第25話
翌朝、東棟の空気はよく晴れていた。
吹雪の名残はほとんど消え、石壁の際にだけ薄く雪が残っている。空は高いのに、冷えは深い。こういう朝のほうが油断すると喉をやられると、北辺へ来てから少し分かるようになった。
エレノアは髪を結い上げ、自分で襟元を整えた。
喉の痛みはほぼない。熱もない。今日は部屋にこもっている理由がもう見つからなかった。
東棟の廊下へ出ると、向こうから年若い侍従が早足で来た。見覚えのある顔だ。西棟の応接間まわりにいる少年で、いつもは公爵の近くへそう簡単に寄せてもらえない立場らしい。
「奥方様」
「どうしたの」
「公爵様がお呼びです」
「私を?」
「はい。西棟の小会議室へ、と」
思わず聞き返しそうになったのを、かろうじて飲み込む。
公爵様がお呼びです。
夫に呼ばれること自体は不自然ではない。なのに今は、その言葉が妙に重かった。これまでの「部屋へ来い」とは違う。わざわざ西棟の小会議室へ、だ。
「分かりました」
「ご案内いたします」
ついて歩きながら、自然と背筋が伸びる。
西棟へ近づくにつれ、人の動きはいつも通り忙しい。帳面を抱えた侍従、火の見回りから戻る下働き、女中たちの短い会話。そこへ混じって自分が呼ばれていることが、少し場違いに思えた。
小会議室の前には、オズウィンが立っていた。
視線が合う。
かすかに、彼の眉が動いた。
驚いたのだろう。だがすぐにいつもの平らな顔へ戻る。
「奥方様」
「副家令」
「中へどうぞ」
扉が開かれる。
室内にはヴィクトルとアグネス、それに老家令がいた。机の上には帳面と木札、それから簡易な領内図が広げられている。話し合いの途中だったのだと、一目で分かった。
エレノアは一礼する。
「お呼びと伺って」
「ああ」
ヴィクトルは席についたまま、短く頷いた。
「座れ」
「はい」
勧められた椅子は、端ではなかった。机の脇、アグネスの向かいだ。そこへ座るまでのあいだ、自分に向けられる空気が少し変わったのを感じる。
オズウィンは無表情。
アグネスは読めない顔。
老家令は静かに目を伏せている。
ヴィクトルが机上の帳面へ目を落とす。
「寒気が一段深くなった」
「ええ」
「表側は持つ。だが使用人区画の北棟だけ、朝の立ち上がりがまだ鈍い」
エレノアは黙って聞く。
ヴィクトルは続けた。
「太薪と厚布を回して、四部屋は持ち直した」
「はい」
「だが、そこから先を広げると、今度は別の場所に薄くなる」
アグネスが口を開く。
「表を削りすぎれば客間の暖まりが遅れます。西棟の朝の支度にも響きます」
「ですが北棟の遅れを放置すると、洗い場と下働き全体が鈍ります」
オズウィンが淡々と返した。
「北棟すべてへ広げるほどの余裕はありません。太薪も厚布も、数は有限です」
「なら、南棟側から」
「南棟は風を受けにくいぶん、病み上がりを下げています。動かすならそちらの配置ごと見直しです」
「配置を見直す時間がないから困っているのでしょう」
アグネスの声はきつくない。だが一歩も引かない。
二人の言い分は、どちらも分かる。
どちらも正しい。
だから噛み合わない。
エレノアは領内図ではなく、机上の木札を見る。
色も印もない、ただの札だ。部屋数、薪の束、厚布の予備。その置き換えが頭の中で少しずつ動く。
ヴィクトルがそれを見ていたのかどうか、ふいに口を開いた。
「お前はどう思う」
部屋が静まった。
その一言だけで、空気が変わる。
エレノアは息を呑んだ。
自分に向けられたのだと分かるのに、一拍遅れてしか意味が追いつかない。
意見を聞かれたことはある。
だがそれはたいてい、もう決まっていることへ形だけ添えるためだった。
今のこれは違う。
本当に、判断を求められている。
オズウィンの視線がこちらへ向く。アグネスも黙って待っている。老家令だけが、目を伏せたまま口を挟まない。
エレノアは指先を静かに重ねた。
「……北棟全部へ同じだけ広げる必要はないと思います」
オズウィンの眉がかすかに動く。
「理由は」
「冷え方が同じではないからです」
領内図ではなく、屋敷の簡易図へ目を向ける。
「北棟でも、角部屋と中ほどでは火の持ちが違うわ。風を真正面に受ける二部屋と、その隣だけが特に冷えるなら、まずそこへ厚く回すべきです」
「細かすぎます」
オズウィンが言う。
エレノアは首を振った。
「細かいから崩れないのです」
「……」
「全部へ少しずつ回すと、どこも足りないままになる。けれど本当に冷える部屋を先に厚くすれば、落ちる者は減るわ」
アグネスが静かに聞く。
「では、外れた中ほどの部屋は」
「火の順を変えるの」
「順」
「寝る前だけ厚くしても、起き抜けに落ちるなら意味がないでしょう。中ほどの部屋は、夜明け前に一度だけ見回りを早める」
「人が増えます」
「増やさないわ。南棟の最後の見回りと、中ほどの最初を入れ替えるだけ」
アグネスの目が、少し細くなる。
頭の中で動線を追っている顔だ。
エレノアは机上の木札を二枚、そっとずらした。
「角二部屋は物で持たせる。中ほどは順で持たせる」
「……」
「厚布も同じ。全部へ増やすのでなく、夜の前半だけ角二部屋へ二枚追加。朝の見回りで中ほどへ移せば、数は増やさずに済む」
オズウィンが口を開く。
「朝の見回りにそんな手間を」
「手間を増やすのではなく、今ある手間の順を変えるだけです」
「理屈ではそうでも」
「理屈だけではありません」
言い切ってから、少し喉が緊張した。
けれど止まらなかった。
「洗い場で見ました。夜の火を少し持たせるだけで、朝に倒れる子が減った」
「……」
「全部を同じように助けようとすると、結局どこも足りません。本当に落ちるところから先に拾うしかないわ」
しんと静まる。
自分でも、思ったより強く出たと思う。けれど言い切らないと届かない。
最初に口を開いたのはアグネスだった。
「角二部屋へ厚く、中ほどは見回りの刻をずらす……」
木札を見ながら小さく呟く。
「それなら、朝の薪運びとぶつかりません」
オズウィンが即座に返す。
「夜番の負担が増えます」
「今のまま倒れる子を出すよりはましです」
「女中頭」
「事実でしょう」
二人の間に緊張が走る。
だが今度は、アグネスの声に迷いが少ない。現場の手応えがあるからだ。
ヴィクトルが短く言った。
「三日」
全員が口を閉じる。
「角二部屋へ厚く回す。中ほどは見回りの順を変える。三日見て、落ちる者と朝の遅れを比べる」
「承知しました」とアグネス。
オズウィンは一拍遅れて、「承知いたしました」と続ける。
ヴィクトルはそれで終わらせず、木札を見たまま付け加えた。
「印は増やすな。今の結びで足りるようにしろ」
「はい」
「分かりやすく、迷わせない形で回せ」
その言葉は、アグネスへ向いているようで、少しエレノアにもかかっていた。
会議はそれでいったん解かれた。
老家令が帳面をまとめ、アグネスとオズウィンが木札を持って出ていく。二人とも仕事の顔だ。だが、扉のところでアグネスが一度だけ振り返り、エレノアへほんの小さく頷いた。
礼ではない。
たぶん、受け取った、という合図だ。
最後に部屋へ残ったのは、ヴィクトルとエレノアだけだった。
エレノアはまだ椅子から立てない。
耳の奥で、心臓の音だけが静かに鳴っていた。
本当に聞かれた。
本当に自分の判断で話した。
そして、その判断がそのまま動く。
それが、まだ少し信じられない。
ヴィクトルが机上の図を畳みながら言う。
「顔色が悪い」
「……そうでしょうか」
「聞かれると思っていなかった顔だ」
「思っていませんでした」
「だろうな」
その短い返しに、少し頬が熱くなる。
ヴィクトルは図を重ね終えると、こちらを見た。
「洗い場の件だけで決めたわけではない」
「はい」
「だが、お前が見たものを軽く扱う気もない」
「……」
「それだけだ」
言い方はやはり飾りがない。
けれど、その「それだけ」が、今は十分すぎるほど重い。
エレノアはようやく立ち上がった。
「ありがとうございます」
「礼はいらん」
「でも」
「結果を出せばいい」
その言葉に、手の内に残っていた熱が少し形になる。
期待されている、とはまだ言えない。
けれど、役に立つかどうかを見られている。
そして今は、その場に立つことを許されている。
ここへ来た時にはなかった位置だった。
エレノアは小さく頷く。
「はい」
「無理はするな」
「……たぶん」
「それをやめろ」
低い声に、思わず少し笑いそうになった。
笑うべきところではないのに、喉の奥でやわらかくほどけるものがある。
ヴィクトルはそれ以上何も言わず、先に扉を開けた。
部屋の外にはいつもの屋敷の音が戻っている。帳面を抱えた侍従の足音、火の見回りの声、遠くで閉まる戸の音。
その中へ一歩出た時、エレノアはまだ手のひらに熱を残していた。
信じられ始めたのかもしれない。
そう思った瞬間、足元の石まで、少し冷たくなかった。




