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婚約者も功績も妹に奪われた私は、死ぬと噂の北辺公爵に嫁ぐことになりました 〜愛のない結婚のはずが、冷酷な夫は私を手放してくれない〜  作者: 師走
第7章 私を信じて

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第27話

ロブが連れてこられたのは、そう時間を置かずだった。


まだ若い下男で、薪運びの途中だったのだろう。肩に木の粉がついたまま、青い顔で庇の下へ入ってくる。空になった予備箱と、集まった顔ぶれを見た瞬間、喉が鳴るのが分かった。


「ロブ」


オズウィンの声は平坦だった。


「昨夜、北洗濯場脇の予備について何を聞いた」

「……え」

「そのまま答えろ」

「は、はい」


ロブは一度、エレノアのほうを見た。すぐに目を伏せる。


「北箱は空けなくていいと」

「誰が言った」

「夜の引き継ぎで……」

「名前を」


オズウィンが重ねる。


ロブは唾を飲み込んだ。


「帳場の補助にいる、ハリスが」

「ハリス」

「はい。今日から南旧庫のほうへ回すって。北箱の札はそのままでいい、でも中身は……その、移してあるからと」


庇の下の空気が少し重くなる。


アグネスが低く聞く。


「なぜ、そのようなことを」

「夫人の印の使い方を変えるからって」

ロブの声はどんどん小さくなる。

「北棟の回しを、今夜から組み直すと……」


エレノアの指先に力が入った。


夫人の印。

使い方を変える。

今夜から組み直す。


全部、自分に結びつく言葉だった。


「誰がそう言ったの」

思わず問い返す。

ロブはびくりと肩を跳ねさせた。

「ハ、ハリスです」

「私の口から聞いたと?」

「いえ、そこまでは……でも、帳場からの回しだからと」

「帳場から」

オズウィンが繰り返す。


その一言で、筋が通って見えてしまう。


夫人が現場に口を出すようになった。

印も夫人まわりの工夫だと知られている。

その印の使い方が変わると、帳場の補助役が夜番へ伝えた。

結果、北箱は空になり、必要な時に使えなかった。


全部が自然につながってしまう。


アグネスは箱の縁へ手を置いたまま、動かなかった。


「奥方様」

その声は固い。

「帳場へそのような話を通されましたか」

「していません」

「一度も」

「ええ」

「ハリスという補助へ、印の意味を伝えた覚えは」

「ありません」


言い切る。

けれど、言葉だけだ。


オズウィンがロブへ向き直る。


「ハリスは、誰から聞いたと言った」

「そ、それは……」

「言え」

「女中頭と夫人のところで決まったって」


今度は、息を呑む音がはっきり聞こえた。


洗濯場の娘たちが一斉に目を伏せる。年上の女中も、手にした鍵を握る指が強張っていた。


アグネスの顔色が変わる。


「私はそんな話を通していません」

「ですが、現場ではそう伝わっている」


オズウィンの声はあくまで冷静だ。


「女中頭が知らず、夫人も知らない。なら、誰が帳場へそう伝えたのです」

「……」

「印の意味を知り、北箱と南旧庫の位置を知る者でなければできない」


一つずつ積まれる言葉が、じわじわと首を締められていく。


エレノアはロブを見た。


怯えている。嘘をついている顔には見えない。ただ、聞いたことをそのまま持ってきているだけの顔だ。だから厄介だった。


嘘なら、どこかで綻びが出る。

だがこれは違う。途中までは本当なのだ。札もある。北棟の回しを変えたのも事実。帳場の補助にまで印の話が届いていても、おかしくはない。


少し手を滑らせれば、自分が動かしたように見える。


オズウィンが静かに言う。


「ハリスを呼べ」

「はい!」


少年がまた走っていく。


その背を見送りながら、アグネスが絞るように言った。


「奥方様がなさったとは、私はまだ申し上げておりません」

「ですが、状況はそう見えます」

オズウィンはあっさり返す。

「夫人まわりの印で、夫人まわりの変更が、帳場を経て現場へ下りた」

「それでも中身の切り方が南旧庫のものです」

「それが、夫人の指示で誰かが移したのであれば、矛盾はありません」


エレノアは唇を噛みそうになるのをこらえた。


反論したい。けれど決定打がない。


「私がやるなら」


気づけば、口が開いていた。


全員の視線が集まる。


エレノアは箱の中へ指を向ける。


「こんなやり方はしません」

「……」

「印だけ残して中身を変えたら、現場が混乱するのは分かるでしょう」

「それは夫人がうっかりした可能性もあります」

オズウィンの返しは容赦がない。

「現場の運用に、まだ慣れておられないのですから」

「うっかりで予備箱を空にするほど馬鹿ではありません」


言ってから、庇の下が一段冷えた。


アグネスの目がかすかに見開かれる。

ロブはますます顔を青くした。


オズウィンだけが表情を変えない。


「そうでしょうか」

「ええ」

「では、奥方様はこの箱の中身を、昨夜の終わりに正しく把握していたと?」

「……」

「そこまで把握していたのなら、なぜ朝まで気づかなかったのです」


息が詰まる。


そこを突かれると苦しい。

エレノアは毎晩、全部の予備箱を見て回っていたわけではない。北棟すべての変化を逐一追う権限も、持ち場も、まだない。


けれどそれは、この場では弱い。


「私は」

言葉が続かない。

「全部を見て回る立場ではありません」

「ですが印は夫人のものだ」


オズウィンの声は静かだ。

「現場は、その印がある限り夫人まわりの判断と見ます」

「副家令」


アグネスが低く呼ぶ。

「そこまでです」

「事実を確認しているだけです」

「確認の形をしていますが、偏っています」


その言葉に、オズウィンの目が初めて動いた。


「女中頭」

「奥方様が指示したなら、もっと早く私へ言うでしょう」

「そう言い切れますか」

「言い切れます」

「なぜ」

「隠して得がないからです」


アグネスの声は短く、固い。


「北棟の回しを変える時も、洗い場の位置を変える時も、奥方様は面倒なくらい真正面から言いました」

「面倒なくらい、とは」

エレノアが思わず返すと、アグネスは一度だけこちらを見た。

「事実です」


それだけで、ほんの少し肩の力が抜ける。


庇の外で、氷の上を誰かが走る音がした。

ハリスだろうか。


その前に、洗濯場の奥から別の声が飛ぶ。


「女中頭!」


振り向くと、さきほど喉用の干し葉を回していた年上の女中が立っていた。手には小さな布包みがある。


「南旧庫から、これが」

「何です」

「北箱の底へ敷いていた布です。中身を南へ移したなら、一緒にあるのはおかしいと思って」

「見せて」


アグネスが布包みを受け取る。


広げると、端に見覚えのある二つ結びの紐がついていた。だが布そのものは、北箱にいつも敷いてあるものより一回り小さい。しかも片端に、帳場で使う墨の薄い汚れがある。


エレノアは思わず手を伸ばしかけ、止めた。今は勝手に触ると余計にまずい。


アグネスが布を広げたまま言う。


「これ、北箱のものではありません」

オズウィンが目を向ける。

「なぜ」

「北箱の底布はもっと厚い。これは帳場の包み布です」

「帳場?」

「ええ。しかも紐だけ後からつけた跡があります」


その言葉で、空気がまた少し変わる。


筋が、かすかにずれる。


誰かが帳場の布へ夫人の印だけを後づけした。

それなら、この箱の混乱は最初から夫人にかぶせるつもりで作られたことになる。


だがまだ弱い。


オズウィンはすぐに言う。


「帳場の布など、誰でも触れます」

「ええ」

「それに、夫人まわりの印を使うなら、夫人の側が帳場へ渡した可能性は消えません」

「消えません」


アグネスは認める。


そこが苦しい。

布は出た。違和感も出た。けれど今の段階では、まだ自分の無実を立て切れない。


ハリスが連れてこられたのは、その直後だった。


三十手前の男で、帳面を抱えたまま青ざめている。箱と人だかりを見て、目に見えて狼狽えた。


「ハリス」

オズウィンが呼ぶ。

「昨夜、ロブへ何を伝えた」

「え、ええと」

「北箱は空けるな、南旧庫へ回せと伝えたか」

「……はい」

「誰の指示だ」


ハリスの喉がごくりと鳴る。


「帳場へ回ってきた覚え書きです」

「覚え書き?」

アグネスが鋭く問う。

「そんなものは見ていません」

「札の運用を変える、北棟予備は導線変更、夫人案につき急ぎ徹底――と」

「その紙は」

「もう、今朝の引き継ぎで……」


ハリスの目が泳ぐ。

捨てたのか、なくしたのか、もう手元にないらしい。


オズウィンの声がさらに低くなる。


「誰が持ってきた」

「夜番の終わりに、帳場の机へ置かれていて」

「書き手は」

「……署名は、ありませんでした」

「ですが夫人案と書かれていた」

「は、はい」


庇の下に、重い沈黙が落ちる。


署名のない覚え書き。

夫人案という文言。

夫人の印。

帳場布。

南旧庫の中身。

北箱の空。


全部がまだ途中だ。

けれど逆に言えば、誰かが途中で作れる程度のものでもある。


アグネスがゆっくり言う。


「ずいぶん都合よく、奥方様の名前だけが残る形ですね」

ハリスが青ざめる。

「わ、私は書かれた通りに」

「だからこそです」

オズウィンが遮る。

「女中頭、今は夫人を庇う段ではありません」

「庇っているのではありません。雑です」

「雑?」

「本当に奥方様がやるなら、もっと面倒でも形を整えます」


その一言に、エレノアは少し息を止めた。


庇われているのではない。

仕事の癖を見られている。


アグネスは続ける。


「札だけ残し、中身だけずらし、署名もない覚え書きで夜番へ流す。現場を知っている者のやり口にしては、夫人へ疑いを寄せすぎています」

「……」

「逆に言えば、誰かが夫人へ寄せたのです」


オズウィンは返事をしなかった。


だが、その目は冷えたまま鋭い。


「それでも」

と彼は言う。

「今の時点では、夫人まわりの変更と印が利用された事実は消えません」

「ええ」

「ならば、ここから先はきちんと辿るべきです」


そこまで来た時だった。


庇の外から、靴音が真っ直ぐ近づいてくる。


この屋敷では、誰が来たかを足音で知ることがある。

その足取りは短く、迷いがない。


ヴィクトルだった。


庇の下へ入った瞬間、誰もが頭を下げる。

エレノアもそれに倣ったが、空気の張りが一段変わったのを肌で感じた。


ヴィクトルの視線は、まず空箱へ、次に布、最後にエレノアへ落ちる。


「何があった」


短い問いに、オズウィンが答える。


「北洗濯場脇の予備箱が空です。夫人まわりの印と、署名のない覚え書きが使われた形跡があります」

「夫人まわり」

「はい」


オズウィンはそこで一拍置き、淡々と続けた。


「現場では、奥方様の指示と受け取られていたようです」


その言葉が落ちる。


誰も息をしないみたいな、ひどく静かな瞬間だった。


エレノアは顔を上げられなかった。


まだ何も証明できていない。

違うと言うしかない。

その「違う」だけでは足りないところまで、もう来ている。


ヴィクトルがどう見るのか、それだけが急に怖くなった。


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