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婚約者も功績も妹に奪われた私は、死ぬと噂の北辺公爵に嫁ぐことになりました 〜愛のない結婚のはずが、冷酷な夫は私を手放してくれない〜  作者: 師走
第7章 私を信じて

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第28話

ヴィクトルがどう見るのか、それだけが急に怖くなった。


庇の下の空気は凍ったように静まり返っている。風の音だけが外で鳴り、空になった予備箱の口が、ひどく白く見えた。


ヴィクトルはすぐには何も言わなかった。


空箱、帳場布、結び紐、ハリスの青ざめた顔。最後に、エレノアへ視線が止まる。


「お前は」


短い声だった。


エレノアは喉の渇きを飲み込む。


「知りません」

「指示したか」

「していません」

「覚え書きも」

「見ていません」


それだけ答えて、もう言葉が続かない。


言い訳めいたことを重ねても、今は弱い。札は自分のものだし、現場の運用を変えたのも事実だからだ。違うと言うしかないのに、その「違う」だけがひどく軽く感じる。


ヴィクトルはしばらくエレノアを見ていたが、やがてオズウィンへ向き直った。


「今、足りないのは何だ」

「北棟の予備です。厚布と太薪が」

「どこへずれた」

「南旧庫へ回された形跡が」

「形跡ではない。今使えるものはどこにある」


オズウィンが一瞬だけ言葉に詰まる。


「……南旧庫と、西棟側の余り箱です」

「数は」

「角二部屋を持たせるだけなら足ります」

「中ほどは」

「見回りの順を変えれば」


そこまで聞くと、ヴィクトルはあっさりと言った。


「なら、その形で戻せ」


アグネスが顔を上げる。

オズウィンも、ハリスも、洗濯場の娘たちも息を止めた。


「公爵様」

とオズウィンが口を開く。

「この件は、夫人まわりの印が使われ」

「聞いた」


ヴィクトルの声は低い。


「証明は後だ」

「ですが」

「今は冷やすな」


一言ごとに、場の空気が締まる。


ヴィクトルは箱の脇へ一歩出た。


「夫人」


呼ばれて、エレノアは反射で顔を上げた。


「北棟をどう戻す」

「……え」

「聞こえなかったか」


その声に、心臓が強く鳴る。


証明の前に。

疑いが晴れる前に。

それでも、判断を求められている。


エレノアは一瞬だけ目を閉じた。頭の中で、箱の中身、南旧庫、角二部屋、中ほどの見回りがつながる。


「角二部屋へは、昨日までと同じ厚みで戻します」

声が思ったより落ち着いていた。

「南旧庫から厚布を二枚ずつ。太薪は一箱につき二本」

「中ほどは」

「今夜だけ、南棟の最後の見回りを北中ほどへ先にずらして。火が落ちきる前に一度足せば持ちます」

「洗濯場の予備は」

「空箱のままにしないで。細薪だけでも半分戻しておきたいです。見た目でも空だと、夜番が迷います」


ヴィクトルは頷く。


「その通りに」

「公爵様」


オズウィンの声が少し強くなる。


「まだ、この件が本当に夫人と無関係かは」

「だから何だ」


切るような返しだった。


オズウィンが口を閉じる。


ヴィクトルは視線を動かさない。


「夫人の印が使われた」

「はい」

「夫人の名前が覚え書きに書かれた」

「はい」

「それで、夫人を差し置いて勝手に回すのか」


その一言が、庇の下へ重く落ちた。


アグネスの背筋がすっと伸びる。

洗濯場の娘たちは、顔を上げることもできずに固まっている。


ヴィクトルはさらに続ける。


「証明が済むまで夫人を外せば、それこそ夫人の指示で回したと認める形になる」

「……」

「違うというなら、違う形で戻せ」

「それは」

「夫人の指示で動かせ」


オズウィンの顔色がかすかに変わる。


はっきりした命令だった。


しかも、人前で。

証明の前に。

夫人側へ立つと、誰にでも分かる形で。


ヴィクトルはアグネスを見る。


「女中頭」

「はい」

「北棟は夫人の指示を通せ」

「承知しました」

返事は迷わなかった。


次にオズウィンへ目を向ける。


「南旧庫と西棟余り箱の鍵を開けろ」

「……承知いたしました」

「帳場布と覚え書きはそのまま保全。勝手に触らせるな」

「はい」

「ハリス」

「は、はいっ」

「お前は今から机を離れるな。昨夜から今朝までの帳場の出入りを全部書け」

「は、はい」


命令が落ちるたび、人が動く。


それはいつものことだ。なのに今日は違って見えた。ヴィクトルの一言が、あからさまにエレノアを屋敷の秩序の内側へ置いたからだ。


アグネスが箱の前へ来る。


「奥方様」

「ええ」

「角二部屋からでよろしいですね」

「はい。中ほどは夜番の順を先に変えます。空箱は半端でも戻して」

「承知しました」


今度の「承知しました」は、ただの形式ではなかった。


エレノアは箱の縁へ手を置いたまま、少し息を整える。まだ何も解決していない。無実も証明されていない。けれど、冷えたまま見られていた空気だけは変わった。


その時、洗濯場の娘の一人が小さく言った。


「奥方様、南旧庫へはどちらから」

すぐに自分でしまった、という顔になる。


けれどヴィクトルの前だからだろう、誰もその問いを咎めなかった。


エレノアは答える。


「表の回廊は通らないで。裏の石段から運んだほうが早いわ。角二部屋の分だけ先に」

「はい」


娘は走っていく。


アグネスもすぐ女中二人を連れて動き出す。オズウィンは一瞬だけ箱とエレノアを見たが、何も言わず南旧庫の鍵束を取りに向かった。


人が散ったあと、庇の下にはエレノアとヴィクトルだけが少し取り残された。


風が冷たい。

けれど、さっきまでとは別の冷たさだ。


エレノアはようやく顔を上げた。


「……公爵様」

「何だ」

「まだ、私だと疑われています」

「だろうな」

「それでも」


言葉がつかえる。


どう言えばいいのか分からない。助けてくれた、では違う気がする。庇った、でも少し違う。彼は感情で自分側に立ったのではない。屋敷の主として、秩序が崩れない形を選んだ。その結果が、たまたま自分を信じる形だっただけだ。


ヴィクトルはそんなこちらの戸惑いを見ていたのか、低く言う。


「証明が済む前に夫人を外す気はない」

「……」

「それだけだ」

「でも、私が本当に」

「お前なら、もっと面倒のないやり方をする」


思わず息が止まる。


アグネスの言葉を、そのままここで使うとは思わなかった。


ヴィクトルは視線をそらさない。


「違うか」

エレノアは、ほんの少し口元を緩めた。

「違いません」

「ならそれで十分だ」


十分。


その二文字だけで、詰めていた息が少しほどける。


ヴィクトルは庇の外へ目をやった。


「戻せるものを先に戻す」

「はい」

「証明はそのあとだ」

「……はい」


返事をした時には、声が少し深くなっていた。


ヴィクトルはそれ以上何も言わず、先に歩き出す。だが二歩で止まり、振り返らないまま言った。


「夫人」


呼ばれて、エレノアは足を止める。


「勝手に一人で辿るな」

「……」

「見つけた違和感は、言え」

「はい」

「今度は聞く」


そう残して、ヴィクトルは庇の向こうへ消えた。


エレノアはその背を見送りながら、しばらく動けなかった。


今度は聞く。


たったそれだけなのに、掌の冷えが少し引く。


庇の外では、人がもう動き始めている。南旧庫へ走る足音、鍵の鳴る音、厚布を抱える女中たちの声。北棟の冷えを、まず戻す。その流れの中心に、自分の指示が混ざっている。


疑いはまだ晴れていない。

それでも、夫人を差し置くなと、この屋敷の主が言った。


その事実だけが、今は何より強かった。

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