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婚約者も功績も妹に奪われた私は、死ぬと噂の北辺公爵に嫁ぐことになりました 〜愛のない結婚のはずが、冷酷な夫は私を手放してくれない〜  作者: 師走
第9章 遅すぎた後悔

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第37話

翌朝の王都屋敷は、北辺の本邸とは違う音で目が覚めた。


銀盆の触れ合う音、客間へ花を運ぶ足音、玄関先で名を告げる声。春の社交期の空気そのものが、石造りの屋敷へ流れ込んでくる。


エレノアが食堂へ下りると、すでに机の端へ封書が積まれていた。


招待状、挨拶状、訪問の打診。

どれも昨日の一夜で話が広がったことを、ひどく分かりやすく示している。


ヴィクトルはその束を一瞥し、先に朝食へ手をつけていた。


「多いですね」

「放っておけ」

「全部は無理でしょうけれど」

「全部要らん」


短い返しに、エレノアは少し目を伏せた。


王都にいた頃、自分へ届く手紙はたいてい誰かの都合の延長だった。今、机の端に積まれている封書は、そのどれもが公爵夫人としての自分へ向けられている。


まだ慣れない。


リネットが静かに茶を注ぎながら言う。


「本日は王太子妃殿下のお茶会だけでよろしいと、侍従から」

「ああ」

とヴィクトル。

「他は返す」

「分かりました」


エレノアは匙を置く。


王太子妃のお茶会。

昨日の小広間より、もう少し近い場になるのだろう。昨日は遠くから視線が届いた。今日は、もっとはっきり届くはずだ。


その考えが顔に出たのか、ヴィクトルが言った。


「まだ断れる」

「え?」

「今日の茶会だ」

「……」

「出たくなければ、王太子妃には私から通す」


昨日も似たことを言われた。

けれど今日は少し違う。王都の旧い世界が、もう自分を見たあとだ。


エレノアは首を振った。


「出ます」

「そうか」

「昨日だけで終わらせたら、半端ですもの」

ヴィクトルの目がかすかに細くなる。

「半端」

「遠くから見せるだけで済むのなら、それでもよかったかもしれません。でも、もう名前まで届いているでしょう」

「だろうな」

「でしたら、ちゃんと立ちます」


言葉にすると、自分の中でも少し形になる。


逃げない。

隠れない。

そのために王都へ来たのだと。


ヴィクトルはそれ以上何も言わず、ただ一度だけ頷いた。


午後、王太子妃クラリスの茶会は、王城内の陽当たりのよい広間で開かれた。


春の花を早めに咲かせた鉢が並び、窓の外にはまだ冷たい庭が見える。貴婦人たちの装いは柔らかい色が多く、笑い声も軽い。けれど、その軽さの下で人を測る視線は王都らしく鋭かった。


エレノアはヴィクトルとともに入室し、名を呼ばれて一礼する。


「ノルデンフェルト公爵夫妻」


昨日と同じようで、今日はもっと近い。


貴婦人たちの視線は、まずヴィクトルへ向かう。

噂と違う若さ。

整いすぎるほど整った顔立ち。

笑みはないのに、目を引かずにはいられない静かな圧。


それから、その隣のエレノアへ。


深い青の装い。

母の形見のネックレス。

北辺の冬を越したあとだからこその、前より少し削ぎ落ちた顔つき。


クラリスは今日も、何も言わずに位置を正した。


自身の近くへエレノアを呼び、まるで最初からそこが当然であるかのように、他家の夫人たちとの輪へ入れる。言葉で持ち上げない。その代わり、立つ場所で身分を示す。


それがどれほど効くか、王都で育ったエレノアにはよく分かった。


そして、そこから見えた。


広間の向こう、一拍遅れて入ってきたアシュベリー侯爵家の姿が。


父。

継母。

ローザリア。


エレノアは一瞬だけ息を止める。


父は足を止めなかった。だが視線だけが、ひどく冷たくこちらへ刺さった。

驚きでもない。

後悔でもない。

計算する目だった。


継母は扇を持つ手を止め、微笑みを崩さないまま目だけを細める。

ローザリアは隠しきれない戸惑いを顔に出していた。まずエレノアを見て、次にその隣のヴィクトルを見る。最後に、クラリスの近くに立つ位置を見て、ようやく事態を飲み込めないまま立ち尽くす。


分かりやすい、と思った。


父は脅威として見ている。

継母はどう処理するか考えている。

ローザリアは、まだ理解していない。


その後ろに、エイドリアンの姿もあった。


少し離れた位置からこちらを見ている。視線が合う前に、エレノアは目を逸らした。今はまだ、そこへ意味を与えたくなかった。


「公爵夫人」


呼ばれて振り向くと、王都の伯爵夫人がにこやかに笑っていた。


「北辺で初めての冬を越されたとか」

「ええ」

「さぞおつらかったでしょう」

「厳しくはありました」

エレノアは返す。

「でも、備えがあれば越えられる冬でした」

「まあ」

「北辺は、思っていたよりずっと人の手で保たれている土地です」


その言葉に、近くの夫人たちが少し表情を変える。


北辺をただの寒い辺境としてではなく、暮らしのある土地として話す女だと分かったのだろう。軽くは見られない種類の変化だった。


その会話の端を、継母が遠くから見ているのが分かった。


昔なら、自分が誰かにそう応じる姿を、あの人は横から柔らかく奪っていった。今は違う。口を挟める位置にいない。


クラリスが、ごく自然に別の夫人へ話を振る。

その流れの中で、エレノアは一度も端へ押し出されない。


ローザリアがついに耐えきれなくなったのか、継母の袖へ小さく何か囁いた。継母はそれを扇で遮るようにし、かすかに首を振る。


近づくな、という合図だ。


そうせざるを得ないのだろう。

今ここで家の論理を持ち出せば、無礼になるのはあちらだ。


エレノアはグラスへ指を添えたまま、前を向く。


「お顔色がよろしいですね」


別の夫人が微笑む。


「王都を離れて、かえってお元気になられたように見えます」

その言葉に、周囲でかすかな笑みが生まれる。

毒ではない。

だが観察眼のある言い方だ。


エレノアは少し口元をやわらげた。


「北辺の空気が合ったのかもしれません」

「それは結構なことですわ」

「ええ」


簡単なやり取りなのに、向こう側の空気がまた少し揺れる。


見られている。

今の自分が。

公爵夫人として立つ姿が。


そして、もう一つ。


王都の人間が、北辺公爵をどう見るかも変わり始めていた。


ヴィクトルは相変わらず、必要以上に誰とも親しく振る舞わない。けれど王太子が気安く声をかけ、王太子妃がその妻を近くに置く。その事実だけで、社交の場の評価は大きく変わる。


「君は本当に顔を出さなかったんだな」

ルシアンが後ろから現れて、ヴィクトルへ笑う。

「出る必要がなかった」

「そう言ってる間に噂だけ育ったわけだけど」

「放っておけ」

「もう放っておけないんだよ。見たら皆、びっくりしてるから」

「うるさい」

「うるさいのは王都のほう」


軽い言葉の応酬に、周囲の緊張が少し解ける。


その時、エレノアは父の視線がさらに鋭くなったのを感じた。


王都でのヴィクトルの悪評が、自分たちにとって都合のいいものだったのかもしれない。死ぬと噂の北辺公爵へ長女を嫁がせる。それは厄介払いとして、いかにも収まりがよかった。


だが実際に現れたのは違う。


若く、強く、王太子夫妻とも近く、そのうえ妻を隣へ置く公爵。


父にとっては後悔ではない。

脅威だ。


エレノアはその視線を真正面から受けないまま、クラリスの話へ頷く。


今はまだ近づかせない。

向こうが「いる」と知るだけでいい。


そう思った時、ローザリアと一瞬だけ目が合った。


妹の顔には、痛みより先に困惑が浮かんでいる。

どうしてお姉様がそこにいるの、という顔。

どうして自分ではなく、あちらが選ばれた位置にいるのか、まだ理解できていない顔だった。


その浅さが、昔と変わらなくて、息が少し詰まる。


けれどもう、それに引きずられはしない。


茶会は穏やかなまま進み、最後までアシュベリー侯爵家がこちらへ直接近づいてくることはなかった。


帰りの馬車へ乗り込んだあと、ようやくエレノアは背を預ける。


疲れた、というより、力を入れ続けていた体が遅れて重くなる感じだ。


向かいのヴィクトルが短く問う。


「持ったか」

「持ちました」

「そうか」

「……でも」

「何だ」

「見られました」

「だろうな」

「あまりにも、はっきり」

「そのために出た」


その通りだった。


エレノアは目を伏せる。


「お父様は、怒っているというより」

「計算していた」

「……はい」

「そういう顔をしていた」


同じものを見ていたのだと分かって、息が少し楽になる。


ヴィクトルはそれ以上語らない。

けれど、その沈黙は一人きりの沈黙ではなかった。


馬車の窓の外で、王都の夕方がゆっくり流れていく。


もう、自分の存在は旧い世界へ届いた。

次は向こうが動く番なのだと、石畳の揺れが静かに告げていた。

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