表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
婚約者も功績も妹に奪われた私は、死ぬと噂の北辺公爵に嫁ぐことになりました 〜愛のない結婚のはずが、冷酷な夫は私を手放してくれない〜  作者: 師走
第8章 あなたの隣で

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
35/42

第34話

王都へ向かう道は、北辺へ来た時とは違っていた。


同じ街道を戻るはずなのに、速度も、泊まる場所も、周りの人間の動きも、ずっと整っている。公爵家が手配した馬車は揺れが少なく、護衛の交代も無駄がない。寒気の残る道でも、火を落とさずに済む宿が先に押さえられていた。


それでも十日ほどの道のりは、短くはない。


北辺を出た初日は、雪解けの水で道が重かった。馬の脚が泥をはね、車輪が時おり鈍く沈む。リネットは旅装の裾を整えながら、小さく息をついた。


「王都へ近づくほど、道はましになります」

「そうでしょうね」

「でも、お嬢様」

「なに」

「今のほうが、私は好きです」

「北辺のほうが?」

「ええ。寒いですけれど」


その気持ちは、エレノアにも少し分かる。


王都へ近づくほど、落ち着かなくなった。見慣れた景色が増えるからではない。忘れたつもりのものが、道の先に少しずつ並び始める気がするからだ。


三日目の昼、馬車が緩やかな坂を下りたところで、外からヴィクトルの声がした。


「止めろ」


揺れが収まり、馬車が止まる。


扉が開くと、冷たい風と一緒に薄い日差しが差し込んだ。


「どうかしたのですか」

エレノアが聞くと、

「前の橋がぬかるんでいる」

とヴィクトルが短く言う。

「車輪を軽くする。降りろ」


リネットがすぐ外套を取る。エレノアは裾を押さえて踏み台へ足をかけたが、地面が思ったより緩かった。踏み外しはしなかったものの、足元が少し沈む。


その瞬間、横から手が伸びる。


ヴィクトルの手だった。


腕を取られたわけではない。ただ、肘の少し上へ添えられて、体が揺れないよう支えられる。必要な分だけの、短い手つき。


エレノアはそのまま地面へ下り立った。


「……ありがとうございます」

「泥を踏むな」


返ってきたのはそれだけだ。


見れば、橋の手前は雪解けで深く抉れている。護衛たちが荷の一部を下ろし、板を渡し、車輪の通り道を作りはじめていた。ヴィクトルはもうそのほうへ向いている。いちいちこちらを見るわけではない。


それでも、リネットが小さく息を殺したのが分かった。


馬車へ戻ったあと、彼女は何も言わなかった。けれど沈黙の形が、少し柔らかい。エレノアも窓の外を見たまま、何も言えなかった。


王都が近づくにつれて、宿の人間の顔が変わった。


北辺公爵の紋章を見た時の、あの一瞬の緊張。

そこへ公爵夫人が同乗していると知った時の、押し隠しきれない驚き。


誰も露骨には見ない。けれど通り過ぎたあとで、気配だけが残る。


七日目の宿で、廊下の向こうから小さな囁きが聞こえた。


「本当に、あの公爵?」

「北辺の」

「奥方様、いた?」

「見たわよ、黒髪の……でも」

「でも?」

「思ったより」


その先は、扉が閉まる音に消えた。


エレノアは何も聞かなかったふりで部屋へ入る。けれど、頬の奥が少し熱い。


王都ではもっと露骨に見られるのだろう。

あの噂の公爵が、どんな顔で、どんな妻を連れているのか。


十日目の夕方、馬車の窓から王都の外壁が見えた。


灰色の石壁。

高い塔。

夕陽を受けて赤く染まりかけた屋根。

懐かしいというには、見ているだけで喉がざらつく景色だった。


「お嬢様」


リネットが小さく呼ぶ。


エレノアは膝の上の手を重ねた。


「大丈夫」

口にすると、リネットは少し眉を寄せた。

「大丈夫ではない時のお声です」

「……そうかもしれないわね」


そこで、馬車の向かいにいたヴィクトルが顔を上げる。


旅のあいだ、同じ馬車に乗ることは多くなかった。けれど王都入りの手前からは当然のように同席している。公爵夫妻として入るためだ。


「具合が悪いか」

短い問いだった。


エレノアは首を振る。


「いいえ」

「なら前を見ろ」

「……はい」

「下を見るな」


その言い方に、叱られているような気もした。けれど同時に、王都へ入る前の最後の位置を正されているのだとも分かる。


エレノアは窓の外へ目を向けた。


王都の門前は、まだ人が多い。荷馬車、使い走り、夕刻前に入りきろうとする商人たち。その流れの中へ、公爵家の紋章を掲げた一行が進むと、人の波が少し割れた。


視線が集まる。


門兵がまず馬の先頭へ気づき、次に紋章を見て、目を見開いたのが遠目にも分かった。すぐに姿勢を正す。門が半ばほど開かれ、通行の声が変わる。


「ノルデンフェルト公爵閣下、ご到着!」


その呼び上げが門の石へ反響した瞬間、周囲のざわめきが一斉に変わる。


北辺公爵。

血塗れ公爵。

人を寄せつけない男。


噂の名だけが先に広がっていた相手が、今、王都の門をくぐる。


馬車が門を抜けると、街路の両側にいた人々がはっきりとこちらを見るようになった。貴族の紋章に慣れた王都の視線だ。遠慮はあるが、好奇心も隠さない。


宿泊先となる公爵家の王都屋敷は、王城へほど近い一角にあった。


着いた頃には、もう夕刻の灯りが落ち始めている。屋敷前には王都側の使用人たちが整列し、門前の通りにも人影がいくつも止まっていた。


馬車が止まる。


外で侍従が戸を開く気配がし、その少し前にヴィクトルが先に下りた。長身が夕暮れの中へ出ると、周囲の気配がはっきりと揺れる。


王都の噂では、もっと年嵩で、もっと陰気で、あるいは傷だらけの男を思い描いていたのかもしれない。


実際に立っているのは、若く、整った顔立ちの男だった。

ただし、愛想のよさとは無縁の静かな冷たさがある。

その目が一度横へ向くだけで、使用人たちの背筋が揃うほどの圧が。


そして、その男が馬車へ手を向けた。


「おりろ」


それは王都の貴公子みたいな、絵になる仕草ではなかった。ただ、泥も段差もない場所で、なお自然に妻を先に下ろす手だ。


エレノアは裾を整え、差し出された手へ自分の指先を乗せた。


一瞬。

けれどその触れ方があまりに当たり前で、周囲のざわめきが目に見えないくらい強くなる。


馬車から下り立つ。


深い青のドレス。直されたネックレス。旅の疲れはある。それでも隠れないよう、背を伸ばく。


ヴィクトルは手を離してすぐ、半歩ぶんだけ位置をずらした。


後ろへ下がらせない位置。

横に立たせる位置。


エレノアは、その意味を理解して、ほんの少し息を整える。


門前の使用人たちが一礼する。通りの向こうでは、誰かが小さく囁いた。


「……え、あれが?」

「公爵夫人?」

「思ったより」

「公爵様、あんなに」

「若い……」

「というか」


最後の言葉は、飲み込まれた。


ヴィクトルが一度だけそちらへ視線をやったからだ。


たったそれだけで、囁きはすぐ静かになる。


けれど完全には消えない。

消えないまま、別の熱に変わって広がっていく。


噂と違う。

公爵は老いても傷だらけでもない。

むしろ目を引くほど整っている。

しかも、その男が当然のように妻を隣へ置いている。


エレノアは屋敷の玄関へ向かって歩き出した。


足は少し緊張していた。けれど震えてはいない。


王都に入った。

隠れるのではなく、公爵夫人として。

あの人の隣で。


そのことを、石の階段の硬さがたしかに伝えてきた。


そしてその夜のうちに、北辺公爵夫妻が王都へ入ったという話は、招待状と同じ速さで、貴族たちの食卓へ広がっていった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ