第34話
王都へ向かう道は、北辺へ来た時とは違っていた。
同じ街道を戻るはずなのに、速度も、泊まる場所も、周りの人間の動きも、ずっと整っている。公爵家が手配した馬車は揺れが少なく、護衛の交代も無駄がない。寒気の残る道でも、火を落とさずに済む宿が先に押さえられていた。
それでも十日ほどの道のりは、短くはない。
北辺を出た初日は、雪解けの水で道が重かった。馬の脚が泥をはね、車輪が時おり鈍く沈む。リネットは旅装の裾を整えながら、小さく息をついた。
「王都へ近づくほど、道はましになります」
「そうでしょうね」
「でも、お嬢様」
「なに」
「今のほうが、私は好きです」
「北辺のほうが?」
「ええ。寒いですけれど」
その気持ちは、エレノアにも少し分かる。
王都へ近づくほど、落ち着かなくなった。見慣れた景色が増えるからではない。忘れたつもりのものが、道の先に少しずつ並び始める気がするからだ。
三日目の昼、馬車が緩やかな坂を下りたところで、外からヴィクトルの声がした。
「止めろ」
揺れが収まり、馬車が止まる。
扉が開くと、冷たい風と一緒に薄い日差しが差し込んだ。
「どうかしたのですか」
エレノアが聞くと、
「前の橋がぬかるんでいる」
とヴィクトルが短く言う。
「車輪を軽くする。降りろ」
リネットがすぐ外套を取る。エレノアは裾を押さえて踏み台へ足をかけたが、地面が思ったより緩かった。踏み外しはしなかったものの、足元が少し沈む。
その瞬間、横から手が伸びる。
ヴィクトルの手だった。
腕を取られたわけではない。ただ、肘の少し上へ添えられて、体が揺れないよう支えられる。必要な分だけの、短い手つき。
エレノアはそのまま地面へ下り立った。
「……ありがとうございます」
「泥を踏むな」
返ってきたのはそれだけだ。
見れば、橋の手前は雪解けで深く抉れている。護衛たちが荷の一部を下ろし、板を渡し、車輪の通り道を作りはじめていた。ヴィクトルはもうそのほうへ向いている。いちいちこちらを見るわけではない。
それでも、リネットが小さく息を殺したのが分かった。
馬車へ戻ったあと、彼女は何も言わなかった。けれど沈黙の形が、少し柔らかい。エレノアも窓の外を見たまま、何も言えなかった。
王都が近づくにつれて、宿の人間の顔が変わった。
北辺公爵の紋章を見た時の、あの一瞬の緊張。
そこへ公爵夫人が同乗していると知った時の、押し隠しきれない驚き。
誰も露骨には見ない。けれど通り過ぎたあとで、気配だけが残る。
七日目の宿で、廊下の向こうから小さな囁きが聞こえた。
「本当に、あの公爵?」
「北辺の」
「奥方様、いた?」
「見たわよ、黒髪の……でも」
「でも?」
「思ったより」
その先は、扉が閉まる音に消えた。
エレノアは何も聞かなかったふりで部屋へ入る。けれど、頬の奥が少し熱い。
王都ではもっと露骨に見られるのだろう。
あの噂の公爵が、どんな顔で、どんな妻を連れているのか。
十日目の夕方、馬車の窓から王都の外壁が見えた。
灰色の石壁。
高い塔。
夕陽を受けて赤く染まりかけた屋根。
懐かしいというには、見ているだけで喉がざらつく景色だった。
「お嬢様」
リネットが小さく呼ぶ。
エレノアは膝の上の手を重ねた。
「大丈夫」
口にすると、リネットは少し眉を寄せた。
「大丈夫ではない時のお声です」
「……そうかもしれないわね」
そこで、馬車の向かいにいたヴィクトルが顔を上げる。
旅のあいだ、同じ馬車に乗ることは多くなかった。けれど王都入りの手前からは当然のように同席している。公爵夫妻として入るためだ。
「具合が悪いか」
短い問いだった。
エレノアは首を振る。
「いいえ」
「なら前を見ろ」
「……はい」
「下を見るな」
その言い方に、叱られているような気もした。けれど同時に、王都へ入る前の最後の位置を正されているのだとも分かる。
エレノアは窓の外へ目を向けた。
王都の門前は、まだ人が多い。荷馬車、使い走り、夕刻前に入りきろうとする商人たち。その流れの中へ、公爵家の紋章を掲げた一行が進むと、人の波が少し割れた。
視線が集まる。
門兵がまず馬の先頭へ気づき、次に紋章を見て、目を見開いたのが遠目にも分かった。すぐに姿勢を正す。門が半ばほど開かれ、通行の声が変わる。
「ノルデンフェルト公爵閣下、ご到着!」
その呼び上げが門の石へ反響した瞬間、周囲のざわめきが一斉に変わる。
北辺公爵。
血塗れ公爵。
人を寄せつけない男。
噂の名だけが先に広がっていた相手が、今、王都の門をくぐる。
馬車が門を抜けると、街路の両側にいた人々がはっきりとこちらを見るようになった。貴族の紋章に慣れた王都の視線だ。遠慮はあるが、好奇心も隠さない。
宿泊先となる公爵家の王都屋敷は、王城へほど近い一角にあった。
着いた頃には、もう夕刻の灯りが落ち始めている。屋敷前には王都側の使用人たちが整列し、門前の通りにも人影がいくつも止まっていた。
馬車が止まる。
外で侍従が戸を開く気配がし、その少し前にヴィクトルが先に下りた。長身が夕暮れの中へ出ると、周囲の気配がはっきりと揺れる。
王都の噂では、もっと年嵩で、もっと陰気で、あるいは傷だらけの男を思い描いていたのかもしれない。
実際に立っているのは、若く、整った顔立ちの男だった。
ただし、愛想のよさとは無縁の静かな冷たさがある。
その目が一度横へ向くだけで、使用人たちの背筋が揃うほどの圧が。
そして、その男が馬車へ手を向けた。
「おりろ」
それは王都の貴公子みたいな、絵になる仕草ではなかった。ただ、泥も段差もない場所で、なお自然に妻を先に下ろす手だ。
エレノアは裾を整え、差し出された手へ自分の指先を乗せた。
一瞬。
けれどその触れ方があまりに当たり前で、周囲のざわめきが目に見えないくらい強くなる。
馬車から下り立つ。
深い青のドレス。直されたネックレス。旅の疲れはある。それでも隠れないよう、背を伸ばく。
ヴィクトルは手を離してすぐ、半歩ぶんだけ位置をずらした。
後ろへ下がらせない位置。
横に立たせる位置。
エレノアは、その意味を理解して、ほんの少し息を整える。
門前の使用人たちが一礼する。通りの向こうでは、誰かが小さく囁いた。
「……え、あれが?」
「公爵夫人?」
「思ったより」
「公爵様、あんなに」
「若い……」
「というか」
最後の言葉は、飲み込まれた。
ヴィクトルが一度だけそちらへ視線をやったからだ。
たったそれだけで、囁きはすぐ静かになる。
けれど完全には消えない。
消えないまま、別の熱に変わって広がっていく。
噂と違う。
公爵は老いても傷だらけでもない。
むしろ目を引くほど整っている。
しかも、その男が当然のように妻を隣へ置いている。
エレノアは屋敷の玄関へ向かって歩き出した。
足は少し緊張していた。けれど震えてはいない。
王都に入った。
隠れるのではなく、公爵夫人として。
あの人の隣で。
そのことを、石の階段の硬さがたしかに伝えてきた。
そしてその夜のうちに、北辺公爵夫妻が王都へ入ったという話は、招待状と同じ速さで、貴族たちの食卓へ広がっていった。




