表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
婚約者も功績も妹に奪われた私は、死ぬと噂の北辺公爵に嫁ぐことになりました 〜愛のない結婚のはずが、冷酷な夫は私を手放してくれない〜  作者: 師走
第8章 あなたの隣で

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
34/42

第33話

王都行きの支度は、思っていたより静かに始まった。


大げさな持ち出しはない。けれど必要なものだけが、抜けなく、早く揃っていく。北辺のやり方だった。


その朝、エレノアの部屋へ運ばれてきたのは、仕立て直したドレスが三着と、毛足の短い外套、それに細長い箱だった。箱を開ける前から、リネットは少し緊張した顔をしている。


「先にこちらを」とアグネスが言う。


差し出されたのは、一番濃い色のドレスだった。黒に見えるほど深い青。飾りは少ないが、布地の質がいい。光が当たると、ごく控えめに艶が返る。


「地味ではありませんか」

エレノアが思わず言うと、アグネスは一拍置いてから答えた。

「北辺公爵夫人に、軽い色は要りません」

「でも、王都では」

「王都だからです」


その返しがきっぱりしていて、エレノアは口を閉じた。


リネットがもう一着を広げる。こちらは灰みを帯びた銀色で、襟と袖口だけが少し柔らかい。王都の流行ならもっと花や刺繍を足すのだろう。だが北辺から持ち込むには、これで十分すぎるほど整っていた。


「どちらもお似合いになると思います」

リネットが言う。

「お嬢様のお顔立ちなら」

「昔のまま言うのね」

「昔から本当のことしか申しません」


その言い方に、少し肩の力が抜けた。


仕立てを見に来た年配の女が、背後から裾を持ち上げる。


「歩いてみてください」

「ここで?」

「王都では立つだけでは済みませんので」


そう言われて、エレノアは部屋の端までゆっくり歩いた。


布は重すぎない。裾も引きずらない。王都にいた頃の華美なドレスより、ずっと動きやすい。なのに鏡へ映る姿は、北辺の実務にまぎれる女ではなく、ちゃんと公の場へ出るための夫人に見えた。


それが少し落ち着かない。


「こちらのほうが」

リネットが深い青のほうを見て言う。

「お嬢様の目元が締まります」

「お前の趣味だろう」

低い声がして、全員が振り向いた。


いつの間に来たのか、扉のところにヴィクトルが立っていた。


エレノアは思わず裾をつまみそうになって、やめる。礼を取るべきか迷ったが、ヴィクトルが先に言う。


「続けろ」

「……はい」


仕立ての女はすぐに動きを止めなかった。さすが北辺だと思う。王都なら、公爵が部屋へ入った時点で女たちの空気が一度止まる。


ヴィクトルは部屋の中へは深く入らず、扉脇の壁に寄ったまま、鏡越しにエレノアを見ていた。その視線が長く留まるものだから、エレノアは妙に落ち着かない。


アグネスが問う。


「どちらを主にいたしますか」

「主?」

「王太子殿下の前へ出る正装です」


ヴィクトルはまず深い青を見て、それから銀色へ目を移した。


「青だ」

短い返答だった。

「銀は?」

とリネットが聞く。

「昼の訪問ならまだしも、王都の灯りでは弱い」

「……そうですね」


リネットが頷く。


エレノアは鏡の中の自分を見る。深い青は、たしかに華やかさで押す色ではない。けれど逃げる色でもない。隠れるつもりなら、選ばない色だ。


仕立ての女が後ろで留め具を直しながら言う。


「奥方様は、姿勢がきれいですから」

「そうでも」

「謝るところではありません」

今度はアグネスだった。

「背を伸ばしてください。侯爵家の娘としてではなく、公爵夫人としてお出になるのですから」


その言葉で、背筋が少し伸びた。


侯爵家の娘としてではなく。

公爵夫人として。


鏡の中の自分が、少し違って見えた。


リネットが細長い箱を開ける。


中には、直されたネックレスが入っていた。古い石の周りだけがかすかに新しい光を持ち、留め具は以前より滑らかに整えられている。意匠はそのままなのに、壊れそうな頼りなさだけが消えていた。


「きれい……」

リネットが息を呑む。

エレノアはそっと手に取った。

「本当に、直ったのね」

「公爵様が細工師へ回されました」

アグネスが淡々と言う。

「石座と留め具だけです。見た目は変えぬようにと」

「……」


エレノアは言葉を失ったまま、ネックレスを見下ろす。


見た目は変えぬように。

そこだけが新しくならないように。

壊れたところだけを直す。


その加減が、妙にこの人らしいと思った。


リネットが背後へ回る。


「おつけします」

「ええ」


髪を少し持ち上げられる。冷たかった首筋へ、金属のひやりとした感触が触れる。留め具は前みたいに頼りなく揺れなかった。きちんと噛み合い、静かに留まる。


鏡の中で、深い青の胸元へ石が収まる。


派手ではない。けれど、軽くもない。


ヴィクトルがそのまましばらく見ていた。


何か言われるのかと思ったが、すぐには何も来ない。やがて、ひどく短く落ちる。


「それでいい」

たったそれだけなのに、エレノアは少し息を詰めた。


リネットが髪を整える手を止めない。アグネスも仕立ての女も、もう自然に仕事へ戻っている。部屋の空気だけが、ほんの少し熱を帯びた。


ヴィクトルは扉のところで言う。


「道中は王都向けの飾りより、崩れないことを優先しろ」

「はい」

「着飾って具合を悪くされるほうが厄介だ」

「気をつけます」

「……ああ」


それで用は済んだらしく、彼は出ていった。


扉が閉まると、リネットが鏡越しにそっと笑う。


「お嬢様」

「なに」

「とてもお似合いです」

「今さら?」

「今だからです」


その言葉に、エレノアはもう一度鏡の中を見る。


深い青のドレス。

直されたネックレス。

少し結い上げた髪。

そして、その姿を見て「それでいい」と言った男のいる屋敷。


王都へ戻るのは怖い。

それはまだ消えない。

けれど今は、ただ奪われた娘として戻るのではないのだと、鏡の中の姿が教えてくる。


エレノアは指先でネックレスへ触れた。


冷たいはずの石が、今日は少し温かく感じた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ