第35話
王都へ入った翌朝、空はよく晴れていた。
冬を越えたばかりの光はまだ冷たいのに、王城へ続く街路には春の社交期らしい華やぎが戻りはじめている。馬車の窓から見える貴婦人たちの外套は明るい色が増え、紋章を掲げた家ごとの馬車が行き交うたび、道端の視線も忙しなく揺れた。
エレノアは膝の上で手を重ねる。
今日は王太子夫妻への正式な伺候だ。公務としての登城であり、同時に、王都の人間に「北辺公爵夫妻」を見せる最初の場でもある。
リネットが最後にネックレスの留め具を確かめる。
「苦しくありませんか」
「大丈夫」
「本当に?」
「たぶん」
「そのお返事、少しうつりましたね」
思わず、ほんの少し口元がゆるんだ。
向かいに座るヴィクトルは書類から目を上げない。
だが、馬車が石畳の段差を越えた時だけ、視線が一度こちらへ落ちる。裾が乱れていないか、留め具が外れていないか、そういう確認をするみたいな短い目だ。
王城の正門を抜けると、空気が変わる。
門兵の声、侍従たちの足音、広い石造りの回廊へ反響する靴音。王都にいた頃は慣れていたはずの音なのに、今はどれも少し遠い。
馬車が止まり、先にヴィクトルが下りる。
エレノアも続こうとして、扉の手前で一瞬だけ息を整えた。
「公爵夫人」
侍従の呼び方が、ほんの少し胸を打つ。
地に足をつける。
顔を上げる。
下を見ない。
昨日、王都へ入る前に言われた言葉を、心の中でひとつずつなぞる。
王太子夫妻の控えの間へ通されると、先に通された貴族たちが何人か控えていた。誰も露骨に見ない。けれど、北辺公爵が入った瞬間に、空気が一度張る。
次に、その隣のエレノアへ視線が流れる。
深い青のドレス。
直されたネックレス。
派手ではないが、軽くもない装い。
エレノアは自然にヴィクトルの少し後ろへ下がりかけて、すぐに気づく。
それは昔の立ち方だ。
侯爵家の長女として、場を乱さないように端へ寄る立ち方。
けれど今の自分は違う。
そう思ったところで、控えの間の向こうの扉が開いた。
まず入ってきたのはルシアン王太子だった。
軽やかな足取りで現れるのに、場を握る圧はきちんとある。明るい笑みを浮かべたまま、ひと目で部屋の空気を読む目をしていた。
その半歩後ろに、クラリス王太子妃。
淡い色合いの装いなのに、不思議なくらい揺るがない。柔らかく見えて、その実、立っている場所そのものが強い女の人だと分かる。
皆が礼を取る。
エレノアもそれに倣う。顔を上げた時、ルシアンの視線がまずヴィクトルへ向き、次の瞬間には可笑しそうに目を細めた。
「久しぶりだね、ヴィクトル」
「ああ」
「相変わらず愛想がない」
「必要ない」
「そういうところだよ」
軽い調子で言うが、ただの冗談ではない。空気を和らげながら、周囲へ「この二人は近しい」と知らせる声だ。
クラリスはそのやり取りを一度だけ見て、すぐにエレノアへ視線を向けた。
「ノルデンフェルト公爵夫人」
その呼び方に、エレノアは一瞬だけ背筋を伸ばす。
「ようこそお越しくださいました」
「お招きいただき、ありがとうございます」
礼を取ろうとした、その時だった。
クラリスがごく自然に一歩近づき、エレノアの立つ位置を視線だけで測る。
その目が「そこではない」と告げていた。
言葉はなかった。
代わりに、クラリスは自分のすぐ右手側へとゆるやかに手を差し向けた。
「こちらへ」
柔らかな声。
けれど、その一言に迷う余地はない。
エレノアはほんの少し足を止める。
王太子妃の近くへ。
侯爵家の娘としてではなく、公爵夫人として。
その意味が分かるから、足が重い。
だが次の瞬間、横からヴィクトルの声が落ちた。
「行け」
短い。
けれど、その一言で足が動く。
エレノアはクラリスの示した場所へ進み、もう一度礼を取った。
クラリスは満足げに頷くでもなく、当然のようにそこへ立たせる。まるで、最初からその位置が正しかったみたいに。
それだけで十分だった。
王都の空気の中で、実家の娘として端へ下がる癖が、一歩ぶんだけ剥がされる。
ルシアンがそれを見て、面白そうに笑う。
「なるほど」
ヴィクトルが眉を寄せる。
「何がだ」
「いや、別に。君がちゃんと夫をしているなと思って」
「していない」
「してるよ」
「していない」
「その否定、いちばん怪しいんだけど」
周囲の貴族たちは、もちろん笑わない。けれど空気が少しやわらぐ。
クラリスが静かに会話を切る。
「ルシアン殿下」
「はいはい」
王太子妃のそのひと言で、場がきちんと戻る。
エレノアはそのやり取りを見ていて、少し息がしやすくなった。王太子夫妻は「見に来た」のだろう。けれど見世物としてではない。正しい位置に置いた上で、見る。
それがありがたかった。
クラリスがあらためてエレノアへ向く。
「北辺でのご様子は伺っております」
「……そのようなことまで」
「良い話だけが届くとは限りませんけれど」
声は穏やかだ。
「それでも、ご自身の目で立っておられる方だと分かれば十分です」
エレノアは何と返せばいいのか分からず、ただ小さく頭を下げた。
クラリスはそれ以上褒めない。
だが次に、控えの間の先へ続く扉の方角を見て言う。
「このあとは内々の席です。夫人もご一緒に」
その「ご一緒に」が、ひどく静かに胸へ残る。
侯爵家の娘なら、少し後ろで控える場面もあっただろう。
けれど今は違う。
公爵夫妻として、当然に数えられている。
ルシアンがその横でにこやかに言う。
「王都は噂が好きだからね。君たちが来たとなれば、皆好き勝手に話すだろうけど」
視線がヴィクトルへ流れる。
「実物を見れば少しは静かになるかな」
「ならんだろう」
「そこは期待しようよ」
「無駄だ」
「でも、少なくとも“老いた血まみれの怪物”説は今日で消えるね」
エレノアが思わず目を瞬くと、ルシアンは肩をすくめた。
「本当にそんな噂まであったんだよ」
「知っている」とヴィクトル。
「嫌われていますね」
と、ついエレノアがこぼす。
ルシアンがすかさず笑う。
「嫌われてるというより、怖がられてるんだ。しかも顔も出さないから、皆好きに盛る」
クラリスがごく小さく息をつく。
「だからこそ、今日はよかったのです」
その言葉は、エレノアだけでなく、ヴィクトルにも向いていた。
やがて内々の席へ移るため、皆が歩き出す。
エレノアはまた無意識に一歩下がりかける。
その時、クラリスが振り返りもしないまま、ただ歩みを少し緩めた。
待っているのだと分かる。
エレノアは遅れてその隣へ並ぶ。
ヴィクトルは反対側を歩いている。
少し前にはルシアン。
王太子夫妻。
北辺公爵夫妻。
序列が形になる歩き方だった。
王都へ戻ってきたのに、今日はまだ息が詰まらない。
それはたぶん、立つ場所を先に決めてもらったからだ。
控えの間の扉が閉まる直前、遠くの回廊の向こうに、見覚えのある紋章をつけた侍女の列が一瞬だけ見えた。
アシュベリー侯爵家の色だった。
背筋が冷えた。
まだ遠い。
けれど、もう存在は届きはじめている。
エレノアは前を向いたまま、指先を静かに重ねた。
今はまだ、下がらない。




