第28話
ヴィクトルがどう見るのか、それだけが急に怖くなった。
庇の下の空気は凍ったように静まり返っている。風の音だけが外で鳴り、空になった予備箱の口が、ひどく白く見えた。
ヴィクトルはすぐには何も言わなかった。
空箱、帳場布、結び紐、ハリスの青ざめた顔。最後に、エレノアへ視線が止まる。
「お前は」
短い声だった。
エレノアは喉の渇きを飲み込む。
「知りません」
「指示したか」
「していません」
「覚え書きも」
「見ていません」
それだけ答えて、もう言葉が続かない。
言い訳めいたことを重ねても、今は弱い。札は自分のものだし、現場の運用を変えたのも事実だからだ。違うと言うしかないのに、その「違う」だけがひどく軽く感じる。
ヴィクトルはしばらくエレノアを見ていたが、やがてオズウィンへ向き直った。
「今、足りないのは何だ」
「北棟の予備です。厚布と太薪が」
「どこへずれた」
「南旧庫へ回された形跡が」
「形跡ではない。今使えるものはどこにある」
オズウィンが一瞬だけ言葉に詰まる。
「……南旧庫と、西棟側の余り箱です」
「数は」
「角二部屋を持たせるだけなら足ります」
「中ほどは」
「見回りの順を変えれば」
そこまで聞くと、ヴィクトルはあっさりと言った。
「なら、その形で戻せ」
アグネスが顔を上げる。
オズウィンも、ハリスも、洗濯場の娘たちも息を止めた。
「公爵様」
とオズウィンが口を開く。
「この件は、夫人まわりの印が使われ」
「聞いた」
ヴィクトルの声は低い。
「証明は後だ」
「ですが」
「今は冷やすな」
一言ごとに、場の空気が締まる。
ヴィクトルは箱の脇へ一歩出た。
「夫人」
呼ばれて、エレノアは反射で顔を上げた。
「北棟をどう戻す」
「……え」
「聞こえなかったか」
その声に、心臓が強く鳴る。
証明の前に。
疑いが晴れる前に。
それでも、判断を求められている。
エレノアは一瞬だけ目を閉じた。頭の中で、箱の中身、南旧庫、角二部屋、中ほどの見回りがつながる。
「角二部屋へは、昨日までと同じ厚みで戻します」
声が思ったより落ち着いていた。
「南旧庫から厚布を二枚ずつ。太薪は一箱につき二本」
「中ほどは」
「今夜だけ、南棟の最後の見回りを北中ほどへ先にずらして。火が落ちきる前に一度足せば持ちます」
「洗濯場の予備は」
「空箱のままにしないで。細薪だけでも半分戻しておきたいです。見た目でも空だと、夜番が迷います」
ヴィクトルは頷く。
「その通りに」
「公爵様」
オズウィンの声が少し強くなる。
「まだ、この件が本当に夫人と無関係かは」
「だから何だ」
切るような返しだった。
オズウィンが口を閉じる。
ヴィクトルは視線を動かさない。
「夫人の印が使われた」
「はい」
「夫人の名前が覚え書きに書かれた」
「はい」
「それで、夫人を差し置いて勝手に回すのか」
その一言が、庇の下へ重く落ちた。
アグネスの背筋がすっと伸びる。
洗濯場の娘たちは、顔を上げることもできずに固まっている。
ヴィクトルはさらに続ける。
「証明が済むまで夫人を外せば、それこそ夫人の指示で回したと認める形になる」
「……」
「違うというなら、違う形で戻せ」
「それは」
「夫人の指示で動かせ」
オズウィンの顔色がかすかに変わる。
はっきりした命令だった。
しかも、人前で。
証明の前に。
夫人側へ立つと、誰にでも分かる形で。
ヴィクトルはアグネスを見る。
「女中頭」
「はい」
「北棟は夫人の指示を通せ」
「承知しました」
返事は迷わなかった。
次にオズウィンへ目を向ける。
「南旧庫と西棟余り箱の鍵を開けろ」
「……承知いたしました」
「帳場布と覚え書きはそのまま保全。勝手に触らせるな」
「はい」
「ハリス」
「は、はいっ」
「お前は今から机を離れるな。昨夜から今朝までの帳場の出入りを全部書け」
「は、はい」
命令が落ちるたび、人が動く。
それはいつものことだ。なのに今日は違って見えた。ヴィクトルの一言が、あからさまにエレノアを屋敷の秩序の内側へ置いたからだ。
アグネスが箱の前へ来る。
「奥方様」
「ええ」
「角二部屋からでよろしいですね」
「はい。中ほどは夜番の順を先に変えます。空箱は半端でも戻して」
「承知しました」
今度の「承知しました」は、ただの形式ではなかった。
エレノアは箱の縁へ手を置いたまま、少し息を整える。まだ何も解決していない。無実も証明されていない。けれど、冷えたまま見られていた空気だけは変わった。
その時、洗濯場の娘の一人が小さく言った。
「奥方様、南旧庫へはどちらから」
すぐに自分でしまった、という顔になる。
けれどヴィクトルの前だからだろう、誰もその問いを咎めなかった。
エレノアは答える。
「表の回廊は通らないで。裏の石段から運んだほうが早いわ。角二部屋の分だけ先に」
「はい」
娘は走っていく。
アグネスもすぐ女中二人を連れて動き出す。オズウィンは一瞬だけ箱とエレノアを見たが、何も言わず南旧庫の鍵束を取りに向かった。
人が散ったあと、庇の下にはエレノアとヴィクトルだけが少し取り残された。
風が冷たい。
けれど、さっきまでとは別の冷たさだ。
エレノアはようやく顔を上げた。
「……公爵様」
「何だ」
「まだ、私だと疑われています」
「だろうな」
「それでも」
言葉がつかえる。
どう言えばいいのか分からない。助けてくれた、では違う気がする。庇った、でも少し違う。彼は感情で自分側に立ったのではない。屋敷の主として、秩序が崩れない形を選んだ。その結果が、たまたま自分を信じる形だっただけだ。
ヴィクトルはそんなこちらの戸惑いを見ていたのか、低く言う。
「証明が済む前に夫人を外す気はない」
「……」
「それだけだ」
「でも、私が本当に」
「お前なら、もっと面倒のないやり方をする」
思わず息が止まる。
アグネスの言葉を、そのままここで使うとは思わなかった。
ヴィクトルは視線をそらさない。
「違うか」
エレノアは、ほんの少し口元を緩めた。
「違いません」
「ならそれで十分だ」
十分。
その二文字だけで、詰めていた息が少しほどける。
ヴィクトルは庇の外へ目をやった。
「戻せるものを先に戻す」
「はい」
「証明はそのあとだ」
「……はい」
返事をした時には、声が少し深くなっていた。
ヴィクトルはそれ以上何も言わず、先に歩き出す。だが二歩で止まり、振り返らないまま言った。
「夫人」
呼ばれて、エレノアは足を止める。
「勝手に一人で辿るな」
「……」
「見つけた違和感は、言え」
「はい」
「今度は聞く」
そう残して、ヴィクトルは庇の向こうへ消えた。
エレノアはその背を見送りながら、しばらく動けなかった。
今度は聞く。
たったそれだけなのに、掌の冷えが少し引く。
庇の外では、人がもう動き始めている。南旧庫へ走る足音、鍵の鳴る音、厚布を抱える女中たちの声。北棟の冷えを、まず戻す。その流れの中心に、自分の指示が混ざっている。
疑いはまだ晴れていない。
それでも、夫人を差し置くなと、この屋敷の主が言った。
その事実だけが、今は何より強かった。




