29話
南旧庫の鍵が開いた時、中から出たのは冷えた空気だけではなかった。
古い木と、乾いた布と、しばらく動かされていない箱の匂い。その中へ、見覚えのある結び紐がいくつも混じっている。
エレノアは戸口で足を止めた。
「……多い」
思わずこぼれる。
北棟の予備だけが一つ二つ紛れているのではない。南旧庫の壁際に、夫人まわりの結び紐がついた箱や布束が、まとめて寄せられていた。しかも奥の使いにくい場所へ押し込まれている。
アグネスが眉を寄せる。
「こんなに」
オズウィンはすぐに言う。
「一時的な所在整理かもしれません」
「所在整理で、北の予備を南の奥へ?」
エレノアが聞くと、
「回しをまとめた可能性はあります」
と平らに返された。
ヴィクトルは何も言わない。
その代わり、入口のところで腕を組んだまま中を見ている。急がせも、口出しもしない。ただ、誰が何を見るかを見ている目だった。
エレノアは一番手前の箱へしゃがみ込む。
一つ結びの紐。
結び目は新しい。だが箱の木肌には細かい粉がついている。北棟の予備箱につく灰ではない。帳場や旧庫の乾いた埃に近い。
ふたを開ける。
中には太薪が入っていた。数は合っている。けれど長さが揃いすぎている。北棟へ回す時の割り方ではなく、南旧庫の保管用に一括で揃えた長さだ。
「これ、北箱の補充分ではないわ」
アグネスが横から覗き込み、
「ええ」
と低く言う。
「北へ出す分は、角部屋用と中ほど用で割り方を少し変えます。こんなふうに全部同じ長さにはしません」
オズウィンが言う。
「箱へ入れ直したのでしょう」
「なら、なおさら変です」
エレノアは顔を上げた。
「入れ直したなら、中の長さを揃える意味がないもの。必要なのは数でしょう」
「……」
「これは最初から南旧庫の薪です。紐だけ後からつけた」
ハリスが青い顔で立ったまま、喉を鳴らした。
エレノアは次に、二つ結びのついた布束へ手を伸ばす。
開いてみると、入っているのは厚布ではなく、客間用の古い敷布だった。使えなくはないが、北棟の冷えへ回すものではない。
アグネスの声がさらに低くなる。
「誰がこんな」
「印だけ見れば、北棟へ回す布に見えます」
エレノアは布束を見下ろしたまま言う。
「でも中身は違う。しかも、わざと気づきにくい程度に似せてある」
ヴィクトルがそこで初めて口を開く。
「夫人」
呼ばれて、エレノアは顔を上げた。
「続けろ」
その一言で、足元が静かに定まる。
エレノアは南旧庫の中を見渡した。
箱の並び、通路の幅、押し込まれた布束の位置。誰かが慌てて隠したのではない。最初から、ここへ来る者がすぐには触れないように置いてある。
「導線がおかしいの」
「導線?」
とアグネス。
「ええ。北棟の予備を本当に移すなら、手前に置くはずよ。夜番が取りに来るなら、すぐ持ち出せるように」
エレノアは一番奥の箱を指した。
「でもこれは、南旧庫の奥。しかも客間用の古布の裏」
「取り出しにくくしてある」
アグネスが呟く。
「そう。回すためじゃなく、見つかりにくくするための置き方です」
オズウィンが冷たく言う。
「夫人のお言葉だけでは、まだ」
「言葉だけではありません」
エレノアは箱のそばに落ちていた端布を拾った。
帳場布だ。
しかも、角がきれいに裂かれている。縫い場や洗濯場の端切れなら、こんな裂き方にはならない。
「印の紐は帳場布から取ってある」
「誰でも帳場布は触れます」
「でも、夫人の印の意味を知っていて、帳場布で似せ、南旧庫の薪と布を詰め替え、夜番へは“夫人案”の覚え書きを回した」
そこで一拍置く。
「現場の回しを知らないと、ここまで雑に混ぜられません」
アグネスがすぐ続けた。
「ええ。私のところを通っていない時点で、現場の手順ではない」
「ですが現場を知る者の仕業でもある」
ヴィクトルが言う。
エレノアは頷いた。
「だから、夫人の印だけ知っている外の者では無理です」
「……」
「でも、現場の細かい運用までは知らない者なら、こうなる」
オズウィンの目がかすかに細くなる。
「副家令」
ヴィクトルが呼ぶ。
その声に、南旧庫の空気がぴんと張る。
「はい」
「北棟の試し運用が始まってから、印の意味と導線が誰まで下りていた」
「女中頭、夜番、薪運びの一部、帳場補助」
「それだけか」
「……はい」
「帳場補助へは誰が」
「私が下ろしました」
静かな声だった。
それ自体はおかしくない。運用が変われば、帳場にも伝える必要があるからだ。
エレノアはその言葉を待っていたみたいに、ゆっくり聞く。
「では、副家令は北棟の試し運用の中身も、南旧庫の位置も、帳場の布も、全部ご存じだったのですね」
オズウィンがこちらを見る。
「当然です。実務を預かっておりますから」
「覚え書きを見たことは」
「ありません」
「では、見てもいない覚え書きが、なぜ“夫人案ならあり得る変更”だと判断できたのですか」
オズウィンの表情が、初めてほんの少し止まった。
ハリスがぎくりと顔を上げる。
エレノアは続ける。
「北箱を空けるな、南旧庫へ回せ、印の使い方を変える――それを聞いて、現場を知る者ならすぐ確認に走るはずです」
「……」
「でも帳場補助は、何の疑いもなく夜番へ流した」
ハリスが慌てて言う。
「副家令様のところから下りた話なら、私は」
途中で口を閉じ、青ざめる。
オズウィンの視線が冷たく落ちたからだ。
けれど、もう遅い。
ハリスは震える声で言い直す。
「いつも、副家令様から運用変更が来る時は、先に帳場へ一言あるので……」
「今回は?」
とヴィクトル。
「その、机にあった覚え書きの文言が、副家令様の言い回しに、少し……」
「ハリス」
オズウィンが低く呼ぶ。
だがヴィクトルが先に遮る。
「続けろ」
「に、似ていたので」
南旧庫がひどく静かになる。
エレノアは箱の中の同じ長さの薪を見た。
夫人の印を使い、北箱を空にし、朝に混乱させ、現場で「南の奥方の変更は危うい」と証明する。
そういう形を作ろうとしたのだと、今ならはっきり見える。
アグネスが絞るように言う。
「北棟を危うくしてまで」
オズウィンは表情を崩さない。
「危うくしたのではありません。実際に落ちた者は」
「出るところでした」
エレノアが切る。
「今朝、冷え込みが半刻早ければ」
オズウィンの目がまっすぐ向く。
冷たい目だ。けれど開き直った小物の顔ではない。むしろ、ここまで来てもまだ自分が間違っていないと信じている顔だった。
「南の奥方に現場を預ける危うさを示す必要があると思いました」
ハリスが息を呑む。
アグネスの指が強く握られる。
オズウィンは続ける。
「北辺は試しの失敗に付き合える土地ではありません」
「だから現場を賭けに使ったのですか」
エレノアが聞く。
「賭けではありません。戻せる範囲に留めました」
「戻す前に、冷える者が出ても?」
「その程度で崩れる運用なら、いずれ同じです」
その一言で、心臓が冷たく鳴った。
オズウィンにとっては本気なのだ。
悪意で壊したのではない。自分が守るべきものを守るために、夫人の運用を折る必要があると信じていた。
だから余計に厄介だった。
ヴィクトルが、ひどく静かな声で言う。
「そこまでだ」
誰も動かない。
ヴィクトルは南旧庫へ一歩入った。
視線はオズウィンから逸れない。
「夫人を疑わせる形を作り、現場を混乱させ、北棟を冷やした」
「公爵様、私は北辺を」
「北辺を守るためにか」
オズウィンは口を閉じた。
「ならなおさら、人を賭けに使うな」
その声は低い。だが重かった。
オズウィンの表情が、そこで初めて少し揺れた。
エレノアは息を吐く。
まだ終わってはいない。
けれど、真相はもう見えた。
箱の中の偽りの中身も、回しにくい導線も、夫人の印も。
全部が、ようやく一つにつながった。




