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婚約者も功績も妹に奪われた私は、死ぬと噂の北辺公爵に嫁ぐことになりました 〜愛のない結婚のはずが、冷酷な夫は私を手放してくれない〜  作者: 師走
第6章 愛さないと言ったのに

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第24話

それからだ、ヴィクトルは前よりよくエレノアを見るようになった。


露骨に構うわけではない。

声をかける回数が増えるわけでもない。

けれど、廊下ですれ違った時、洗い場の前で人の流れを見ている時、マルタの部屋で薬卓の位置を直した時――そのたびに、薄い色の目が一拍ぶん長くこちらに留まる。


見張られているのかと思った。

けれど少し違う。


確かめられているのだ。


その視線を受けるたび、落ち着かない。だが、嫌ではなかった。


その日の夕方、エレノアは自室で髪をほどいていた。


北辺へ来てから、身支度の多くを自分でしている。王都では、それがみっともないことだと思われる場面もあっただろう。だがここでは、誰かを待たせるより早い。


鏡台の前に座り、結い上げていた髪を櫛で梳く。途中で少し引っかかって、思わず眉を寄せた。


その時、扉が叩かれる。


「はい」


入ってきたのは、ヴィクトルだった。


思わず櫛を持つ手が止まる。


「……公爵様」

「邪魔をしたか」

「いえ」


本当は少し驚いた。女の部屋へ来る時間としては遅くもないが、髪をほどいた姿を見られるとは思っていなかったからだ。


ヴィクトルは扉のそばで足を止めたまま、鏡台の上を見た。櫛、紐、整髪の油、畳んだ布。どれも必要最低限しか出ていない。


「侍女は」

「今はいません」

「呼ばないのか」

「呼べば来ます」

「だが、自分でやっている」


問いではなく確認だった。


エレノアは櫛を置く。


「そのほうが早いので」

「何でもそう言うな」

「……そうでしょうか」

「そうだ」


きっぱり言われて、少し口をつぐむ。


ヴィクトルは部屋の中へ二歩ほど入り、窓辺へ目をやった。雪はもうほとんど残っていないが、夜気は冷たい。窓金具は先日直したまま、きちんと留まっていた。


「お前のところには」

ふいに、彼が口を開く。

「本当に、普段つく者がいなかったのか」


前の話の続きなのだと分かった。


エレノアはすぐには答えられなかった。だが、もうごまかすつもりもなかった。


「ずっと、ではありません」

「……」

「一人だけ、長くいてくれた子はいます」


ヴィクトルの視線が戻る。


エレノアは鏡の中の自分を見た。ほどけた髪が肩へ落ち、少し弱く見える気がして、落ち着かない。


「侍女見習い上がりの子でした」

「年若いのか」

「ええ。私よりいくつか下で」

「お前の身の回りを任されていた?」

「任されていた、というより……」


そこで、少し喉がつまる。


リネットのことを口にするのは久しぶりだった。

名前まで出したら、本当に遠くへ置いてきたのだと実感しそうで、避けてきたのかもしれない。


けれどヴィクトルは急かさなかった。


ただ待つだけの沈黙を置く。


エレノアは小さく息を吸った。


「気づいてくれる子だったの」

「何に」

「私が食べていないことや、夜に冷えていることや、黙っていても困っていることに」

「……」

「そういうことに、いちばん早く」


言いながら、指先が少し震える。


あの家で、誰より先に「大丈夫ではない時の顔です」と言った子だ。

焼き菓子を包んで持たせてくれた子だ。

出立の日、最後まで馬車へついて来ようとした子だ。


ヴィクトルが低く問う。


「名前は」


エレノアは目を伏せた。


「……リネット」

「リネット」

「母方から来た子でした。あの家では、それだけで少し居心地が悪かったと思います」

「お前の母方」


その四文字で、実家の空気がふっと戻る。


前妻の娘。

前の奥方の名残。

その言葉に含まれていた冷たさまで一緒に。


エレノアは頷く。


「それでも、あの子だけは残ってくれました」

「残って?」

「はい。何度か配置を変えられそうになっても」

「……」

「でも、最後は」


そこで、言葉が切れた。


出立の日の朝が浮かぶ。

玄関前の風。

継母の声。

前の奥方の名残はいらない、というあの言い方。


エレノアは膝の上で指を握る。


「父が、外しました」

「外した」

「北辺へ嫁ぐ私に、あの子はいらないと」

「解雇したのか」

「たぶん、はい」

「たぶん?」

「私が出たあとのことは、もう分かりません」


声が思ったより静かで、自分でも驚く。


泣きたいわけではない。

けれど体の内側の柔らかいところだけが、少しずつ冷えていく。


ヴィクトルはしばらく黙っていた。


慰めの言葉は来ないだろうと思った。

この人はそういう人ではないし、自分もそれを求めてはいない。


やがて、低い声が落ちる。


「リネット」

「……はい」

「覚えておく」


それだけを置いた。


エレノアは息を止めた。


どういう意味なのかは分からない。

今すぐ何かが変わる言葉でもない。

約束とも違う。


それでも、その名前がこの屋敷の中で誰かに拾われたことだけは分かった。


王都では、消されるほうが早かった。

手柄も、役目も、人も。


けれど今、リネットの名前は消されずにここへ置かれた。


エレノアはうまく返事ができず、ただ小さく頷いた。


ヴィクトルはそれ以上踏み込まなかった。


窓辺に目をやり、それからごく自然に言う。


「髪」

「え?」

「絡んでいる」


思わず振り向く。


たしかに、右の後ろが少しもつれていた。さっき引っかかったところだ。気づかなかったのが恥ずかしくて、耳が熱くなる。


「自分でやります」

「そうか」


それ以上は何も言わない。


なのに、その一言のあと、エレノアはなぜか余計に落ち着かなくなった。自分でやる、と言ったのはいつものことなのに、今はその言葉が少し空しい。


ヴィクトルは扉へ向かった。


出る前に、一度だけ振り返る。


「今、困っていることがあれば言え」

「……」

「全部とは言わん」

「はい」

「言わなければ、分からないこともある」


リネットの名前を出した直後だったせいか、その言葉は妙に深く残った。


エレノアは櫛を握り直す。


「今は、大丈夫です」

「そうか」


短く返して、ヴィクトルは部屋を出ていく。


扉が閉まったあとも、エレノアはしばらく鏡台の前で動けなかった。


覚えておく。


その言葉だけが、火の近くみたいに耳へ残っている。


やがて、もう一度櫛を手に取った。

右の後ろの絡みをそっとほどく。


指先が少し不器用なのは、まだ寒さのせいだけではないのかもしれなかった。

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