閑話 遅すぎた男
エイドリアンは、その夜三度目の失敗をした。
一度目は、小広間の入口で立ち止まった時だ。
王太子妃の近くに立つ女を見て、誰かと見間違えた。
深い青のドレス。
古い石のついたネックレス。
背筋を伸ばし、けれど張りつめすぎず、隣の男の速度にきちんと歩幅を合わせている。
エレノアだった。
見間違えるはずがない顔なのに、すぐには認められなかったのは、記憶の中の彼女とあまりに違って見えたからだ。
昔の彼女は、もう半歩ぶん控えていた。
誰かの足りないところを埋めるために、自然と端へ寄る女だった。
自分が言葉に詰まれば先に必要な書類を揃え、相手の好みを読み、茶会の席でも空気を崩さぬよう静かに整える。
便利な女だったのだと、今なら言える。
その便利さを、エイドリアンはずっと当たり前だと思っていた。
二度目の失敗は、声をかけるタイミングを誤ったことだ。
いや、誤ったのではない。
最初からなかったのだと、あとで気づいた。
王太子夫妻の近くへ呼ばれたエレノアは、そこで一度も宙ぶらりんにならなかった。
誰かと誰かの間に置かれ、曖昧に笑っているのではなく、最初からいるべき場所を与えられていた。
そのうえ隣にはヴィクトル・ノルデンフェルト公爵がいる。
噂より若い。
噂よりずっと整った顔立ちで、けれど噂以上に近寄り難い男だった。
笑わない。
愛想もない。
なのに、エレノアをぞんざいに扱う気配もない。
むしろ厄介なのは逆だった。
あの公爵は、必要以上に触れもしないくせに、視線と立ち位置だけで、誰にも彼女を軽く扱わせなかった。
エイドリアンは広間の端からその様子を見ていた。
昔なら、エレノアは自分の視線に気づいたはずだ。
気づいて、場が乱れない程度に会釈くらいは返しただろう。
だが今夜、彼女は一度もこちらを見なかった。
見えていないのではない。
見えていて、意味を与えていないのだ。
その事実が、思ったより深く刺さった。
三度目の失敗は、ようやく目が合った時だった。
夜会の終わり近く、回廊へ出たところで、エレノアが戻ってくるのが見えた。
隣には北辺公爵。
後ろに侍女が一人。
今なら、と一歩出かけた。
だがその瞬間、エレノアの顔を見て、足が止まった。
泣いた跡もなければ、震えてもいない。
ただ静かで、どこか冷えた顔をしていた。
王都へいた頃、父や継母と話したあとの彼女によく似た顔だった。
――何かあった。
そう分かった。
分かったのに、エイドリアンはそこへ入れなかった。
昔なら違っただろうか、と考えて、すぐに嫌になる。
違わない。
昔の自分でも、たぶん彼女の顔色に気づきはした。
だが気づくだけで、結局はその場にふさわしい言葉しかかけられなかっただろう。
「大丈夫か」
「無理をするな」
「君はいつも真面目すぎる」
そんな、何の役にも立たない言葉を。
そして彼女はきっと、いつものように「大丈夫です」と答えて、こちらが楽になるよう微笑んだはずだ。
今夜、回廊の先で北辺公爵が言ったのは、それとは違う短い一言だった。
戻るぞ。
それだけだ。
たったそれだけなのに、エレノアは迷わずその隣へ並んだ。
並ぶ位置を知っている歩き方だった。
エイドリアンは柱の影で立ち尽くし、その背を見送るしかなかった。
遅すぎたのだと、そこでようやく分かる。
失ってから価値に気づいた、などという綺麗な話ではない。
価値は昔から目の前にあった。
ただ、それが自分のために尽くしているあいだは、価値として見なかっただけだ。
ローザリアは愛らしい。
一緒にいて楽だった。
何も知らずに自分を立ててくれるところが心地よかった。
それは今も変わらない。
だが、楽であることと、隣に立ってほしい相手であることは、同じではなかったのだと、遅れて思い知る。
エレノアは、もう彼のほうを見ない。
責めるでもなく、恨むでもなく、ただ視線の外へ置いた。
そのほうがよほど残酷だった。
もし彼女が怒鳴ってくれたなら。
もし今さらでも恨み言の一つをぶつけてきたなら。
そのぶんだけ、自分の入る隙が、まだ残っていたのかもしれない。
けれど、もうない。
エイドリアンは回廊の窓辺へ寄り、暗い庭を見下ろした。
王都の夜気は北辺ほど厳しくない。
それでも体の内側だけが、ひどく冷えていた。
遅かった。
その一言で済むほど軽いことではないのに、結局はそれしか残らない。
北辺公爵の隣へ消えていった女の背を、もう一度思い出す。
昔のように自分を振り返ることはない。
呼べば戻ることもない。
そしてたぶん、この先も。
その事実だけが、静かに、どうしようもなく痛かった。




