第32話
リネットが戻ってきた日の夜、エレノアの部屋は少し狭くなった。
狭いのに、息はしやすい。
鏡台の前に座ると、後ろでリネットが髪を梳かす。櫛の通り方まで懐かしくて、何度か振り向きそうになった。
「痛くありませんか」
「大丈夫」
「嘘です」
「どうして分かるの」
「昔からです」
その返しが、あまりにも変わらなくて、エレノアは少し目を伏せた。
鏡の中のリネットは前より痩せている。けれど手つきは落ち着いていた。王都を離れていたあいだに、ただ弱っていたわけではないのだと分かる。
「辛くなかった?」
ふいに聞くと、櫛の動きが一瞬だけ止まる。
「辛くなかったとは申しません」
「……」
「でも、お嬢様のほうがずっと、と思っておりました」
言いながら、リネットはまた髪を梳かしはじめる。
昔のように感傷へ沈まない。そこが前より少し大人になったところかもしれない。痛みを痛みのまま抱え込んで、でも手は止めない。
「王都へ行かれるのですね」
「ええ」
「お嫌ではありませんか」
櫛の音だけが、しばらく続く。
嫌だ、と言えば簡単だった。
あの家へ近づくのは今でも気が重い。父も継母もローザリアも、エイドリアンもいる。あの頃の自分が置き去りのまま残っている場所へ、今の顔で戻るのは怖い。
けれど、それだけではない。
「……怖くないわけではないの」
鏡の中の自分を見る。
前より顔つきが少し違う気がする。痩せたとか、やつれたとか、そういうことではなく。
「でも、逃げたくないのよ」
「はい」
「それに」
言葉を探していると、リネットの手が優しく髪をまとめた。
「公爵様のことですか」
エレノアは鏡越しに目を見開く。
「どうして」
「お嬢様は、ご自分のことだけで王都へ戻るとは仰らないと思いました」
かなわない。
この子は昔から、肝心なところだけはあっさり見抜く。
エレノアは小さく息をついた。
「王都での公爵様の噂、ひどいもの」
「ええ」
「血塗れで冷酷で、人を寄せつけなくて、夫としては最悪だとか」
「最悪、とまでは」
「言われていたわ」
「……そうでしたね」
リネットの顔が少し曇る。
王都にいたのだ。耳にも入っただろう。
「もちろん、噂が全部消えるなんて思っていないわ」
エレノアは続ける。
「でも私が出ることで、少しでも違って見えるなら」
「それで、お側へ?」
「お側、というより」
言いかけて、少しためらう。
「公爵夫人として、ちゃんと立ちたいの」
言葉にすると、体の中へ静かに落ちていく。
まだ「あなたの隣に立ちたい」とまでは言えない。そこまで自分の気持ちをはっきり知っているわけでもない。
けれど、公爵夫人として隠れるのではなく、出る。
公の場で、怯えて下がるのではなく、正しい位置にいる。
今の自分が選びたいのは、そこだった。
リネットは髪を結い終え、鏡台の上の小箱へそっと手を伸ばした。
「あの」
「なに」
「これ、まだお持ちだったのですね」
差し出されたのは、古い櫛だった。
母の形見の一つ。
王都を出る日に、誰にも気づかれないよう荷へ紛れ込ませたものだ。
エレノアは櫛を受け取る。
「ええ」
「よかった」
リネットの声は、ごく小さい。
「奥様のものを、全部置いていかれたと思っていました」
「全部は無理でも、これだけは持ってきたかったの」
「はい」
二人とも、しばらくその櫛を見ていた。
やがてリネットが、少しためらいながら言う。
「ネックレスのほうも、覚えておいでですか」
「……ええ」
「奥様が、公の場ではあちらをと」
「分かってるわ」
母の形見は二つ。
公の象徴のネックレスと、私の側にある櫛。
王都へ行くなら、ネックレスが要る。
あの家の前で、誰の娘だったかを思い出すためではない。
今の自分が、何を持って立つかのために。
エレノアは櫛を小箱へ戻した。
「ネックレスを出してくれる?」
「はい」
リネットが荷の奥から小さな包みを運んでくる。丁寧に開かれた布の上に、古い石のついたネックレスが現れた。華美ではない。けれど、控えめな品のよさがある。
リネットはその留め具を指で確かめ、少し眉を寄せた。
「傷んでいますね」
「長く触れていなかったもの」
「このままでは危ないかもしれません」
「でも今からでは」
「……」
リネットは口をつぐむ。
王都へ持っていく以上、つけられないのでは意味がない。だが北辺の屋敷に宝飾の細工をすぐ頼める当てがあるとも思えなかった。
その時、扉が控えめに叩かれた。
返事をすると、入ってきたのは侍従だった。
「奥方様、公爵様より」
差し出されたのは細長い箱だった。
「お預かりしております」
侍従が下がったあと、エレノアとリネットは顔を見合わせる。
箱を開けると、中には細い布に包まれた金具が入っていた。古い留め具ではなく、新しく作り直されたらしい部品と、小さな石座。色も形も、ネックレスの意匠を壊さないよう整えられている。
リネットが息を呑む。
「……まさか」
エレノアはそのまま手紙が入っていないかと探したが、何もない。
ただ金具だけが、静かに置かれている。
リネットが呟く。
「お嬢様」
「ええ」
「これ、最初から直すおつもりだったのでは」
「かもしれないわね」
恩着せがましい言葉は一つもない。
直しておけ、とも。
使え、とも。
ただ、必要になるものが、必要になる前に届いている。
そのことが、妙に残る。
リネットはネックレスと新しい金具を並べ、目を細めた。
「明日のうちに、屋敷の細工ができる方へ頼めるかもしれません」
「誰かいるの?」
「北辺ですもの。装飾だけでなく、留め具の補修くらいできる方は」
そこまで言って、リネットは少し笑う。
「王都より実用的です」
エレノアも、つられて少し笑った。
翌朝、支度の段取りは思った以上に早く進んだ。
リネットが部屋の衣装と小物を点検し、アグネスが道中に要るものだけを無駄なく運ばせる。王都向けの見栄を張るでもなく、北辺の実務のまま整えていく手際は、見ていて気持ちがいいほどだった。
その合間に、エレノアは西棟へ呼ばれた。
ヴィクトルの執務室には、王都行きの行程表が広げられている。主要都市まで何日、本邸からの出立時刻、途中で入る宿、王都入りの予定日。無駄がない。
「十日あれば足ります」
と老家令。
「積雪ももう深くはありません」
ヴィクトルが頷く。
「夫人の荷は最小でいい」
「はい」
「王都で増やすな」
「……増やしません」
そこで話は終わりかと思ったが、ヴィクトルは机上の行程表を指で押さえたまま、ふと聞いた。
「後悔していないか」
「何をですか」
「出ると決めたことを」
エレノアは少し黙った。
怖さが消えたわけではない。
王都へ近づくほど、たぶん胸はまたざわつくだろう。
それでも。
「していません」
「……」
「怖いのは本当です。でも、それで隠れるのは違うと思いました」
ヴィクトルはしばらく何も言わなかった。
やがて短く返す。
「そうか」
それだけを返した。
けれど、その「そうか」は前みたいな突き放す響きではない。選んだなら通す、という温度だった。
エレノアは一礼する。
部屋を出たあと、廊下の窓から見えた中庭には、王都行きのための馬具がもう一部並べられていた。出発はまだ少し先なのに、北辺の準備は遅れない。
戻るのではない。
向かうのだ。
その実感が、ゆっくり輪郭を持つ。
王都は、奪われた場所だった。
でも今度は違う。
公爵夫人として出る。
あの人の妻として、少しでも噂をやわらげるために。
そして、自分もまた、下がらずに立つために。
そう思えた時、怖さの奥に、ほんの少し別の熱が混じった。




