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婚約者も功績も妹に奪われた私は、死ぬと噂の北辺公爵に嫁ぐことになりました 〜愛のない結婚のはずが、冷酷な夫は私を手放してくれない〜  作者: 師走
第8章 あなたの隣で

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第31話

雪解けは、ある朝いきなり来るわけではなかった。


昼のあいだに屋根から落ちた雫が、夕方にはまだ凍る。けれど石壁の際の雪は少しずつ痩せ、北棟の裏手を流れる細い水音が日に日に長くなる。空気はまだ冷たいのに、風の匂いだけが冬の深いところを抜けていく。


屋敷の中も、ほんの少し変わっていた。


薪箱の札はもう見慣れたものになり、洗い場の娘たちは湯桶の位置を誰に言われなくても直す。北棟の夜番も、見回りの刻を体で覚えたらしい。新しいやり方が珍しいものではなくなっていく、その過程は静かで、だからこそ確かだった。


オズウィンの姿は本邸の中枢から消えた。


消えた、といっても屋敷からいなくなったわけではない。朝の早い時間、裏手の運搬路で荷を数えているのを一度だけ見かけたことがある。前みたいに人へ指示を飛ばすことはなく、ただ一人で、下からやり直す顔をしていた。エレノアも、彼へ声をかけることはなかった。


その朝、王都からの使者が来たのは、空がよく晴れていた日のことだった。


東棟の窓から見える中庭に、見慣れない紋章のついた馬が入ってくる。まだ雪の残る石畳を、蹄が乾いた音で打つ。すぐに老家令が迎えへ出て、侍従たちが動き出した。


エレノアは窓辺でその気配を見ていたが、ほどなくしてアグネスが部屋へ来た。


「奥方様」

「王都から?」

「はい。王太子殿下より、公爵様へ」


アグネスはそこで一拍置く。


「お話があるそうです」

「私にも?」

「ええ」


肩が、ほんの少し強張る。


王都。


その二文字だけで、まだ喉のどこかが冷える。父も継母も妹も、元婚約者もいる場所だ。あの家を出てからずっと、考えないようにしていた方向の風が、急にこちらへ吹いてきた。


西棟の小応接間へ向かう途中、廊下の窓から中庭が見えた。使者の馬の汗が光っている。急ぎの書状なのだろう。


部屋へ入ると、ヴィクトルがすでに開封した書状を机の上に置いていた。


「座れ」


いつもの短い声だった。


けれどエレノアが椅子へ腰を下ろすまで、彼は続きを言わない。その間が、少し不穏だった。


「王都へ出る」


それが最初の言葉だった。


エレノアは反射で顔を上げる。


ヴィクトルは机の上の書状へ目を落としたまま続けた。


「王太子命令だ。北辺の現状報告と、春の社交期にあわせた登城」

「……公務、ですね」

「ああ」


私情ではない。呼ばれたから行く。それだけの話のはずなのに、息は少しも整わなかった。


ヴィクトルは視線を上げる。


「夫人として、お前にも出席要請が来ている」

「私にも」

「そうだ」


王都の公の場へ、公爵夫人として。


その言葉の響きだけで、あの家の玄関や、茶会の空気や、継母の笑い声が一度に戻りかける。行けば会う。会わなくても、姿を見られる。今の自分を。


膝の上で手を重ねる。

少し指が冷たい。


ヴィクトルはそんなこちらを見て、先に言った。


「嫌なら断っていい」

思わず、目を瞬く。

「……え」

「お前にとって、楽な話ではないだろう」


王都へ行くこと。

実家と、元婚約者と、あの頃の自分がいた場所へ戻ること。


それをこの人は知っている。


「夫人の出席は要請だ。公爵命令ではない」

「でも、公爵様はお一人では」

「一人でも行ける」

「……」

「無理に連れていくつもりはない」


言い方は相変わらず飾りがない。慰めるような柔らかさもない。


それでも、退路を先に渡されたことが、思った以上に深く残った。


王都での自分は、いつも選ばれる側ではなかった。断る権利より先に、決められるほうが多かった。だから「嫌なら断っていい」という言葉に、どう返せばいいのか一瞬分からない。


ヴィクトルは急かさない。


ただ静かに待つ。


エレノアはゆっくり息を吸った。


「……王都での、公爵様の噂は」

「悪いだろうな」

「ええ」

思わず小さく頷いてしまう。

「とても」

「知っている」


そこで少し、喉のつかえがゆるんだ。


知らないふりをされないのは、楽だった。


エレノアは言葉を選ぶ。


「私が出れば、その噂が少しでもやわらぐなら」

ヴィクトルの目がかすかに細くなる。

「それで出るのか」

「それだけではありません」


言ってから、自分でも少し驚いた。


“それだけではない”と、今の自分が自然に言ったことに。


「……逃げたくないの」

声は小さかったが、はっきりしていた。

「今の私で、一度きちんと立ちたいと思います」


ヴィクトルはしばらく黙っていた。


やがて短く頷く。


「分かった」

それだけで終わると思ったが、次に彼は少し視線を外し、

「なら、こちらで整える」

と言った。


こちらで。


何を、とは聞かなくても分かった。道中も、宿も、王都での動きも、全部この人の側で整えるのだ。


エレノアは小さく頭を下げた。


「お願いします」

「ああ」


部屋を辞そうとした時だった。


扉が二度、控えめに叩かれる。


ヴィクトルが「入れ」と言うと、侍従が一人、少し戸惑った顔で頭を下げた。


「公爵様」

「何だ」

「王都からの人員の中に、ひとり……その」

「はっきり言え」

「夫人付きとして引き渡し希望の娘が来ております」


エレノアは足を止めた。


夫人付き。

王都から。

引き渡し希望。


意味を飲み込む前に、ヴィクトルが短く問う。


「誰だ」

侍従は紙を見た。

「リネット・ベル、と」


喉の奥が、ひゅっと鳴った。


名前が、現実の音として落ちる。


エレノアはその場で動けなかった。聞き間違いかと思うほど、久しぶりだった。あの出立の日以来、声にもできなかった名前。


ヴィクトルがこちらを見る。


その目に「覚えている」という気配があるのを見て、余計に息が詰まる。


「通せ」


ヴィクトルの一言で、侍従が頭を下げて下がる。


扉が閉まってからも、エレノアは立ったままだった。手が震えている気がして、ぎゅっと握る。落ち着けない。喜んでいいのか、まだ怖がるべきなのか、自分でも分からない。


「公爵様」

ようやく声にすると、少しかすれた。

「まさか」

「王都へ行く前に、手配した」


あまりにあっさり言われて、言葉がなくなる。


手配した。


あの夜、名前を聞いて、「覚えておく」とだけ言った。その先を勝手に期待するつもりはなかった。なのに、この人は本当に動いていたのだ。


「解雇されたあと、母方の縁を辿っていた」

ヴィクトルは必要なことだけ告げる。

「今は王都の端で雑用をしていたらしい。夫人付きとして戻す形なら動かせると判断した」

「……」

「嫌なら断れ」

「断るわけ」


そこまで言って、言葉が詰まる。


断るわけがない。

けれど、その言葉の先がもう出なかった。


扉が、また静かに叩かれる。


今度は返事を待つ間が少し長かった。


「入れ」


開いた扉の向こうに立っていたのは、以前より少し背が伸びたリネットだった。


髪はきちんと結い上げられている。衣服も整っている。けれど手はやせて、指先にはまだ小さな荒れが残っていた。顔を上げた瞬間、エレノアと目が合う。


リネットの唇が震える。


「……お嬢様」


その呼び方を聞いた瞬間、こわばっていた肩がほどけた。


エレノアは一歩、二歩、扉のほうへ歩いた。近づいていく顔が、記憶の中のままなのに少し違う。痩せている。けれど目だけは同じだ。いちばん早く自分の顔色に気づいてくれた、あの時のまま。


「リネット」

呼ぶと、リネットの目に一気に涙が溜まる。

「お嬢様、本当に……」

「ええ」

「よかった」

「……ええ」


それ以上が、二人とも出てこない。


抱きしめるべきなのかもしれない。けれど公爵の前で泣き崩れるのも違う気がして、エレノアはただリネットの両手を取った。


冷たい。けれど生きている温度だ。


リネットは泣きながら笑おうとして、うまくいかない顔になる。


「お迎えなんて、そんな」

「迎えに行ったのは私ではないわ」

そう言ってから、少し振り返る。


ヴィクトルは何も言わない。ただ部屋の奥で二人を見ている。邪魔をするでも、恩に着せるでもない、静かな顔だった。


リネットはその視線に気づき、慌てて姿勢を正した。


「も、申し訳ございません、公爵様」

「構わん」


短く返される。


それだけなのに、リネットの肩から力が少し抜ける。


エレノアはまだ手を離せなかった。


「寒かったでしょう」

リネットが鼻をすすりながら言う。

「お嬢様こそ」

「私は大丈夫」

「嘘です。少し痩せておられます」

「あなたに言われたくないわ」


その返しに、リネットが泣き笑いみたいな顔をする。


ああ、この子だ、とようやく実感する。


王都から持ってきた痛みも、王都へ戻る怖さも、全部消えたわけではない。けれど今この部屋には、確かに自分の過去を知る味方が立っている。


ヴィクトルが静かに口を開いた。


「夫人」

振り向く。

「王都へ発つ前に、部屋と支度を整えさせる。話はそのあとにしろ」

「……はい」

「リネット・ベル」

「は、はい」

「今後は夫人付きだ。必要なものはアグネスへ通せ」

「承知いたしました」


リネットの返事はまだ少し震えている。

けれど、立ち方は崩れない。あの家にいた頃より、少し強くなっている。


エレノアはそこでやっと手を離した。


リネットが侍従に案内されて出ていくまで、視線を外せない。扉が閉まったあとも、部屋の中にはほんの少し、懐かしい気配が残っていた。


王都へ行く前に、もう一度、自分の側へ戻ってきた子。


その事実が、体の内側を静かに温める。


ヴィクトルが机の上の書状へ手を戻す。


「出立は急がせない」

「はい」

「王都へ入るのは十日ほど先で足りる」

「分かりました」

「支度に足りないものがあれば言え」

「……はい」


返事をしながら、エレノアは少し笑いそうになった。


足りないものがあれば言え。

そう言われること自体が、まだ少し信じられない。


でも今は、その言葉をそのまま受け取ってもいい。


窓の外では、雪解けの水が細く流れている。

春はまだ遠い。

それでも、止まっていたものが少しずつ動き出している音だけは、はっきり聞こえた。

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