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婚約者も功績も妹に奪われた私は、死ぬと噂の北辺公爵に嫁ぐことになりました 〜愛のない結婚のはずが、冷酷な夫は私を手放してくれない〜  作者: 師走
第7章 私を信じて

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29話

南旧庫の鍵が開いた時、中から出たのは冷えた空気だけではなかった。


古い木と、乾いた布と、しばらく動かされていない箱の匂い。その中へ、見覚えのある結び紐がいくつも混じっている。


エレノアは戸口で足を止めた。


「……多い」


思わずこぼれる。


北棟の予備だけが一つ二つ紛れているのではない。南旧庫の壁際に、夫人まわりの結び紐がついた箱や布束が、まとめて寄せられていた。しかも奥の使いにくい場所へ押し込まれている。


アグネスが眉を寄せる。


「こんなに」

オズウィンはすぐに言う。

「一時的な所在整理かもしれません」

「所在整理で、北の予備を南の奥へ?」

エレノアが聞くと、

「回しをまとめた可能性はあります」

と平らに返された。


ヴィクトルは何も言わない。


その代わり、入口のところで腕を組んだまま中を見ている。急がせも、口出しもしない。ただ、誰が何を見るかを見ている目だった。


エレノアは一番手前の箱へしゃがみ込む。


一つ結びの紐。

結び目は新しい。だが箱の木肌には細かい粉がついている。北棟の予備箱につく灰ではない。帳場や旧庫の乾いた埃に近い。


ふたを開ける。


中には太薪が入っていた。数は合っている。けれど長さが揃いすぎている。北棟へ回す時の割り方ではなく、南旧庫の保管用に一括で揃えた長さだ。


「これ、北箱の補充分ではないわ」

アグネスが横から覗き込み、

「ええ」

と低く言う。

「北へ出す分は、角部屋用と中ほど用で割り方を少し変えます。こんなふうに全部同じ長さにはしません」


オズウィンが言う。


「箱へ入れ直したのでしょう」

「なら、なおさら変です」

エレノアは顔を上げた。

「入れ直したなら、中の長さを揃える意味がないもの。必要なのは数でしょう」

「……」

「これは最初から南旧庫の薪です。紐だけ後からつけた」


ハリスが青い顔で立ったまま、喉を鳴らした。


エレノアは次に、二つ結びのついた布束へ手を伸ばす。


開いてみると、入っているのは厚布ではなく、客間用の古い敷布だった。使えなくはないが、北棟の冷えへ回すものではない。


アグネスの声がさらに低くなる。


「誰がこんな」

「印だけ見れば、北棟へ回す布に見えます」

エレノアは布束を見下ろしたまま言う。

「でも中身は違う。しかも、わざと気づきにくい程度に似せてある」


ヴィクトルがそこで初めて口を開く。


「夫人」

呼ばれて、エレノアは顔を上げた。

「続けろ」


その一言で、足元が静かに定まる。


エレノアは南旧庫の中を見渡した。


箱の並び、通路の幅、押し込まれた布束の位置。誰かが慌てて隠したのではない。最初から、ここへ来る者がすぐには触れないように置いてある。


「導線がおかしいの」

「導線?」

とアグネス。

「ええ。北棟の予備を本当に移すなら、手前に置くはずよ。夜番が取りに来るなら、すぐ持ち出せるように」

エレノアは一番奥の箱を指した。

「でもこれは、南旧庫の奥。しかも客間用の古布の裏」

「取り出しにくくしてある」

アグネスが呟く。

「そう。回すためじゃなく、見つかりにくくするための置き方です」


オズウィンが冷たく言う。


「夫人のお言葉だけでは、まだ」

「言葉だけではありません」


エレノアは箱のそばに落ちていた端布を拾った。


帳場布だ。

しかも、角がきれいに裂かれている。縫い場や洗濯場の端切れなら、こんな裂き方にはならない。


「印の紐は帳場布から取ってある」

「誰でも帳場布は触れます」

「でも、夫人の印の意味を知っていて、帳場布で似せ、南旧庫の薪と布を詰め替え、夜番へは“夫人案”の覚え書きを回した」


そこで一拍置く。


「現場の回しを知らないと、ここまで雑に混ぜられません」

アグネスがすぐ続けた。

「ええ。私のところを通っていない時点で、現場の手順ではない」

「ですが現場を知る者の仕業でもある」

ヴィクトルが言う。


エレノアは頷いた。


「だから、夫人の印だけ知っている外の者では無理です」

「……」

「でも、現場の細かい運用までは知らない者なら、こうなる」


オズウィンの目がかすかに細くなる。


「副家令」


ヴィクトルが呼ぶ。

その声に、南旧庫の空気がぴんと張る。


「はい」

「北棟の試し運用が始まってから、印の意味と導線が誰まで下りていた」

「女中頭、夜番、薪運びの一部、帳場補助」

「それだけか」

「……はい」

「帳場補助へは誰が」

「私が下ろしました」


静かな声だった。


それ自体はおかしくない。運用が変われば、帳場にも伝える必要があるからだ。


エレノアはその言葉を待っていたみたいに、ゆっくり聞く。


「では、副家令は北棟の試し運用の中身も、南旧庫の位置も、帳場の布も、全部ご存じだったのですね」

オズウィンがこちらを見る。

「当然です。実務を預かっておりますから」

「覚え書きを見たことは」

「ありません」

「では、見てもいない覚え書きが、なぜ“夫人案ならあり得る変更”だと判断できたのですか」


オズウィンの表情が、初めてほんの少し止まった。


ハリスがぎくりと顔を上げる。


エレノアは続ける。


「北箱を空けるな、南旧庫へ回せ、印の使い方を変える――それを聞いて、現場を知る者ならすぐ確認に走るはずです」

「……」

「でも帳場補助は、何の疑いもなく夜番へ流した」

ハリスが慌てて言う。

「副家令様のところから下りた話なら、私は」

途中で口を閉じ、青ざめる。


オズウィンの視線が冷たく落ちたからだ。


けれど、もう遅い。


ハリスは震える声で言い直す。

「いつも、副家令様から運用変更が来る時は、先に帳場へ一言あるので……」

「今回は?」

とヴィクトル。

「その、机にあった覚え書きの文言が、副家令様の言い回しに、少し……」

「ハリス」

オズウィンが低く呼ぶ。

だがヴィクトルが先に遮る。

「続けろ」

「に、似ていたので」


南旧庫がひどく静かになる。


エレノアは箱の中の同じ長さの薪を見た。

夫人の印を使い、北箱を空にし、朝に混乱させ、現場で「南の奥方の変更は危うい」と証明する。

そういう形を作ろうとしたのだと、今ならはっきり見える。


アグネスが絞るように言う。


「北棟を危うくしてまで」

オズウィンは表情を崩さない。

「危うくしたのではありません。実際に落ちた者は」

「出るところでした」

エレノアが切る。

「今朝、冷え込みが半刻早ければ」


オズウィンの目がまっすぐ向く。

冷たい目だ。けれど開き直った小物の顔ではない。むしろ、ここまで来てもまだ自分が間違っていないと信じている顔だった。


「南の奥方に現場を預ける危うさを示す必要があると思いました」

ハリスが息を呑む。

アグネスの指が強く握られる。

オズウィンは続ける。

「北辺は試しの失敗に付き合える土地ではありません」

「だから現場を賭けに使ったのですか」

エレノアが聞く。

「賭けではありません。戻せる範囲に留めました」

「戻す前に、冷える者が出ても?」

「その程度で崩れる運用なら、いずれ同じです」


その一言で、心臓が冷たく鳴った。


オズウィンにとっては本気なのだ。

悪意で壊したのではない。自分が守るべきものを守るために、夫人の運用を折る必要があると信じていた。


だから余計に厄介だった。


ヴィクトルが、ひどく静かな声で言う。


「そこまでだ」


誰も動かない。


ヴィクトルは南旧庫へ一歩入った。

視線はオズウィンから逸れない。


「夫人を疑わせる形を作り、現場を混乱させ、北棟を冷やした」

「公爵様、私は北辺を」

「北辺を守るためにか」

オズウィンは口を閉じた。

「ならなおさら、人を賭けに使うな」


その声は低い。だが重かった。


オズウィンの表情が、そこで初めて少し揺れた。


エレノアは息を吐く。


まだ終わってはいない。

けれど、真相はもう見えた。


箱の中の偽りの中身も、回しにくい導線も、夫人の印も。

全部が、ようやく一つにつながった。


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