第30話
南旧庫の空気は、誰も声を出さなくても重かった。
オズウィンはもう言い訳を重ねなかった。顔色は悪いが、崩れてはいない。自分のしたことが露見したと分かっても、なお、それが北辺のためだとどこかで信じている目だった。
ヴィクトルはその目をまっすぐ見ていた。
「人を集めろ」
オズウィンではなく、老家令へ向けた声だった。
「北棟の夜番、帳場、女中頭、家令補佐。今この件に触れた者を大広間へ」
「承知いたしました」
老家令がすぐに動く。
アグネスも女中へ視線を飛ばした。
「北洗濯場の火だけ落とさないで。残りは広間へ」
「はい」
人が散っていく。
エレノアはその場に立ったまま、空の予備箱と、南旧庫の奥へ押し込まれた偽りの箱を見ていた。さっきまで首を締めていた疑いは、いったんほどけている。けれど呼吸はまだ浅い。たぶん、これで終わりではないからだ。
ヴィクトルが言う。
「夫人」
呼ばれて顔を上げる。
「広間へ来い」
「……はい」
大広間といっても、王都の舞踏会場のような華やかな場所ではない。屋敷内で人数を集めて指示を出すための、実務寄りの広間だ。長卓が寄せられ、壁際には薪が余分に積んである。
そこへ着いた時には、もう人が集まり始めていた。
帳場の男たち、女中たち、北棟の夜番、薪運びの下男。皆、何が起きたかまでは知らない顔で、それでも空気の重さだけは分かっている。ざわめきはあっても、小さい。
エレノアが入ると、そのざわめきが少し揺れた。
昨日までなら、その揺れは「夫人がなぜここへ」という種類のものだっただろう。今は違う。見てはいけないのに、見ずにはいられない。そんな目がいくつもある。
ヴィクトルは広間の中央に立った。
その右に老家令。
左にアグネス。
少し離れて、オズウィン。
エレノアは一歩引こうとして、止まる。
止まったのは自分の意志だけではなかった。ヴィクトルが一度だけこちらを見たからだ。下がるな、とまでは言わない。けれど、その目はそう言っていた。
エレノアは広間の端へ逃げるのをやめ、アグネスの少し後ろ、しかし隠れない位置に立った。
人がそろうまで、そう時間はかからなかった。
ヴィクトルは待たせない。
「北棟の予備運用について、混乱が出た」
低い声が広間の石壁へまっすぐ当たる。
誰も身じろがない。
「夫人まわりの印を使い、帳場を経て、現場へ誤った指示が流された」
「……」
「北洗濯場脇の予備箱は中身をすり替えられ、必要な時に機能しなかった」
ざわめきが起きかけて、すぐに消える。
ヴィクトルは続けた。
「夫人の指示ではない」
たったそれだけなのに、空気が一段変わる。
エレノアは息を止めた。
公の場で、はっきりと。
疑いの余地を残さずに。
この屋敷の主が、そう言った。
ヴィクトルは横へ視線を向ける。
「副家令オズウィン」
オズウィンが前へ出る。
「お前がやったな」
「……はい」
広間の中で、誰かが小さく息を呑んだ。
それでもオズウィンは膝を折らない。青い顔のまま、背筋だけは伸ばしている。
ヴィクトルの声は変わらない。
「夫人の印を利用し、夫人案と偽った覚え書きを帳場へ置き、北棟の導線をずらした」
「はい」
「北辺を守るため、南の奥方に現場を触らせる危うさを示す必要があると判断した」
オズウィンはほんの一拍だけ黙り、それから答える。
「はい」
アグネスの指が、横でかすかに強く組まれるのが見えた。
ヴィクトルはオズウィンから目を逸らさない。
「お前の仕事が本物であることは知っている」
広間が静まる。
「だが、人を賭けに使った」
「……」
「夫人を疑わせる形を作り、屋敷の秩序を乱した」
そこで初めて、オズウィンの喉が動いた。
反論はしない。
できないのだろう。
ヴィクトルは短く言い渡す。
「副家令を罷免する」
広間の空気が、目に見えないくらい揺れた。
「今この時点で、鍵、印章、帳簿権限をすべて剥奪」
老家令が一歩前へ出る。
「承知いたしました」
「部下を持つ権限もなし。本邸中枢から外す」
「はい」
「屋敷から追いはしない」
その一言で、今度こそ皆の顔が動いた。
エレノアも思わずヴィクトルを見る。
切り捨てない。
だが許しもしない。
ヴィクトルは続ける。
「見習い同格まで下げる」
「……」
「下からやり直せ」
「……承知、いたしました」
オズウィンの声はかすれていた。
それでも最後まで姿勢は崩さない。
小物のように喚かないからこそ、この処分は重いのだと分かる。誇りも実績もあった男が、全部を剥がされて、なおこの屋敷に残される。
ヴィクトルは老家令へ目を向ける。
「鍵」
老家令が手を差し出す。
オズウィンは一瞬だけ動かなかった。ほんの短い間だ。だがその間に、何を思ったかは顔へ出ない。
やがて懐から鍵束を出し、老家令の掌へ置く。
次に印章。
最後に帳面を留めていた小さな封袋。
金属が触れる乾いた音が、やけに大きく響いた。
広間の空気が、その音で本当に切り替わる。
ヴィクトルはそこで、初めて広間全体を見渡した。
「聞け」
誰も息をしない。
「夫人を差し置くな」
短い。
だが、その一言が真っ直ぐ刺さる。
エレノアの指先がかすかに震えた。
ヴィクトルはさらに言う。
「運用変更も、現場の回しも、夫人の名を使うなら夫人へ通せ」
「……」
「今後、北棟まわりの調整は、女中頭が夫人の指示で動かす」
アグネスが一歩進み出る。
「承知いたしました」
「帳場も同じだ。夫人の印と名を、勝手に使うことを禁じる」
老家令が深く頭を下げる。
「徹底いたします」
「夜番も、薪運びも、聞いた話で動くな。夫人の名が出た時は確認しろ」
それは、屋敷の秩序をひっくり返す宣言だった。
今までエレノアは、現場の端でだけ使われる工夫の主にすぎなかった。だが今は違う。公に、屋敷の主が、夫人を通せと言った。
誰の前で。
何の件のあとに。
それがどれだけ重いか、広間にいる者なら全員分かる。
ヴィクトルは最後にエレノアを見る。
「夫人」
呼ばれて、喉が少し詰まる。
「はい」
「北棟の戻しは、お前が見るか」
一瞬だけ、返事に迷う。
見たい。
だがここで感情のままにうなずけば、浮かれるように見える。
けれどヴィクトルは待っている。
逃げるほうが不自然だった。
「……見ます」
「なら見ろ」
「はい」
それで終わりだった。
飾る言葉も、持ち上げる言葉もない。
けれど十分すぎた。
広間は解かれた。
人はすぐには動かない。皆、今の言葉の重さをまだそれぞれの中で飲み込んでいる顔だった。やがて老家令が帳場の男へ指示を出し、アグネスが女中たちを呼び、薪運びの下男が走り出す。
秩序が、本当に切り替わったのだ。
エレノアが一歩動こうとした時、視界の端でオズウィンが立ち去るのが見えた。誰もついていかない。もう彼の後ろには部下がいない。
それでも背中は折れていない。
その姿を見て、エレノアの胸には複雑なものが残った。ざまあだと、単純には思えない。憎んでいたのは事実だ。けれどあの男は、本気で北辺を守ろうとしていた。ただ、その守り方が、ここでは越えてはならない線を越えた。
「奥方様」
振り向くと、アグネスだった。
いつも通りきびきびしている。だがその目の色だけが少し違う。
「北棟へ参ります」
「ええ」
「ご一緒ください」
その言い方に、もう拒絶の棘はなかった。
エレノアは頷く。
広間を出る時、通りの脇にいた下働きの娘たちが一斉に頭を下げた。その中にミアもいる。だが前みたいな怯えた頭の下げ方ではない。まだぎこちないが、視線の落とし方が少し変わっていた。
北棟へ向かう廊下は冷えているのに、手の内だけが妙に熱い。
夫人を差し置くな。
夫人の指示で動かす。
その言葉が何度も耳へ戻る。
王都では、公の場で自分の位置を言葉にされることなどなかった。奪われる時も、外される時も、いつも曖昧に処理された。
ここでは違う。
切る時も、置く時も、言葉にする。
それが痛くて、強い。
アグネスが隣で短く言う。
「角二部屋から戻しましょう」
「ええ」
「中ほどの見回り刻は、今夜から正式に組み替えます」
「はい」
「……奥方様」
「なに」
「さきほどは」
そこで、アグネスは少し言葉を探した。
「ありがとうございました、とは申しません」
思わず、エレノアは瞬いた。
「言わないの?」
「言うと、今後もまた無茶をなさりそうです」
「そんな」
「なさるでしょう」
「……たぶん」
「本当に、それをやめてください」
けれどその声には、もう冷たさだけはなかった。
エレノアは少し口元を緩める。
北棟の角を曲がると、洗濯場の庇が見えた。空箱だった予備箱には、もう半分ほど薪が戻されている。年上の女中が札を結び直しているところだった。
現場の火は消えていない。
秩序も、まだ間に合う。
エレノアは箱の前で立ち止まり、そっと木の縁へ触れた。
冷たい。
けれど、空ではなかった。




