第33話
王都行きの支度は、思っていたより静かに始まった。
大げさな持ち出しはない。けれど必要なものだけが、抜けなく、早く揃っていく。北辺のやり方だった。
その朝、エレノアの部屋へ運ばれてきたのは、仕立て直したドレスが三着と、毛足の短い外套、それに細長い箱だった。箱を開ける前から、リネットは少し緊張した顔をしている。
「先にこちらを」とアグネスが言う。
差し出されたのは、一番濃い色のドレスだった。黒に見えるほど深い青。飾りは少ないが、布地の質がいい。光が当たると、ごく控えめに艶が返る。
「地味ではありませんか」
エレノアが思わず言うと、アグネスは一拍置いてから答えた。
「北辺公爵夫人に、軽い色は要りません」
「でも、王都では」
「王都だからです」
その返しがきっぱりしていて、エレノアは口を閉じた。
リネットがもう一着を広げる。こちらは灰みを帯びた銀色で、襟と袖口だけが少し柔らかい。王都の流行ならもっと花や刺繍を足すのだろう。だが北辺から持ち込むには、これで十分すぎるほど整っていた。
「どちらもお似合いになると思います」
リネットが言う。
「お嬢様のお顔立ちなら」
「昔のまま言うのね」
「昔から本当のことしか申しません」
その言い方に、少し肩の力が抜けた。
仕立てを見に来た年配の女が、背後から裾を持ち上げる。
「歩いてみてください」
「ここで?」
「王都では立つだけでは済みませんので」
そう言われて、エレノアは部屋の端までゆっくり歩いた。
布は重すぎない。裾も引きずらない。王都にいた頃の華美なドレスより、ずっと動きやすい。なのに鏡へ映る姿は、北辺の実務にまぎれる女ではなく、ちゃんと公の場へ出るための夫人に見えた。
それが少し落ち着かない。
「こちらのほうが」
リネットが深い青のほうを見て言う。
「お嬢様の目元が締まります」
「お前の趣味だろう」
低い声がして、全員が振り向いた。
いつの間に来たのか、扉のところにヴィクトルが立っていた。
エレノアは思わず裾をつまみそうになって、やめる。礼を取るべきか迷ったが、ヴィクトルが先に言う。
「続けろ」
「……はい」
仕立ての女はすぐに動きを止めなかった。さすが北辺だと思う。王都なら、公爵が部屋へ入った時点で女たちの空気が一度止まる。
ヴィクトルは部屋の中へは深く入らず、扉脇の壁に寄ったまま、鏡越しにエレノアを見ていた。その視線が長く留まるものだから、エレノアは妙に落ち着かない。
アグネスが問う。
「どちらを主にいたしますか」
「主?」
「王太子殿下の前へ出る正装です」
ヴィクトルはまず深い青を見て、それから銀色へ目を移した。
「青だ」
短い返答だった。
「銀は?」
とリネットが聞く。
「昼の訪問ならまだしも、王都の灯りでは弱い」
「……そうですね」
リネットが頷く。
エレノアは鏡の中の自分を見る。深い青は、たしかに華やかさで押す色ではない。けれど逃げる色でもない。隠れるつもりなら、選ばない色だ。
仕立ての女が後ろで留め具を直しながら言う。
「奥方様は、姿勢がきれいですから」
「そうでも」
「謝るところではありません」
今度はアグネスだった。
「背を伸ばしてください。侯爵家の娘としてではなく、公爵夫人としてお出になるのですから」
その言葉で、背筋が少し伸びた。
侯爵家の娘としてではなく。
公爵夫人として。
鏡の中の自分が、少し違って見えた。
リネットが細長い箱を開ける。
中には、直されたネックレスが入っていた。古い石の周りだけがかすかに新しい光を持ち、留め具は以前より滑らかに整えられている。意匠はそのままなのに、壊れそうな頼りなさだけが消えていた。
「きれい……」
リネットが息を呑む。
エレノアはそっと手に取った。
「本当に、直ったのね」
「公爵様が細工師へ回されました」
アグネスが淡々と言う。
「石座と留め具だけです。見た目は変えぬようにと」
「……」
エレノアは言葉を失ったまま、ネックレスを見下ろす。
見た目は変えぬように。
そこだけが新しくならないように。
壊れたところだけを直す。
その加減が、妙にこの人らしいと思った。
リネットが背後へ回る。
「おつけします」
「ええ」
髪を少し持ち上げられる。冷たかった首筋へ、金属のひやりとした感触が触れる。留め具は前みたいに頼りなく揺れなかった。きちんと噛み合い、静かに留まる。
鏡の中で、深い青の胸元へ石が収まる。
派手ではない。けれど、軽くもない。
ヴィクトルがそのまましばらく見ていた。
何か言われるのかと思ったが、すぐには何も来ない。やがて、ひどく短く落ちる。
「それでいい」
たったそれだけなのに、エレノアは少し息を詰めた。
リネットが髪を整える手を止めない。アグネスも仕立ての女も、もう自然に仕事へ戻っている。部屋の空気だけが、ほんの少し熱を帯びた。
ヴィクトルは扉のところで言う。
「道中は王都向けの飾りより、崩れないことを優先しろ」
「はい」
「着飾って具合を悪くされるほうが厄介だ」
「気をつけます」
「……ああ」
それで用は済んだらしく、彼は出ていった。
扉が閉まると、リネットが鏡越しにそっと笑う。
「お嬢様」
「なに」
「とてもお似合いです」
「今さら?」
「今だからです」
その言葉に、エレノアはもう一度鏡の中を見る。
深い青のドレス。
直されたネックレス。
少し結い上げた髪。
そして、その姿を見て「それでいい」と言った男のいる屋敷。
王都へ戻るのは怖い。
それはまだ消えない。
けれど今は、ただ奪われた娘として戻るのではないのだと、鏡の中の姿が教えてくる。
エレノアは指先でネックレスへ触れた。
冷たいはずの石が、今日は少し温かく感じた。




