第37話
翌朝の王都屋敷は、北辺の本邸とは違う音で目が覚めた。
銀盆の触れ合う音、客間へ花を運ぶ足音、玄関先で名を告げる声。春の社交期の空気そのものが、石造りの屋敷へ流れ込んでくる。
エレノアが食堂へ下りると、すでに机の端へ封書が積まれていた。
招待状、挨拶状、訪問の打診。
どれも昨日の一夜で話が広がったことを、ひどく分かりやすく示している。
ヴィクトルはその束を一瞥し、先に朝食へ手をつけていた。
「多いですね」
「放っておけ」
「全部は無理でしょうけれど」
「全部要らん」
短い返しに、エレノアは少し目を伏せた。
王都にいた頃、自分へ届く手紙はたいてい誰かの都合の延長だった。今、机の端に積まれている封書は、そのどれもが公爵夫人としての自分へ向けられている。
まだ慣れない。
リネットが静かに茶を注ぎながら言う。
「本日は王太子妃殿下のお茶会だけでよろしいと、侍従から」
「ああ」
とヴィクトル。
「他は返す」
「分かりました」
エレノアは匙を置く。
王太子妃のお茶会。
昨日の小広間より、もう少し近い場になるのだろう。昨日は遠くから視線が届いた。今日は、もっとはっきり届くはずだ。
その考えが顔に出たのか、ヴィクトルが言った。
「まだ断れる」
「え?」
「今日の茶会だ」
「……」
「出たくなければ、王太子妃には私から通す」
昨日も似たことを言われた。
けれど今日は少し違う。王都の旧い世界が、もう自分を見たあとだ。
エレノアは首を振った。
「出ます」
「そうか」
「昨日だけで終わらせたら、半端ですもの」
ヴィクトルの目がかすかに細くなる。
「半端」
「遠くから見せるだけで済むのなら、それでもよかったかもしれません。でも、もう名前まで届いているでしょう」
「だろうな」
「でしたら、ちゃんと立ちます」
言葉にすると、自分の中でも少し形になる。
逃げない。
隠れない。
そのために王都へ来たのだと。
ヴィクトルはそれ以上何も言わず、ただ一度だけ頷いた。
午後、王太子妃クラリスの茶会は、王城内の陽当たりのよい広間で開かれた。
春の花を早めに咲かせた鉢が並び、窓の外にはまだ冷たい庭が見える。貴婦人たちの装いは柔らかい色が多く、笑い声も軽い。けれど、その軽さの下で人を測る視線は王都らしく鋭かった。
エレノアはヴィクトルとともに入室し、名を呼ばれて一礼する。
「ノルデンフェルト公爵夫妻」
昨日と同じようで、今日はもっと近い。
貴婦人たちの視線は、まずヴィクトルへ向かう。
噂と違う若さ。
整いすぎるほど整った顔立ち。
笑みはないのに、目を引かずにはいられない静かな圧。
それから、その隣のエレノアへ。
深い青の装い。
母の形見のネックレス。
北辺の冬を越したあとだからこその、前より少し削ぎ落ちた顔つき。
クラリスは今日も、何も言わずに位置を正した。
自身の近くへエレノアを呼び、まるで最初からそこが当然であるかのように、他家の夫人たちとの輪へ入れる。言葉で持ち上げない。その代わり、立つ場所で身分を示す。
それがどれほど効くか、王都で育ったエレノアにはよく分かった。
そして、そこから見えた。
広間の向こう、一拍遅れて入ってきたアシュベリー侯爵家の姿が。
父。
継母。
ローザリア。
エレノアは一瞬だけ息を止める。
父は足を止めなかった。だが視線だけが、ひどく冷たくこちらへ刺さった。
驚きでもない。
後悔でもない。
計算する目だった。
継母は扇を持つ手を止め、微笑みを崩さないまま目だけを細める。
ローザリアは隠しきれない戸惑いを顔に出していた。まずエレノアを見て、次にその隣のヴィクトルを見る。最後に、クラリスの近くに立つ位置を見て、ようやく事態を飲み込めないまま立ち尽くす。
分かりやすい、と思った。
父は脅威として見ている。
継母はどう処理するか考えている。
ローザリアは、まだ理解していない。
その後ろに、エイドリアンの姿もあった。
少し離れた位置からこちらを見ている。視線が合う前に、エレノアは目を逸らした。今はまだ、そこへ意味を与えたくなかった。
「公爵夫人」
呼ばれて振り向くと、王都の伯爵夫人がにこやかに笑っていた。
「北辺で初めての冬を越されたとか」
「ええ」
「さぞおつらかったでしょう」
「厳しくはありました」
エレノアは返す。
「でも、備えがあれば越えられる冬でした」
「まあ」
「北辺は、思っていたよりずっと人の手で保たれている土地です」
その言葉に、近くの夫人たちが少し表情を変える。
北辺をただの寒い辺境としてではなく、暮らしのある土地として話す女だと分かったのだろう。軽くは見られない種類の変化だった。
その会話の端を、継母が遠くから見ているのが分かった。
昔なら、自分が誰かにそう応じる姿を、あの人は横から柔らかく奪っていった。今は違う。口を挟める位置にいない。
クラリスが、ごく自然に別の夫人へ話を振る。
その流れの中で、エレノアは一度も端へ押し出されない。
ローザリアがついに耐えきれなくなったのか、継母の袖へ小さく何か囁いた。継母はそれを扇で遮るようにし、かすかに首を振る。
近づくな、という合図だ。
そうせざるを得ないのだろう。
今ここで家の論理を持ち出せば、無礼になるのはあちらだ。
エレノアはグラスへ指を添えたまま、前を向く。
「お顔色がよろしいですね」
別の夫人が微笑む。
「王都を離れて、かえってお元気になられたように見えます」
その言葉に、周囲でかすかな笑みが生まれる。
毒ではない。
だが観察眼のある言い方だ。
エレノアは少し口元をやわらげた。
「北辺の空気が合ったのかもしれません」
「それは結構なことですわ」
「ええ」
簡単なやり取りなのに、向こう側の空気がまた少し揺れる。
見られている。
今の自分が。
公爵夫人として立つ姿が。
そして、もう一つ。
王都の人間が、北辺公爵をどう見るかも変わり始めていた。
ヴィクトルは相変わらず、必要以上に誰とも親しく振る舞わない。けれど王太子が気安く声をかけ、王太子妃がその妻を近くに置く。その事実だけで、社交の場の評価は大きく変わる。
「君は本当に顔を出さなかったんだな」
ルシアンが後ろから現れて、ヴィクトルへ笑う。
「出る必要がなかった」
「そう言ってる間に噂だけ育ったわけだけど」
「放っておけ」
「もう放っておけないんだよ。見たら皆、びっくりしてるから」
「うるさい」
「うるさいのは王都のほう」
軽い言葉の応酬に、周囲の緊張が少し解ける。
その時、エレノアは父の視線がさらに鋭くなったのを感じた。
王都でのヴィクトルの悪評が、自分たちにとって都合のいいものだったのかもしれない。死ぬと噂の北辺公爵へ長女を嫁がせる。それは厄介払いとして、いかにも収まりがよかった。
だが実際に現れたのは違う。
若く、強く、王太子夫妻とも近く、そのうえ妻を隣へ置く公爵。
父にとっては後悔ではない。
脅威だ。
エレノアはその視線を真正面から受けないまま、クラリスの話へ頷く。
今はまだ近づかせない。
向こうが「いる」と知るだけでいい。
そう思った時、ローザリアと一瞬だけ目が合った。
妹の顔には、痛みより先に困惑が浮かんでいる。
どうしてお姉様がそこにいるの、という顔。
どうして自分ではなく、あちらが選ばれた位置にいるのか、まだ理解できていない顔だった。
その浅さが、昔と変わらなくて、息が少し詰まる。
けれどもう、それに引きずられはしない。
茶会は穏やかなまま進み、最後までアシュベリー侯爵家がこちらへ直接近づいてくることはなかった。
帰りの馬車へ乗り込んだあと、ようやくエレノアは背を預ける。
疲れた、というより、力を入れ続けていた体が遅れて重くなる感じだ。
向かいのヴィクトルが短く問う。
「持ったか」
「持ちました」
「そうか」
「……でも」
「何だ」
「見られました」
「だろうな」
「あまりにも、はっきり」
「そのために出た」
その通りだった。
エレノアは目を伏せる。
「お父様は、怒っているというより」
「計算していた」
「……はい」
「そういう顔をしていた」
同じものを見ていたのだと分かって、息が少し楽になる。
ヴィクトルはそれ以上語らない。
けれど、その沈黙は一人きりの沈黙ではなかった。
馬車の窓の外で、王都の夕方がゆっくり流れていく。
もう、自分の存在は旧い世界へ届いた。
次は向こうが動く番なのだと、石畳の揺れが静かに告げていた。




