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婚約者も功績も妹に奪われた私は、死ぬと噂の北辺公爵に嫁ぐことになりました 〜愛のない結婚のはずが、冷酷な夫は私を手放してくれない〜  作者: 師走
第6章 愛さないと言ったのに

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第25話

翌朝、東棟の空気はよく晴れていた。


吹雪の名残はほとんど消え、石壁の際にだけ薄く雪が残っている。空は高いのに、冷えは深い。こういう朝のほうが油断すると喉をやられると、北辺へ来てから少し分かるようになった。


エレノアは髪を結い上げ、自分で襟元を整えた。


喉の痛みはほぼない。熱もない。今日は部屋にこもっている理由がもう見つからなかった。


東棟の廊下へ出ると、向こうから年若い侍従が早足で来た。見覚えのある顔だ。西棟の応接間まわりにいる少年で、いつもは公爵の近くへそう簡単に寄せてもらえない立場らしい。


「奥方様」

「どうしたの」

「公爵様がお呼びです」

「私を?」

「はい。西棟の小会議室へ、と」


思わず聞き返しそうになったのを、かろうじて飲み込む。


公爵様がお呼びです。


夫に呼ばれること自体は不自然ではない。なのに今は、その言葉が妙に重かった。これまでの「部屋へ来い」とは違う。わざわざ西棟の小会議室へ、だ。


「分かりました」

「ご案内いたします」


ついて歩きながら、自然と背筋が伸びる。


西棟へ近づくにつれ、人の動きはいつも通り忙しい。帳面を抱えた侍従、火の見回りから戻る下働き、女中たちの短い会話。そこへ混じって自分が呼ばれていることが、少し場違いに思えた。


小会議室の前には、オズウィンが立っていた。


視線が合う。

かすかに、彼の眉が動いた。


驚いたのだろう。だがすぐにいつもの平らな顔へ戻る。


「奥方様」

「副家令」

「中へどうぞ」


扉が開かれる。


室内にはヴィクトルとアグネス、それに老家令がいた。机の上には帳面と木札、それから簡易な領内図が広げられている。話し合いの途中だったのだと、一目で分かった。


エレノアは一礼する。


「お呼びと伺って」

「ああ」


ヴィクトルは席についたまま、短く頷いた。


「座れ」

「はい」


勧められた椅子は、端ではなかった。机の脇、アグネスの向かいだ。そこへ座るまでのあいだ、自分に向けられる空気が少し変わったのを感じる。


オズウィンは無表情。

アグネスは読めない顔。

老家令は静かに目を伏せている。


ヴィクトルが机上の帳面へ目を落とす。


「寒気が一段深くなった」

「ええ」

「表側は持つ。だが使用人区画の北棟だけ、朝の立ち上がりがまだ鈍い」


エレノアは黙って聞く。


ヴィクトルは続けた。


「太薪と厚布を回して、四部屋は持ち直した」

「はい」

「だが、そこから先を広げると、今度は別の場所に薄くなる」


アグネスが口を開く。


「表を削りすぎれば客間の暖まりが遅れます。西棟の朝の支度にも響きます」

「ですが北棟の遅れを放置すると、洗い場と下働き全体が鈍ります」


オズウィンが淡々と返した。


「北棟すべてへ広げるほどの余裕はありません。太薪も厚布も、数は有限です」

「なら、南棟側から」

「南棟は風を受けにくいぶん、病み上がりを下げています。動かすならそちらの配置ごと見直しです」

「配置を見直す時間がないから困っているのでしょう」


アグネスの声はきつくない。だが一歩も引かない。


二人の言い分は、どちらも分かる。

どちらも正しい。

だから噛み合わない。


エレノアは領内図ではなく、机上の木札を見る。


色も印もない、ただの札だ。部屋数、薪の束、厚布の予備。その置き換えが頭の中で少しずつ動く。


ヴィクトルがそれを見ていたのかどうか、ふいに口を開いた。


「お前はどう思う」


部屋が静まった。


その一言だけで、空気が変わる。


エレノアは息を呑んだ。


自分に向けられたのだと分かるのに、一拍遅れてしか意味が追いつかない。


意見を聞かれたことはある。

だがそれはたいてい、もう決まっていることへ形だけ添えるためだった。


今のこれは違う。


本当に、判断を求められている。


オズウィンの視線がこちらへ向く。アグネスも黙って待っている。老家令だけが、目を伏せたまま口を挟まない。


エレノアは指先を静かに重ねた。


「……北棟全部へ同じだけ広げる必要はないと思います」

オズウィンの眉がかすかに動く。

「理由は」

「冷え方が同じではないからです」


領内図ではなく、屋敷の簡易図へ目を向ける。


「北棟でも、角部屋と中ほどでは火の持ちが違うわ。風を真正面に受ける二部屋と、その隣だけが特に冷えるなら、まずそこへ厚く回すべきです」

「細かすぎます」


オズウィンが言う。


エレノアは首を振った。


「細かいから崩れないのです」

「……」

「全部へ少しずつ回すと、どこも足りないままになる。けれど本当に冷える部屋を先に厚くすれば、落ちる者は減るわ」


アグネスが静かに聞く。


「では、外れた中ほどの部屋は」

「火の順を変えるの」

「順」

「寝る前だけ厚くしても、起き抜けに落ちるなら意味がないでしょう。中ほどの部屋は、夜明け前に一度だけ見回りを早める」

「人が増えます」

「増やさないわ。南棟の最後の見回りと、中ほどの最初を入れ替えるだけ」


アグネスの目が、少し細くなる。


頭の中で動線を追っている顔だ。


エレノアは机上の木札を二枚、そっとずらした。


「角二部屋は物で持たせる。中ほどは順で持たせる」

「……」

「厚布も同じ。全部へ増やすのでなく、夜の前半だけ角二部屋へ二枚追加。朝の見回りで中ほどへ移せば、数は増やさずに済む」


オズウィンが口を開く。


「朝の見回りにそんな手間を」

「手間を増やすのではなく、今ある手間の順を変えるだけです」

「理屈ではそうでも」

「理屈だけではありません」


言い切ってから、少し喉が緊張した。


けれど止まらなかった。


「洗い場で見ました。夜の火を少し持たせるだけで、朝に倒れる子が減った」

「……」

「全部を同じように助けようとすると、結局どこも足りません。本当に落ちるところから先に拾うしかないわ」


しんと静まる。


自分でも、思ったより強く出たと思う。けれど言い切らないと届かない。


最初に口を開いたのはアグネスだった。


「角二部屋へ厚く、中ほどは見回りの刻をずらす……」

木札を見ながら小さく呟く。

「それなら、朝の薪運びとぶつかりません」

オズウィンが即座に返す。

「夜番の負担が増えます」

「今のまま倒れる子を出すよりはましです」

「女中頭」

「事実でしょう」


二人の間に緊張が走る。


だが今度は、アグネスの声に迷いが少ない。現場の手応えがあるからだ。


ヴィクトルが短く言った。


「三日」


全員が口を閉じる。


「角二部屋へ厚く回す。中ほどは見回りの順を変える。三日見て、落ちる者と朝の遅れを比べる」

「承知しました」とアグネス。

オズウィンは一拍遅れて、「承知いたしました」と続ける。


ヴィクトルはそれで終わらせず、木札を見たまま付け加えた。


「印は増やすな。今の結びで足りるようにしろ」

「はい」

「分かりやすく、迷わせない形で回せ」


その言葉は、アグネスへ向いているようで、少しエレノアにもかかっていた。


会議はそれでいったん解かれた。


老家令が帳面をまとめ、アグネスとオズウィンが木札を持って出ていく。二人とも仕事の顔だ。だが、扉のところでアグネスが一度だけ振り返り、エレノアへほんの小さく頷いた。


礼ではない。

たぶん、受け取った、という合図だ。


最後に部屋へ残ったのは、ヴィクトルとエレノアだけだった。


エレノアはまだ椅子から立てない。


耳の奥で、心臓の音だけが静かに鳴っていた。


本当に聞かれた。

本当に自分の判断で話した。

そして、その判断がそのまま動く。


それが、まだ少し信じられない。


ヴィクトルが机上の図を畳みながら言う。


「顔色が悪い」

「……そうでしょうか」

「聞かれると思っていなかった顔だ」

「思っていませんでした」

「だろうな」


その短い返しに、少し頬が熱くなる。


ヴィクトルは図を重ね終えると、こちらを見た。


「洗い場の件だけで決めたわけではない」

「はい」

「だが、お前が見たものを軽く扱う気もない」

「……」

「それだけだ」


言い方はやはり飾りがない。


けれど、その「それだけ」が、今は十分すぎるほど重い。


エレノアはようやく立ち上がった。


「ありがとうございます」

「礼はいらん」

「でも」

「結果を出せばいい」


その言葉に、手の内に残っていた熱が少し形になる。


期待されている、とはまだ言えない。

けれど、役に立つかどうかを見られている。

そして今は、その場に立つことを許されている。


ここへ来た時にはなかった位置だった。


エレノアは小さく頷く。


「はい」

「無理はするな」

「……たぶん」

「それをやめろ」


低い声に、思わず少し笑いそうになった。


笑うべきところではないのに、喉の奥でやわらかくほどけるものがある。


ヴィクトルはそれ以上何も言わず、先に扉を開けた。


部屋の外にはいつもの屋敷の音が戻っている。帳面を抱えた侍従の足音、火の見回りの声、遠くで閉まる戸の音。


その中へ一歩出た時、エレノアはまだ手のひらに熱を残していた。


信じられ始めたのかもしれない。


そう思った瞬間、足元の石まで、少し冷たくなかった。

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