第31話
雪解けは、ある朝いきなり来るわけではなかった。
昼のあいだに屋根から落ちた雫が、夕方にはまだ凍る。けれど石壁の際の雪は少しずつ痩せ、北棟の裏手を流れる細い水音が日に日に長くなる。空気はまだ冷たいのに、風の匂いだけが冬の深いところを抜けていく。
屋敷の中も、ほんの少し変わっていた。
薪箱の札はもう見慣れたものになり、洗い場の娘たちは湯桶の位置を誰に言われなくても直す。北棟の夜番も、見回りの刻を体で覚えたらしい。新しいやり方が珍しいものではなくなっていく、その過程は静かで、だからこそ確かだった。
オズウィンの姿は本邸の中枢から消えた。
消えた、といっても屋敷からいなくなったわけではない。朝の早い時間、裏手の運搬路で荷を数えているのを一度だけ見かけたことがある。前みたいに人へ指示を飛ばすことはなく、ただ一人で、下からやり直す顔をしていた。エレノアも、彼へ声をかけることはなかった。
その朝、王都からの使者が来たのは、空がよく晴れていた日のことだった。
東棟の窓から見える中庭に、見慣れない紋章のついた馬が入ってくる。まだ雪の残る石畳を、蹄が乾いた音で打つ。すぐに老家令が迎えへ出て、侍従たちが動き出した。
エレノアは窓辺でその気配を見ていたが、ほどなくしてアグネスが部屋へ来た。
「奥方様」
「王都から?」
「はい。王太子殿下より、公爵様へ」
アグネスはそこで一拍置く。
「お話があるそうです」
「私にも?」
「ええ」
肩が、ほんの少し強張る。
王都。
その二文字だけで、まだ喉のどこかが冷える。父も継母も妹も、元婚約者もいる場所だ。あの家を出てからずっと、考えないようにしていた方向の風が、急にこちらへ吹いてきた。
西棟の小応接間へ向かう途中、廊下の窓から中庭が見えた。使者の馬の汗が光っている。急ぎの書状なのだろう。
部屋へ入ると、ヴィクトルがすでに開封した書状を机の上に置いていた。
「座れ」
いつもの短い声だった。
けれどエレノアが椅子へ腰を下ろすまで、彼は続きを言わない。その間が、少し不穏だった。
「王都へ出る」
それが最初の言葉だった。
エレノアは反射で顔を上げる。
ヴィクトルは机の上の書状へ目を落としたまま続けた。
「王太子命令だ。北辺の現状報告と、春の社交期にあわせた登城」
「……公務、ですね」
「ああ」
私情ではない。呼ばれたから行く。それだけの話のはずなのに、息は少しも整わなかった。
ヴィクトルは視線を上げる。
「夫人として、お前にも出席要請が来ている」
「私にも」
「そうだ」
王都の公の場へ、公爵夫人として。
その言葉の響きだけで、あの家の玄関や、茶会の空気や、継母の笑い声が一度に戻りかける。行けば会う。会わなくても、姿を見られる。今の自分を。
膝の上で手を重ねる。
少し指が冷たい。
ヴィクトルはそんなこちらを見て、先に言った。
「嫌なら断っていい」
思わず、目を瞬く。
「……え」
「お前にとって、楽な話ではないだろう」
王都へ行くこと。
実家と、元婚約者と、あの頃の自分がいた場所へ戻ること。
それをこの人は知っている。
「夫人の出席は要請だ。公爵命令ではない」
「でも、公爵様はお一人では」
「一人でも行ける」
「……」
「無理に連れていくつもりはない」
言い方は相変わらず飾りがない。慰めるような柔らかさもない。
それでも、退路を先に渡されたことが、思った以上に深く残った。
王都での自分は、いつも選ばれる側ではなかった。断る権利より先に、決められるほうが多かった。だから「嫌なら断っていい」という言葉に、どう返せばいいのか一瞬分からない。
ヴィクトルは急かさない。
ただ静かに待つ。
エレノアはゆっくり息を吸った。
「……王都での、公爵様の噂は」
「悪いだろうな」
「ええ」
思わず小さく頷いてしまう。
「とても」
「知っている」
そこで少し、喉のつかえがゆるんだ。
知らないふりをされないのは、楽だった。
エレノアは言葉を選ぶ。
「私が出れば、その噂が少しでもやわらぐなら」
ヴィクトルの目がかすかに細くなる。
「それで出るのか」
「それだけではありません」
言ってから、自分でも少し驚いた。
“それだけではない”と、今の自分が自然に言ったことに。
「……逃げたくないの」
声は小さかったが、はっきりしていた。
「今の私で、一度きちんと立ちたいと思います」
ヴィクトルはしばらく黙っていた。
やがて短く頷く。
「分かった」
それだけで終わると思ったが、次に彼は少し視線を外し、
「なら、こちらで整える」
と言った。
こちらで。
何を、とは聞かなくても分かった。道中も、宿も、王都での動きも、全部この人の側で整えるのだ。
エレノアは小さく頭を下げた。
「お願いします」
「ああ」
部屋を辞そうとした時だった。
扉が二度、控えめに叩かれる。
ヴィクトルが「入れ」と言うと、侍従が一人、少し戸惑った顔で頭を下げた。
「公爵様」
「何だ」
「王都からの人員の中に、ひとり……その」
「はっきり言え」
「夫人付きとして引き渡し希望の娘が来ております」
エレノアは足を止めた。
夫人付き。
王都から。
引き渡し希望。
意味を飲み込む前に、ヴィクトルが短く問う。
「誰だ」
侍従は紙を見た。
「リネット・ベル、と」
喉の奥が、ひゅっと鳴った。
名前が、現実の音として落ちる。
エレノアはその場で動けなかった。聞き間違いかと思うほど、久しぶりだった。あの出立の日以来、声にもできなかった名前。
ヴィクトルがこちらを見る。
その目に「覚えている」という気配があるのを見て、余計に息が詰まる。
「通せ」
ヴィクトルの一言で、侍従が頭を下げて下がる。
扉が閉まってからも、エレノアは立ったままだった。手が震えている気がして、ぎゅっと握る。落ち着けない。喜んでいいのか、まだ怖がるべきなのか、自分でも分からない。
「公爵様」
ようやく声にすると、少しかすれた。
「まさか」
「王都へ行く前に、手配した」
あまりにあっさり言われて、言葉がなくなる。
手配した。
あの夜、名前を聞いて、「覚えておく」とだけ言った。その先を勝手に期待するつもりはなかった。なのに、この人は本当に動いていたのだ。
「解雇されたあと、母方の縁を辿っていた」
ヴィクトルは必要なことだけ告げる。
「今は王都の端で雑用をしていたらしい。夫人付きとして戻す形なら動かせると判断した」
「……」
「嫌なら断れ」
「断るわけ」
そこまで言って、言葉が詰まる。
断るわけがない。
けれど、その言葉の先がもう出なかった。
扉が、また静かに叩かれる。
今度は返事を待つ間が少し長かった。
「入れ」
開いた扉の向こうに立っていたのは、以前より少し背が伸びたリネットだった。
髪はきちんと結い上げられている。衣服も整っている。けれど手はやせて、指先にはまだ小さな荒れが残っていた。顔を上げた瞬間、エレノアと目が合う。
リネットの唇が震える。
「……お嬢様」
その呼び方を聞いた瞬間、こわばっていた肩がほどけた。
エレノアは一歩、二歩、扉のほうへ歩いた。近づいていく顔が、記憶の中のままなのに少し違う。痩せている。けれど目だけは同じだ。いちばん早く自分の顔色に気づいてくれた、あの時のまま。
「リネット」
呼ぶと、リネットの目に一気に涙が溜まる。
「お嬢様、本当に……」
「ええ」
「よかった」
「……ええ」
それ以上が、二人とも出てこない。
抱きしめるべきなのかもしれない。けれど公爵の前で泣き崩れるのも違う気がして、エレノアはただリネットの両手を取った。
冷たい。けれど生きている温度だ。
リネットは泣きながら笑おうとして、うまくいかない顔になる。
「お迎えなんて、そんな」
「迎えに行ったのは私ではないわ」
そう言ってから、少し振り返る。
ヴィクトルは何も言わない。ただ部屋の奥で二人を見ている。邪魔をするでも、恩に着せるでもない、静かな顔だった。
リネットはその視線に気づき、慌てて姿勢を正した。
「も、申し訳ございません、公爵様」
「構わん」
短く返される。
それだけなのに、リネットの肩から力が少し抜ける。
エレノアはまだ手を離せなかった。
「寒かったでしょう」
リネットが鼻をすすりながら言う。
「お嬢様こそ」
「私は大丈夫」
「嘘です。少し痩せておられます」
「あなたに言われたくないわ」
その返しに、リネットが泣き笑いみたいな顔をする。
ああ、この子だ、とようやく実感する。
王都から持ってきた痛みも、王都へ戻る怖さも、全部消えたわけではない。けれど今この部屋には、確かに自分の過去を知る味方が立っている。
ヴィクトルが静かに口を開いた。
「夫人」
振り向く。
「王都へ発つ前に、部屋と支度を整えさせる。話はそのあとにしろ」
「……はい」
「リネット・ベル」
「は、はい」
「今後は夫人付きだ。必要なものはアグネスへ通せ」
「承知いたしました」
リネットの返事はまだ少し震えている。
けれど、立ち方は崩れない。あの家にいた頃より、少し強くなっている。
エレノアはそこでやっと手を離した。
リネットが侍従に案内されて出ていくまで、視線を外せない。扉が閉まったあとも、部屋の中にはほんの少し、懐かしい気配が残っていた。
王都へ行く前に、もう一度、自分の側へ戻ってきた子。
その事実が、体の内側を静かに温める。
ヴィクトルが机の上の書状へ手を戻す。
「出立は急がせない」
「はい」
「王都へ入るのは十日ほど先で足りる」
「分かりました」
「支度に足りないものがあれば言え」
「……はい」
返事をしながら、エレノアは少し笑いそうになった。
足りないものがあれば言え。
そう言われること自体が、まだ少し信じられない。
でも今は、その言葉をそのまま受け取ってもいい。
窓の外では、雪解けの水が細く流れている。
春はまだ遠い。
それでも、止まっていたものが少しずつ動き出している音だけは、はっきり聞こえた。




