表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
婚約者も功績も妹に奪われた私は、死ぬと噂の北辺公爵に嫁ぐことになりました 〜愛のない結婚のはずが、冷酷な夫は私を手放してくれない〜  作者: 師走
第7章 私を信じて

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

PR
27/42

第26話

冬の終わりは、静かに来るものではなかった。


昼には屋根の端から雫が落ちるのに、夜になるとそのまま凍る。足元はぬかるみ、朝には薄氷が張る。雪が深かった頃より、むしろ人を転ばせやすい時季だと、エレノアは北辺へ来て初めて知った。


その朝も、空は明るいのに風が冷たかった。


東棟の裏手では、樋から落ちた水が石畳の端だけを薄く凍らせている。下働きの少年が一度滑りかけ、慌てて桶を抱え直すのが見えた。


「そこ、端を歩かないで」

思わず声をかけると、少年ははっとして頭を下げる。

「す、すみません」

「謝る前に、足を見て」


それだけ言って歩き出す。


前なら、こんなやり取りのあと、周囲がひどく静かになったものだ。今は違う。少年は素直に歩く場所を変え、すぐに自分の持ち場へ戻っていく。気を遣われていないわけではないが、いちいち空気が止まるほどではなくなっていた。


洗い場の火床も、北側四部屋の札も、三日では終わらなかった。


結び紐はそのまま残り、見回りの順も少しずつ整えられている。エレノアが自由に触れる範囲はまだ狭い。それでも、朝に洗い場の前へ立っていても、アグネスがもう露骨に眉をひそめることはなくなっていた。


その日、エレノアはアグネスと一緒に北棟側の控え間を見ていた。


使い込まれた厚布の減り方と、火床の灰の残りをざっと確かめるだけの短い見回りだ。正式に任された仕事ではない。けれど、アグネスが「見るだけなら」と認めた範囲には、もう自然に混ざっている。


「角の二部屋は、昨夜も持ちました」

年上の女中が札を指しながら言う。

「中ほどは明け方に一度、足しています」

アグネスが頷く。

「遅れは」

「ありません」

「咳の子は」

「一人だけ、まだ少し」

「あとで喉用を回して」


話はそれだけで済む。


エレノアは札の結び目を見た。最初の頃より、紐がきれいに揃っている。迷いが減ったのだろう。そういう変化を見るのは、嫌いではなかった。


そこへ、息を切らした若い女中が駆け込んでくる。


「女中頭」

「何」

「北の洗濯場の脇、予備箱が空です」

「空?」

「今朝の冷え込みで、見張り番の部屋へ厚布を出そうとしたら……」


アグネスの顔が変わる。


「鍵は」

「開いていました」

「昨夜の見回りは」

「終えております。でも、中が」


最後まで聞かず、アグネスは歩き出した。エレノアも半歩遅れてついていく。


北の洗濯場脇にある予備箱は、突然冷えが戻った時にだけ開ける小さな備えだ。いつも使うものではない。だからこそ、空で困る。


外へ出ると、風が思ったより冷たかった。


洗濯場脇の庇の下には、すでに三人ほど集まっている。下働きの娘たちが不安そうに箱の前へ立ち、年上の女中が鍵を握っていた。


箱のふたは開いている。


中には薄手の布が二枚と、細薪が少し。それだけしかなかった。


「何これ……」


思わずこぼれた声に、全員が顔を上げる。


アグネスが箱の中を覗き込み、眉間をきつく寄せた。


「昨夜の終わりには、厚布も太薪も入っていたはずです」

年上の女中が青い顔で言う。

「札もそのままでした」

「札?」


エレノアが箱の脇を見ると、木の持ち手に見慣れた結び紐が掛かっていた。


一つ結び。

二つ結び。


自分が最初に出した簡易の印だ。


けれど、箱の中身はまるで合っていない。札の示すものと、入っているものが噛み合っていない。


エレノアはしゃがみ込む。箱の底に残った灰の粉、布の擦れ跡、木の内側に引っかいたような線。中身を慌てて入れ替えた痕ではない。もっと前から、少しずつ違うものが入れられていた感じがする。


「南の旧庫へ回したと、昨夜聞きました」


ぽつりと言ったのは、洗濯場の娘の一人だった。すぐに周りの目が集まり、娘は肩をすくめる。


アグネスが振り返る。


「誰に」

「夜番の引き継ぎで……予備は北箱ではなく、南旧庫から出すようにと」

「誰の指示」

「それは……」


娘の視線が、箱の持ち手の紐へ落ちる。


嫌な沈黙が落ちた。


エレノアはその意味をすぐに理解した。


この結び紐は、もともと自分が出したものだ。

今では北棟の薪箱や厚布の回しに使われている。

だから、これが掛かっていれば「夫人まわりの工夫」だと誰かは受け取る。


アグネスの声が低くなる。


「奥方様」

「私は、そんな指示は出していないわ」

「……」

「本当に」


言い切った瞬間、自分でも喉が少し乾いたのが分かる。


嘘ではない。だが状況だけ見れば、分が悪い。


アグネスは箱の中身と紐を見比べている。彼女の顔は読めない。疑っているのか、違和感を追っているのか、その両方があった。


そこへ、背後から平たい声が落ちた。


「何の騒ぎです」


オズウィンだった。


帳面を抱えたまま庇の下へ入り、まず箱を見る。それから集まった面々、最後にエレノアへ視線を向ける。


アグネスが短く言う。


「北洗濯場脇の予備箱が空です」

「空?」

「札はそのまま、中身だけが違います」

「……」


オズウィンは箱の脇へかがみ、結び紐を指でつまんだ。


「夫人の印ですね」


その言い方は静かだった。

だからこそ、周囲の息づかいが余計にはっきり聞こえる。


エレノアは立ち上がる。


「私の印ではあるけれど、私の指示ではありません」

「では誰が」

「それは――」

「南旧庫へ回せという話も出ています」


オズウィンは娘たちのほうを見た。


「誰がそう言ったのです」

「夜番の……ロブが」

「ロブは今どこに」

「薪運びへ」

「呼んで」


短い命令に、下働きの少年が駆け出す。


アグネスはまだ黙っていた。黙ったまま、箱の底へ手を入れ、残っていた細薪を一本持ち上げる。指先で重さを見てから、静かに言う。


「これ、北箱に入れる切り方ではありません」

オズウィンが目を向ける。

「どういう意味です」

「南旧庫の脇で割る時の長さです」


エレノアは息を呑んだ。


それなら、中身だけが途中で移されたことになる。札はそのままに。


オズウィンの目が細くなる。


「つまり、誰かが箱の所在をずらしたか、中身を入れ替えた」

「ええ」

「そして夫人の印だけを残した」


その言葉が落ちた瞬間、空気がまた一段重くなる。


エレノアは箱の縁へ手を置いた。冷たい木の感触が掌へ刺さる。


誰かがやった。

しかも、札の意味を知っている者が。

北棟の回しと南旧庫の位置、その両方を知っている者が。


そして、これが露見した時に、最初に視線が向く先まで分かっている者だ。


オズウィンがゆっくり顔を上げる。


「奥方様」

その呼び方は丁寧だった。

けれど中身は丁寧ではない。

「本当に、何もご存じありませんか」


真正面から問われる。


下働きたちの視線も、アグネスの沈黙も、庇を叩く風の音さえ、そこで一度止まったように感じた。


エレノアはオズウィンを見返した。


「知りません」

「では、なぜ夫人の印がここに」

「私も今、見たばかりです」

「南旧庫へ回すと決めた覚えもない」

「ありません」

「一つも?」


その問いに、背筋が少し冷えた。


疑われている。

まだはっきり断じられたわけではない。けれど、ここから少しでも言葉を誤れば、そのまま形になる。


エレノアは指先を握った。


「一つもありません」

「……そうですか」


オズウィンの声は変わらない。


だが、その目の冷たさだけは隠していなかった。


庇の外で、風がまた強く吹く。

北の空気が、洗濯場の脇までまっすぐ入り込んでくる。


空になった予備箱は口を開けたまま、そこにあった。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ