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婚約者も功績も妹に奪われた私は、死ぬと噂の北辺公爵に嫁ぐことになりました 〜愛のない結婚のはずが、冷酷な夫は私を手放してくれない〜  作者: 師走
第7章 私を信じて

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第30話

南旧庫の空気は、誰も声を出さなくても重かった。


オズウィンはもう言い訳を重ねなかった。顔色は悪いが、崩れてはいない。自分のしたことが露見したと分かっても、なお、それが北辺のためだとどこかで信じている目だった。


ヴィクトルはその目をまっすぐ見ていた。


「人を集めろ」

オズウィンではなく、老家令へ向けた声だった。

「北棟の夜番、帳場、女中頭、家令補佐。今この件に触れた者を大広間へ」

「承知いたしました」


老家令がすぐに動く。


アグネスも女中へ視線を飛ばした。

「北洗濯場の火だけ落とさないで。残りは広間へ」

「はい」


人が散っていく。


エレノアはその場に立ったまま、空の予備箱と、南旧庫の奥へ押し込まれた偽りの箱を見ていた。さっきまで首を締めていた疑いは、いったんほどけている。けれど呼吸はまだ浅い。たぶん、これで終わりではないからだ。


ヴィクトルが言う。


「夫人」

呼ばれて顔を上げる。

「広間へ来い」

「……はい」


大広間といっても、王都の舞踏会場のような華やかな場所ではない。屋敷内で人数を集めて指示を出すための、実務寄りの広間だ。長卓が寄せられ、壁際には薪が余分に積んである。


そこへ着いた時には、もう人が集まり始めていた。


帳場の男たち、女中たち、北棟の夜番、薪運びの下男。皆、何が起きたかまでは知らない顔で、それでも空気の重さだけは分かっている。ざわめきはあっても、小さい。


エレノアが入ると、そのざわめきが少し揺れた。


昨日までなら、その揺れは「夫人がなぜここへ」という種類のものだっただろう。今は違う。見てはいけないのに、見ずにはいられない。そんな目がいくつもある。


ヴィクトルは広間の中央に立った。


その右に老家令。

左にアグネス。

少し離れて、オズウィン。


エレノアは一歩引こうとして、止まる。


止まったのは自分の意志だけではなかった。ヴィクトルが一度だけこちらを見たからだ。下がるな、とまでは言わない。けれど、その目はそう言っていた。


エレノアは広間の端へ逃げるのをやめ、アグネスの少し後ろ、しかし隠れない位置に立った。


人がそろうまで、そう時間はかからなかった。


ヴィクトルは待たせない。


「北棟の予備運用について、混乱が出た」


低い声が広間の石壁へまっすぐ当たる。


誰も身じろがない。


「夫人まわりの印を使い、帳場を経て、現場へ誤った指示が流された」

「……」

「北洗濯場脇の予備箱は中身をすり替えられ、必要な時に機能しなかった」


ざわめきが起きかけて、すぐに消える。


ヴィクトルは続けた。


「夫人の指示ではない」

たったそれだけなのに、空気が一段変わる。


エレノアは息を止めた。


公の場で、はっきりと。

疑いの余地を残さずに。

この屋敷の主が、そう言った。


ヴィクトルは横へ視線を向ける。


「副家令オズウィン」

オズウィンが前へ出る。

「お前がやったな」

「……はい」


広間の中で、誰かが小さく息を呑んだ。


それでもオズウィンは膝を折らない。青い顔のまま、背筋だけは伸ばしている。


ヴィクトルの声は変わらない。


「夫人の印を利用し、夫人案と偽った覚え書きを帳場へ置き、北棟の導線をずらした」

「はい」

「北辺を守るため、南の奥方に現場を触らせる危うさを示す必要があると判断した」

オズウィンはほんの一拍だけ黙り、それから答える。

「はい」


アグネスの指が、横でかすかに強く組まれるのが見えた。


ヴィクトルはオズウィンから目を逸らさない。


「お前の仕事が本物であることは知っている」

広間が静まる。

「だが、人を賭けに使った」

「……」

「夫人を疑わせる形を作り、屋敷の秩序を乱した」


そこで初めて、オズウィンの喉が動いた。


反論はしない。

できないのだろう。


ヴィクトルは短く言い渡す。


「副家令を罷免する」

広間の空気が、目に見えないくらい揺れた。

「今この時点で、鍵、印章、帳簿権限をすべて剥奪」

老家令が一歩前へ出る。

「承知いたしました」

「部下を持つ権限もなし。本邸中枢から外す」

「はい」

「屋敷から追いはしない」


その一言で、今度こそ皆の顔が動いた。


エレノアも思わずヴィクトルを見る。


切り捨てない。

だが許しもしない。


ヴィクトルは続ける。


「見習い同格まで下げる」

「……」

「下からやり直せ」

「……承知、いたしました」


オズウィンの声はかすれていた。

それでも最後まで姿勢は崩さない。


小物のように喚かないからこそ、この処分は重いのだと分かる。誇りも実績もあった男が、全部を剥がされて、なおこの屋敷に残される。


ヴィクトルは老家令へ目を向ける。


「鍵」

老家令が手を差し出す。


オズウィンは一瞬だけ動かなかった。ほんの短い間だ。だがその間に、何を思ったかは顔へ出ない。


やがて懐から鍵束を出し、老家令の掌へ置く。

次に印章。

最後に帳面を留めていた小さな封袋。


金属が触れる乾いた音が、やけに大きく響いた。


広間の空気が、その音で本当に切り替わる。


ヴィクトルはそこで、初めて広間全体を見渡した。


「聞け」

誰も息をしない。

「夫人を差し置くな」


短い。

だが、その一言が真っ直ぐ刺さる。


エレノアの指先がかすかに震えた。


ヴィクトルはさらに言う。


「運用変更も、現場の回しも、夫人の名を使うなら夫人へ通せ」

「……」

「今後、北棟まわりの調整は、女中頭が夫人の指示で動かす」

アグネスが一歩進み出る。

「承知いたしました」

「帳場も同じだ。夫人の印と名を、勝手に使うことを禁じる」

老家令が深く頭を下げる。

「徹底いたします」

「夜番も、薪運びも、聞いた話で動くな。夫人の名が出た時は確認しろ」


それは、屋敷の秩序をひっくり返す宣言だった。


今までエレノアは、現場の端でだけ使われる工夫の主にすぎなかった。だが今は違う。公に、屋敷の主が、夫人を通せと言った。


誰の前で。

何の件のあとに。

それがどれだけ重いか、広間にいる者なら全員分かる。


ヴィクトルは最後にエレノアを見る。


「夫人」

呼ばれて、喉が少し詰まる。

「はい」

「北棟の戻しは、お前が見るか」

一瞬だけ、返事に迷う。


見たい。

だがここで感情のままにうなずけば、浮かれるように見える。


けれどヴィクトルは待っている。

逃げるほうが不自然だった。


「……見ます」

「なら見ろ」

「はい」


それで終わりだった。


飾る言葉も、持ち上げる言葉もない。

けれど十分すぎた。


広間は解かれた。


人はすぐには動かない。皆、今の言葉の重さをまだそれぞれの中で飲み込んでいる顔だった。やがて老家令が帳場の男へ指示を出し、アグネスが女中たちを呼び、薪運びの下男が走り出す。


秩序が、本当に切り替わったのだ。


エレノアが一歩動こうとした時、視界の端でオズウィンが立ち去るのが見えた。誰もついていかない。もう彼の後ろには部下がいない。


それでも背中は折れていない。


その姿を見て、エレノアの胸には複雑なものが残った。ざまあだと、単純には思えない。憎んでいたのは事実だ。けれどあの男は、本気で北辺を守ろうとしていた。ただ、その守り方が、ここでは越えてはならない線を越えた。


「奥方様」


振り向くと、アグネスだった。


いつも通りきびきびしている。だがその目の色だけが少し違う。


「北棟へ参ります」

「ええ」

「ご一緒ください」


その言い方に、もう拒絶の棘はなかった。


エレノアは頷く。


広間を出る時、通りの脇にいた下働きの娘たちが一斉に頭を下げた。その中にミアもいる。だが前みたいな怯えた頭の下げ方ではない。まだぎこちないが、視線の落とし方が少し変わっていた。


北棟へ向かう廊下は冷えているのに、手の内だけが妙に熱い。


夫人を差し置くな。

夫人の指示で動かす。


その言葉が何度も耳へ戻る。


王都では、公の場で自分の位置を言葉にされることなどなかった。奪われる時も、外される時も、いつも曖昧に処理された。


ここでは違う。

切る時も、置く時も、言葉にする。


それが痛くて、強い。


アグネスが隣で短く言う。


「角二部屋から戻しましょう」

「ええ」

「中ほどの見回り刻は、今夜から正式に組み替えます」

「はい」

「……奥方様」

「なに」

「さきほどは」


そこで、アグネスは少し言葉を探した。


「ありがとうございました、とは申しません」

思わず、エレノアは瞬いた。

「言わないの?」

「言うと、今後もまた無茶をなさりそうです」

「そんな」

「なさるでしょう」

「……たぶん」

「本当に、それをやめてください」


けれどその声には、もう冷たさだけはなかった。


エレノアは少し口元を緩める。


北棟の角を曲がると、洗濯場の庇が見えた。空箱だった予備箱には、もう半分ほど薪が戻されている。年上の女中が札を結び直しているところだった。


現場の火は消えていない。

秩序も、まだ間に合う。


エレノアは箱の前で立ち止まり、そっと木の縁へ触れた。


冷たい。

けれど、空ではなかった。

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