第26話
冬の終わりは、静かに来るものではなかった。
昼には屋根の端から雫が落ちるのに、夜になるとそのまま凍る。足元はぬかるみ、朝には薄氷が張る。雪が深かった頃より、むしろ人を転ばせやすい時季だと、エレノアは北辺へ来て初めて知った。
その朝も、空は明るいのに風が冷たかった。
東棟の裏手では、樋から落ちた水が石畳の端だけを薄く凍らせている。下働きの少年が一度滑りかけ、慌てて桶を抱え直すのが見えた。
「そこ、端を歩かないで」
思わず声をかけると、少年ははっとして頭を下げる。
「す、すみません」
「謝る前に、足を見て」
それだけ言って歩き出す。
前なら、こんなやり取りのあと、周囲がひどく静かになったものだ。今は違う。少年は素直に歩く場所を変え、すぐに自分の持ち場へ戻っていく。気を遣われていないわけではないが、いちいち空気が止まるほどではなくなっていた。
洗い場の火床も、北側四部屋の札も、三日では終わらなかった。
結び紐はそのまま残り、見回りの順も少しずつ整えられている。エレノアが自由に触れる範囲はまだ狭い。それでも、朝に洗い場の前へ立っていても、アグネスがもう露骨に眉をひそめることはなくなっていた。
その日、エレノアはアグネスと一緒に北棟側の控え間を見ていた。
使い込まれた厚布の減り方と、火床の灰の残りをざっと確かめるだけの短い見回りだ。正式に任された仕事ではない。けれど、アグネスが「見るだけなら」と認めた範囲には、もう自然に混ざっている。
「角の二部屋は、昨夜も持ちました」
年上の女中が札を指しながら言う。
「中ほどは明け方に一度、足しています」
アグネスが頷く。
「遅れは」
「ありません」
「咳の子は」
「一人だけ、まだ少し」
「あとで喉用を回して」
話はそれだけで済む。
エレノアは札の結び目を見た。最初の頃より、紐がきれいに揃っている。迷いが減ったのだろう。そういう変化を見るのは、嫌いではなかった。
そこへ、息を切らした若い女中が駆け込んでくる。
「女中頭」
「何」
「北の洗濯場の脇、予備箱が空です」
「空?」
「今朝の冷え込みで、見張り番の部屋へ厚布を出そうとしたら……」
アグネスの顔が変わる。
「鍵は」
「開いていました」
「昨夜の見回りは」
「終えております。でも、中が」
最後まで聞かず、アグネスは歩き出した。エレノアも半歩遅れてついていく。
北の洗濯場脇にある予備箱は、突然冷えが戻った時にだけ開ける小さな備えだ。いつも使うものではない。だからこそ、空で困る。
外へ出ると、風が思ったより冷たかった。
洗濯場脇の庇の下には、すでに三人ほど集まっている。下働きの娘たちが不安そうに箱の前へ立ち、年上の女中が鍵を握っていた。
箱のふたは開いている。
中には薄手の布が二枚と、細薪が少し。それだけしかなかった。
「何これ……」
思わずこぼれた声に、全員が顔を上げる。
アグネスが箱の中を覗き込み、眉間をきつく寄せた。
「昨夜の終わりには、厚布も太薪も入っていたはずです」
年上の女中が青い顔で言う。
「札もそのままでした」
「札?」
エレノアが箱の脇を見ると、木の持ち手に見慣れた結び紐が掛かっていた。
一つ結び。
二つ結び。
自分が最初に出した簡易の印だ。
けれど、箱の中身はまるで合っていない。札の示すものと、入っているものが噛み合っていない。
エレノアはしゃがみ込む。箱の底に残った灰の粉、布の擦れ跡、木の内側に引っかいたような線。中身を慌てて入れ替えた痕ではない。もっと前から、少しずつ違うものが入れられていた感じがする。
「南の旧庫へ回したと、昨夜聞きました」
ぽつりと言ったのは、洗濯場の娘の一人だった。すぐに周りの目が集まり、娘は肩をすくめる。
アグネスが振り返る。
「誰に」
「夜番の引き継ぎで……予備は北箱ではなく、南旧庫から出すようにと」
「誰の指示」
「それは……」
娘の視線が、箱の持ち手の紐へ落ちる。
嫌な沈黙が落ちた。
エレノアはその意味をすぐに理解した。
この結び紐は、もともと自分が出したものだ。
今では北棟の薪箱や厚布の回しに使われている。
だから、これが掛かっていれば「夫人まわりの工夫」だと誰かは受け取る。
アグネスの声が低くなる。
「奥方様」
「私は、そんな指示は出していないわ」
「……」
「本当に」
言い切った瞬間、自分でも喉が少し乾いたのが分かる。
嘘ではない。だが状況だけ見れば、分が悪い。
アグネスは箱の中身と紐を見比べている。彼女の顔は読めない。疑っているのか、違和感を追っているのか、その両方があった。
そこへ、背後から平たい声が落ちた。
「何の騒ぎです」
オズウィンだった。
帳面を抱えたまま庇の下へ入り、まず箱を見る。それから集まった面々、最後にエレノアへ視線を向ける。
アグネスが短く言う。
「北洗濯場脇の予備箱が空です」
「空?」
「札はそのまま、中身だけが違います」
「……」
オズウィンは箱の脇へかがみ、結び紐を指でつまんだ。
「夫人の印ですね」
その言い方は静かだった。
だからこそ、周囲の息づかいが余計にはっきり聞こえる。
エレノアは立ち上がる。
「私の印ではあるけれど、私の指示ではありません」
「では誰が」
「それは――」
「南旧庫へ回せという話も出ています」
オズウィンは娘たちのほうを見た。
「誰がそう言ったのです」
「夜番の……ロブが」
「ロブは今どこに」
「薪運びへ」
「呼んで」
短い命令に、下働きの少年が駆け出す。
アグネスはまだ黙っていた。黙ったまま、箱の底へ手を入れ、残っていた細薪を一本持ち上げる。指先で重さを見てから、静かに言う。
「これ、北箱に入れる切り方ではありません」
オズウィンが目を向ける。
「どういう意味です」
「南旧庫の脇で割る時の長さです」
エレノアは息を呑んだ。
それなら、中身だけが途中で移されたことになる。札はそのままに。
オズウィンの目が細くなる。
「つまり、誰かが箱の所在をずらしたか、中身を入れ替えた」
「ええ」
「そして夫人の印だけを残した」
その言葉が落ちた瞬間、空気がまた一段重くなる。
エレノアは箱の縁へ手を置いた。冷たい木の感触が掌へ刺さる。
誰かがやった。
しかも、札の意味を知っている者が。
北棟の回しと南旧庫の位置、その両方を知っている者が。
そして、これが露見した時に、最初に視線が向く先まで分かっている者だ。
オズウィンがゆっくり顔を上げる。
「奥方様」
その呼び方は丁寧だった。
けれど中身は丁寧ではない。
「本当に、何もご存じありませんか」
真正面から問われる。
下働きたちの視線も、アグネスの沈黙も、庇を叩く風の音さえ、そこで一度止まったように感じた。
エレノアはオズウィンを見返した。
「知りません」
「では、なぜ夫人の印がここに」
「私も今、見たばかりです」
「南旧庫へ回すと決めた覚えもない」
「ありません」
「一つも?」
その問いに、背筋が少し冷えた。
疑われている。
まだはっきり断じられたわけではない。けれど、ここから少しでも言葉を誤れば、そのまま形になる。
エレノアは指先を握った。
「一つもありません」
「……そうですか」
オズウィンの声は変わらない。
だが、その目の冷たさだけは隠していなかった。
庇の外で、風がまた強く吹く。
北の空気が、洗濯場の脇までまっすぐ入り込んでくる。
空になった予備箱は口を開けたまま、そこにあった。




