第36話
その日の夕刻、王城の小広間で催されたのは、春の社交期へ向けた顔合わせに近い集まりだった。
大広間ほどの格式ではない。けれど招かれている顔ぶれは軽くない。王太子夫妻に近い家々と、今季に登城する主要な貴族たち。そこで北辺公爵夫妻が姿を見せるとなれば、王都の噂好きが放っておくはずもなかった。
控えの間から小広間へ移る直前、リネットがドレスの裾を最後に整えた。
「お嬢様」
「なに」
「下を見ないでくださいね」
思わず、少し笑いそうになる。
「公爵様と同じことを言うのね」
「同じことを思う方が、二人いるということです」
その返しに、肩の強張りがほんの少しゆるむ。
扉が開かれる。
先に入った王太子夫妻に続き、ヴィクトルが歩く。その半歩あとへ、エレノアも入った。
視線が集まる。
それはもう、隠しようがなかった。グラスを持つ手が止まり、話し声が一瞬だけ細る。北辺公爵その人を見る視線と、その隣の妻を見る視線が、順に広がっていく。
王都で聞いてきた噂が頭をよぎる。
血塗れで冷酷。
人を寄せつけない陰気な男。
夫として不向きな男。
年嵩で、顔には傷があるかもしれないとまで。
けれど実際に灯りの下へ現れたヴィクトルは、そのどれとも少しずつ違った。
若い。
傷もない。
笑わないし、愛想もない。冷たさも圧も隠さない。
だが、それが醜さや陰気さに見えないほど、顔立ちは整っている。
そして何より、その男が妻を当然のように隣へ置いている。
ざわめきは小さいのに、空気の熱が変わるのが分かった。
ヴィクトルは気にしたふうもなく進む。エレノアも歩調を乱さないよう、その隣を歩いた。王太子妃クラリスが少し先で振り返りもせず歩みを緩める。その自然な誘導に従うだけで、立つ場所は迷わず定まった。
「ノルデンフェルト公爵夫妻」
名を呼ばれ、一礼する。
周囲の貴婦人たちの目が、ネックレスへ、深い青のドレスへ、そして顔へ落ちる。華やかさで押し切る装いではない。だからこそ、隠れず、軽くも見えない。
クラリスがエレノアへごく自然に微笑む。
「こちらへ」
その一言で、王太子妃のすぐ近くへ立つことになる。
王都にいた頃の癖が、一瞬だけ足を止めさせる。けれど今日は下がらない。クラリスの示す位置へ立ち、顔を上げる。
隣でヴィクトルの視線が一度だけこちらへ落ちた。
それだけで十分だった。
挨拶は次々に流れていく。
「このたびは遠路ようこそ」
「北辺の冬はいかがでしたか」
「奥方様は初めての冬を越えられたとか」
どの言葉も表面は穏やかだ。けれど、その奥に探る気配がある。噂だけで知っていた公爵夫妻の実物を、自分の目で測ろうとする気配。
エレノアは答える言葉を必要以上に飾らなかった。
「厳しい土地でした」
「ですが、備えが整っていれば越えられます」
「王都とは勝手が違いますが、学ぶことの多い冬でした」
それで十分だった。
隣でヴィクトルは必要な時しか口を開かない。だが誰かがエレノアを飛ばして話しかけようとすると、視線ひとつで止める。その静かな圧が、王都の人間にはむしろ効いた。
その時だった。
向こう側の人垣が、かすかに揺れる。
見慣れた色が、目の端に入った。
アシュベリー侯爵家の紋章。
母ではなく継母の好みが色濃く出た、明るい装い。
そして、その隣に立つローザリア。
背筋がひやりとする。
まだ距離はある。直接顔が合ったわけでもない。それでも向こうも気づいたのだと、空気で分かった。
ローザリアが、ぱっと目を見開く。
その隣で継母の扇がほんの少し止まる。
さらに後ろで、エイドリアンらしき男の肩が固まる。
誰もこちらへ近づいてはこない。
それでも、「いる」と分かるには十分だった。
エレノアは思わず指先を重ねる。
その小さな動きを、ヴィクトルは見逃さなかったらしい。グラスを受け取るふりをして、かすかに立ち位置をずらす。自然に、しかし明らかに、視線の流れを遮るような位置だ。
「……公爵様」
「前を見ろ」
低い声だった。
責めるわけでも、甘やかすわけでもない。ただ、その一言で足元が戻る。
エレノアは正面を向いた。
逃げたいとは思わなかった。
怖くないわけではない。けれど今の自分は、あの家の中で押しやられていた長女ではない。
王太子妃の近くに立つ、公爵夫人だ。
そのことを、向こうにも見せるしかない。
クラリスが何かに気づいたように、静かに口を開く。
「公爵夫人、こちらの花は北辺では珍しいでしょう」
「ええ。雪のある間は、なかなか」
「でしたら、あとで庭師に少し教えさせましょうか」
「ありがとうございます」
会話の内容自体は何でもない。
けれどクラリスは、明らかにエレノアを場の中心から外させないために言葉を置いていた。
ローザリアたちは遠いまま動けない。
王太子妃のそばにいる公爵夫人へ、侯爵家の論理で声をかけられるはずがないからだ。
そのうえ、ルシアン王太子がにこやかにヴィクトルへ話しかける。
「君が社交の場へ出るだけでも珍しいのに」
「命令だ」
「それだけじゃないだろう」
「それだけだ」
「本当に?」
「しつこい」
「でも、王都の皆は喜んでると思うよ。噂がいろいろ修正されるから」
「放っておけ」
「放っておかれないんだよ、こういうのは」
その軽いやり取りに、小広間の空気がまた少し変わる。
北辺公爵は孤絶した怪物ではない。
王太子と普通に言葉を交わし、王太子妃はその妻を当然に近くへ置いている。
王都の人間が見たかったものとは、おそらく違う。
違うからこそ、よく効く。
エレノアはもう一度、遠くのアシュベリー侯爵家の方角を見た。
今度は継母と目が合った。
一瞬。
継母の微笑みは消えていない。けれど目だけは凍ったように静かだった。驚きより先に、計算が走っている目だ。
ローザリアはまだ信じられないものを見るように、こちらとヴィクトルを交互に見ている。
エイドリアンは顔色を変えたまま、動けずにいた。
もう、存在は届いてしまった。
エレノアはゆっくり息を吸う。
今夜はここで十分だ。
近づかせず、遠くから見せるだけで。
それでも、王都の旧い世界には、たしかに今の自分が届いた。
小広間の灯りは明るく、笑い声も流れ続ける。
その中でヴィクトルがグラスを置き、何でもない顔でこちらへ視線を寄越した。
「疲れたか」
「少し」
「なら、あと半刻で下がる」
「はい」
「持つか」
「持ちます」
答えると、ヴィクトルは短く頷くだけだった。
そのやり取りさえ、近くにいる者たちには十分だったのだろう。
また別の熱が、静かに場へ広がっていくのが分かった。
王都の夜は、まだ始まったばかりだった。
閑話 幼馴染として
ルシアンは、北辺から届いた報告書を読み終えても、すぐには紙を閉じなかった。
窓の外では、王都の空が春へ近づいている。城内の庭師たちは花壇を開きはじめ、春の社交期も近い。
「どう?」
向かいの席で茶を飲んでいたクラリスが、何でもない調子で聞く。
ルシアンは報告書の端を指で叩いた。
「北辺は持ち直してる」
「それはよかったわ」
「うん。でも、そこじゃない」
クラリスは小さく笑う。
「ヴィクトル?」
「話が早い」
北辺からの書状は、いつも必要なことしか書かれていない。備蓄、補修、街道、兵の動き。誰が読んでも、北辺公爵らしい簡潔な報告だ。
そこに、前にはなかった名が残っている。
夫人の見立てにより北棟の配分を改めた。
夫人の提案した簡易の印を運用へ組み込んだ。
夫人の控えが妥当であったため、そのまま通した。
クラリスが茶器を置いた。
「ずいぶん書くのね」
「だろう?」
昔のヴィクトルなら、結果だけを書く。誰が見つけたか、誰が整えたかなど、必要最小限まで削る男だった。
「柔らかくなったわね」
「本人に言ったら不機嫌になる」
「なるでしょうね」
ルシアンは別の紙を取った。王都へ先んじて戻っていた北辺の商人から上がってきた聞き書きだ。
洗い場の火の持ちが変わったこと。
下働きの娘たちの咳が減ったこと。
副家令が失脚した時、公爵が夫人側へ立ったこと。
「北辺って、ずいぶんおしゃべりなのね」
「冬越しの話は命に近いからね」
ルシアンは肩をすくめる。
「誰が人を冷やさずに済ませたかなんて、すぐ広がる」
クラリスは報告書へ視線を落とした。
「呼ぶの」
「うん」
「公務で?」
「もちろん。さすがに“気になるから来い”は無理だし」
北辺の現状報告。春の社交期初めの登城。名目はいくらでも立つ。
クラリスが低く言った。
「ただ呼ぶだけでは、ヴィクトルは夫人を置いて来るわ」
「そうなんだよね」
「むしろ自分だけ来たほうが楽だと思うでしょう」
「思う」
「なら、最初から夫妻で」
「そうするつもり」
ルシアンは白紙へ手を伸ばした。
北辺の現状報告のため、春の社交期初めに王都へ出頭せよ。
公爵夫妻揃っての出席を求める。
文面はそれで足りる。あいつは長い飾りを嫌う。
「あなた、本当に会ってみたいのね」
「会ってみたいよ」
「なぜ?」
ルシアンは少し考え、笑った。
「ヴィクトルが自分から隣に置く女なんて、たぶん二度と見られないから」
クラリスは驚かなかった。
「では、私も楽しみにしておくわ」
「君も?」
「ええ」
「何を」
「その方が、どんなふうに立つのか」
ルシアンの筆先が、紙の上を走った。
そこまで書いてから、少し筆を止める。
ヴィクトルは、これをどう読むだろう。
面倒だと思うだろう。
王都の社交を鬱陶しがるだろう。
だが、命令なら来る。
そして、夫人も伴う。
ルシアンはようやく筆を置いた。
「これでいい」
クラリスが文面を見て、静かに笑う。
「公務としては十分ね」
「私情としても十分」
「顔に出てるわよ」
「出してるから」
侍従を呼ぶ鈴を鳴らす。
ほどなくして入ってきた若い侍従へ、ルシアンは封をした書状を渡した。
「北辺へ。急ぎで」
「はっ」
侍従が下がる。
扉が閉まると、ルシアンは椅子の背にもたれた。
これで来る。
春の王都へ。
北辺公爵が、妻を連れて。
噂好きの貴族どもは騒ぐだろう。
ヴィクトルは嫌そうな顔をするだろう。
たぶん夫人は、最初は構えている。
けれど、それでいい。
見たいのだ。
幼馴染がどこまで変わったのかを。
その変化の隣にいる女を。
ルシアンは窓の外を見た。
王都の春は、まだ始まる手前だった。
その空気の中へ、北辺の風を連れてくるように、あの二人はやって来る。
ルシアンは口元を少し緩めた。
「さて」
「何?」
とクラリス。
「王都が少し面白くなりそうだ」
クラリスは呆れたように微笑んだが、否定はしなかった。
それで十分だった。




