表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
婚約者も功績も妹に奪われた私は、死ぬと噂の北辺公爵に嫁ぐことになりました 〜愛のない結婚のはずが、冷酷な夫は私を手放してくれない〜  作者: 師走
第8章 あなたの隣で

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
38/42

閑話 遅すぎた男

エイドリアンは、その夜三度目の失敗をした。


一度目は、小広間の入口で立ち止まった時だ。

王太子妃の近くに立つ女を見て、誰かと見間違えた。


深い青のドレス。

古い石のついたネックレス。

背筋を伸ばし、けれど張りつめすぎず、隣の男の速度にきちんと歩幅を合わせている。


エレノアだった。


見間違えるはずがない顔なのに、すぐには認められなかったのは、記憶の中の彼女とあまりに違って見えたからだ。


昔の彼女は、もう半歩ぶん控えていた。

誰かの足りないところを埋めるために、自然と端へ寄る女だった。

自分が言葉に詰まれば先に必要な書類を揃え、相手の好みを読み、茶会の席でも空気を崩さぬよう静かに整える。


便利な女だったのだと、今なら言える。


その便利さを、エイドリアンはずっと当たり前だと思っていた。


二度目の失敗は、声をかけるタイミングを誤ったことだ。


いや、誤ったのではない。

最初からなかったのだと、あとで気づいた。


王太子夫妻の近くへ呼ばれたエレノアは、そこで一度も宙ぶらりんにならなかった。

誰かと誰かの間に置かれ、曖昧に笑っているのではなく、最初からいるべき場所を与えられていた。


そのうえ隣にはヴィクトル・ノルデンフェルト公爵がいる。


噂より若い。

噂よりずっと整った顔立ちで、けれど噂以上に近寄り難い男だった。


笑わない。

愛想もない。

なのに、エレノアをぞんざいに扱う気配もない。


むしろ厄介なのは逆だった。

あの公爵は、必要以上に触れもしないくせに、視線と立ち位置だけで、誰にも彼女を軽く扱わせなかった。


エイドリアンは広間の端からその様子を見ていた。


昔なら、エレノアは自分の視線に気づいたはずだ。

気づいて、場が乱れない程度に会釈くらいは返しただろう。

だが今夜、彼女は一度もこちらを見なかった。


見えていないのではない。

見えていて、意味を与えていないのだ。


その事実が、思ったより深く刺さった。


三度目の失敗は、ようやく目が合った時だった。


夜会の終わり近く、回廊へ出たところで、エレノアが戻ってくるのが見えた。

隣には北辺公爵。

後ろに侍女が一人。


今なら、と一歩出かけた。


だがその瞬間、エレノアの顔を見て、足が止まった。


泣いた跡もなければ、震えてもいない。

ただ静かで、どこか冷えた顔をしていた。

王都へいた頃、父や継母と話したあとの彼女によく似た顔だった。


――何かあった。


そう分かった。


分かったのに、エイドリアンはそこへ入れなかった。


昔なら違っただろうか、と考えて、すぐに嫌になる。

違わない。

昔の自分でも、たぶん彼女の顔色に気づきはした。

だが気づくだけで、結局はその場にふさわしい言葉しかかけられなかっただろう。


「大丈夫か」

「無理をするな」

「君はいつも真面目すぎる」


そんな、何の役にも立たない言葉を。


そして彼女はきっと、いつものように「大丈夫です」と答えて、こちらが楽になるよう微笑んだはずだ。


今夜、回廊の先で北辺公爵が言ったのは、それとは違う短い一言だった。


戻るぞ。


それだけだ。


たったそれだけなのに、エレノアは迷わずその隣へ並んだ。

並ぶ位置を知っている歩き方だった。


エイドリアンは柱の影で立ち尽くし、その背を見送るしかなかった。


遅すぎたのだと、そこでようやく分かる。


失ってから価値に気づいた、などという綺麗な話ではない。

価値は昔から目の前にあった。

ただ、それが自分のために尽くしているあいだは、価値として見なかっただけだ。


ローザリアは愛らしい。

一緒にいて楽だった。

何も知らずに自分を立ててくれるところが心地よかった。


それは今も変わらない。


だが、楽であることと、隣に立ってほしい相手であることは、同じではなかったのだと、遅れて思い知る。


エレノアは、もう彼のほうを見ない。


責めるでもなく、恨むでもなく、ただ視線の外へ置いた。

そのほうがよほど残酷だった。


もし彼女が怒鳴ってくれたなら。

もし今さらでも恨み言の一つをぶつけてきたなら。

そのぶんだけ、自分の入る隙が、まだ残っていたのかもしれない。


けれど、もうない。


エイドリアンは回廊の窓辺へ寄り、暗い庭を見下ろした。


王都の夜気は北辺ほど厳しくない。

それでも体の内側だけが、ひどく冷えていた。


遅かった。


その一言で済むほど軽いことではないのに、結局はそれしか残らない。


北辺公爵の隣へ消えていった女の背を、もう一度思い出す。


昔のように自分を振り返ることはない。

呼べば戻ることもない。

そしてたぶん、この先も。


その事実だけが、静かに、どうしようもなく痛かった。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
たまたま目にしました。とてもいい。更新楽しみです。応援しています。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ