできるでしょう? お母様も心配していたのよ」
継母が、今度は止めなかった。
心配。
その言葉の薄さに、かえって頭が冷える。
エレノアはローザリアを見る。
妹は本当に、自分が差し伸べれば姉は戻ってくると思っている顔をしていた。婚約も功績も奪ったという意識ではなく、ただ今まで通り、必要な時に姉がこちらへ寄るものだと信じている顔。
その幼さが、もう遠かった。
「お気遣いありがとうございます」
エレノアは静かに言う。
「ですが、王都では公務を優先いたします」
ローザリアが目を丸くする。
「お姉様」
「それに」
そこで一度、言葉を区切る。
「今の私は、アシュベリー侯爵家の娘としてではなく、ノルデンフェルト公爵夫人として動いておりますので」
継母の微笑みが、かすかに薄くなった。
ローザリアは、意味を飲み込むのに一拍遅れる。
それから少し傷ついたような顔をした。
「そんな言い方」
「言い方ではないわ」
エレノアは目を逸らさない。
「事実です」
廊下の空気が静まる。
継母はすぐに笑みを戻した。
「そうね。公の場では、それが正しいのでしょう」
正しいのでしょう、という言い方に棘がある。
だがそれ以上は踏み込めないらしい。
「ローザリア、もうよしましょう」
「でも」
「今はね」
その「今は」に含まれるものを、エレノアは聞かないことにした。
継母は一礼する。
「お引き留めしてごめんなさいね」
「いいえ」
「どうか、お身体だけは大事になさって」
最後までやわらかい声だった。
ローザリアはまだ何か言いたそうにしていたが、継母に袖を引かれて渋々頭を下げる。その顔には、まだ納得のいかない困惑が残っていた。
二人が去っていく背を見送りながら、エレノアは静かに指先を重ねた。
痛みがないわけではない。
けれど昔みたいに、あの声に引っ張られて自分の位置を見失うことはなかった。
「お嬢様」
リネットが小さく呼ぶ。
振り向くと、少し眉を寄せている。
「大丈夫ですか」
「ええ」
「本当に?」
「今は、本当に」
そう答えた時、回廊の先にヴィクトルの姿が見えた。
壁際で侍従と二言三言話していたらしい。こちらを見ると、そのまま歩いてくる。急ぎもしないし、わざとらしく待っていた顔もしない。ただ、そこにいるのが自然みたいに近づいてくる。
継母たちとすれ違わなかったはずはない。
それでも何も聞かない。
エレノアの前で足を止めると、短く言う。
「終わったか」
「はい」
「戻るぞ」
「……ええ」
それだけで、十分だった。
エレノアはヴィクトルの少し隣へ並ぶ。
もう、戻る場所を間違えたくなかった。




