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婚約者も功績も妹に奪われた私は、死ぬと噂の北辺公爵に嫁ぐことになりました 〜愛のない結婚のはずが、冷酷な夫は私を手放してくれない〜  作者: 師走
第8章 あなたの隣で

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第35話

王都へ入った翌朝、空はよく晴れていた。


冬を越えたばかりの光はまだ冷たいのに、王城へ続く街路には春の社交期らしい華やぎが戻りはじめている。馬車の窓から見える貴婦人たちの外套は明るい色が増え、紋章を掲げた家ごとの馬車が行き交うたび、道端の視線も忙しなく揺れた。


エレノアは膝の上で手を重ねる。


今日は王太子夫妻への正式な伺候だ。公務としての登城であり、同時に、王都の人間に「北辺公爵夫妻」を見せる最初の場でもある。


リネットが最後にネックレスの留め具を確かめる。

「苦しくありませんか」

「大丈夫」

「本当に?」

「たぶん」

「そのお返事、少しうつりましたね」

思わず、ほんの少し口元がゆるんだ。


向かいに座るヴィクトルは書類から目を上げない。

だが、馬車が石畳の段差を越えた時だけ、視線が一度こちらへ落ちる。裾が乱れていないか、留め具が外れていないか、そういう確認をするみたいな短い目だ。


王城の正門を抜けると、空気が変わる。


門兵の声、侍従たちの足音、広い石造りの回廊へ反響する靴音。王都にいた頃は慣れていたはずの音なのに、今はどれも少し遠い。


馬車が止まり、先にヴィクトルが下りる。

エレノアも続こうとして、扉の手前で一瞬だけ息を整えた。


「公爵夫人」


侍従の呼び方が、ほんの少し胸を打つ。


地に足をつける。

顔を上げる。

下を見ない。


昨日、王都へ入る前に言われた言葉を、心の中でひとつずつなぞる。


王太子夫妻の控えの間へ通されると、先に通された貴族たちが何人か控えていた。誰も露骨に見ない。けれど、北辺公爵が入った瞬間に、空気が一度張る。


次に、その隣のエレノアへ視線が流れる。


深い青のドレス。

直されたネックレス。

派手ではないが、軽くもない装い。


エレノアは自然にヴィクトルの少し後ろへ下がりかけて、すぐに気づく。

それは昔の立ち方だ。

侯爵家の長女として、場を乱さないように端へ寄る立ち方。


けれど今の自分は違う。


そう思ったところで、控えの間の向こうの扉が開いた。


まず入ってきたのはルシアン王太子だった。


軽やかな足取りで現れるのに、場を握る圧はきちんとある。明るい笑みを浮かべたまま、ひと目で部屋の空気を読む目をしていた。


その半歩後ろに、クラリス王太子妃。


淡い色合いの装いなのに、不思議なくらい揺るがない。柔らかく見えて、その実、立っている場所そのものが強い女の人だと分かる。


皆が礼を取る。


エレノアもそれに倣う。顔を上げた時、ルシアンの視線がまずヴィクトルへ向き、次の瞬間には可笑しそうに目を細めた。


「久しぶりだね、ヴィクトル」

「ああ」

「相変わらず愛想がない」

「必要ない」

「そういうところだよ」


軽い調子で言うが、ただの冗談ではない。空気を和らげながら、周囲へ「この二人は近しい」と知らせる声だ。


クラリスはそのやり取りを一度だけ見て、すぐにエレノアへ視線を向けた。


「ノルデンフェルト公爵夫人」

その呼び方に、エレノアは一瞬だけ背筋を伸ばす。

「ようこそお越しくださいました」

「お招きいただき、ありがとうございます」


礼を取ろうとした、その時だった。


クラリスがごく自然に一歩近づき、エレノアの立つ位置を視線だけで測る。

その目が「そこではない」と告げていた。


言葉はなかった。


代わりに、クラリスは自分のすぐ右手側へとゆるやかに手を差し向けた。


「こちらへ」


柔らかな声。

けれど、その一言に迷う余地はない。


エレノアはほんの少し足を止める。

王太子妃の近くへ。

侯爵家の娘としてではなく、公爵夫人として。


その意味が分かるから、足が重い。


だが次の瞬間、横からヴィクトルの声が落ちた。


「行け」


短い。

けれど、その一言で足が動く。


エレノアはクラリスの示した場所へ進み、もう一度礼を取った。


クラリスは満足げに頷くでもなく、当然のようにそこへ立たせる。まるで、最初からその位置が正しかったみたいに。


それだけで十分だった。


王都の空気の中で、実家の娘として端へ下がる癖が、一歩ぶんだけ剥がされる。


ルシアンがそれを見て、面白そうに笑う。


「なるほど」

ヴィクトルが眉を寄せる。

「何がだ」

「いや、別に。君がちゃんと夫をしているなと思って」

「していない」

「してるよ」

「していない」

「その否定、いちばん怪しいんだけど」


周囲の貴族たちは、もちろん笑わない。けれど空気が少しやわらぐ。


クラリスが静かに会話を切る。

「ルシアン殿下」

「はいはい」


王太子妃のそのひと言で、場がきちんと戻る。


エレノアはそのやり取りを見ていて、少し息がしやすくなった。王太子夫妻は「見に来た」のだろう。けれど見世物としてではない。正しい位置に置いた上で、見る。


それがありがたかった。


クラリスがあらためてエレノアへ向く。


「北辺でのご様子は伺っております」

「……そのようなことまで」

「良い話だけが届くとは限りませんけれど」

声は穏やかだ。

「それでも、ご自身の目で立っておられる方だと分かれば十分です」


エレノアは何と返せばいいのか分からず、ただ小さく頭を下げた。


クラリスはそれ以上褒めない。

だが次に、控えの間の先へ続く扉の方角を見て言う。


「このあとは内々の席です。夫人もご一緒に」

その「ご一緒に」が、ひどく静かに胸へ残る。


侯爵家の娘なら、少し後ろで控える場面もあっただろう。

けれど今は違う。

公爵夫妻として、当然に数えられている。


ルシアンがその横でにこやかに言う。


「王都は噂が好きだからね。君たちが来たとなれば、皆好き勝手に話すだろうけど」

視線がヴィクトルへ流れる。

「実物を見れば少しは静かになるかな」

「ならんだろう」

「そこは期待しようよ」

「無駄だ」

「でも、少なくとも“老いた血まみれの怪物”説は今日で消えるね」

エレノアが思わず目を瞬くと、ルシアンは肩をすくめた。

「本当にそんな噂まであったんだよ」

「知っている」とヴィクトル。

「嫌われていますね」

と、ついエレノアがこぼす。

ルシアンがすかさず笑う。

「嫌われてるというより、怖がられてるんだ。しかも顔も出さないから、皆好きに盛る」


クラリスがごく小さく息をつく。

「だからこそ、今日はよかったのです」


その言葉は、エレノアだけでなく、ヴィクトルにも向いていた。


やがて内々の席へ移るため、皆が歩き出す。


エレノアはまた無意識に一歩下がりかける。

その時、クラリスが振り返りもしないまま、ただ歩みを少し緩めた。

待っているのだと分かる。


エレノアは遅れてその隣へ並ぶ。


ヴィクトルは反対側を歩いている。

少し前にはルシアン。


王太子夫妻。

北辺公爵夫妻。


序列が形になる歩き方だった。


王都へ戻ってきたのに、今日はまだ息が詰まらない。

それはたぶん、立つ場所を先に決めてもらったからだ。


控えの間の扉が閉まる直前、遠くの回廊の向こうに、見覚えのある紋章をつけた侍女の列が一瞬だけ見えた。


アシュベリー侯爵家の色だった。


背筋が冷えた。


まだ遠い。

けれど、もう存在は届きはじめている。


エレノアは前を向いたまま、指先を静かに重ねた。


今はまだ、下がらない。

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