第24話
それからだ、ヴィクトルは前よりよくエレノアを見るようになった。
露骨に構うわけではない。
声をかける回数が増えるわけでもない。
けれど、廊下ですれ違った時、洗い場の前で人の流れを見ている時、マルタの部屋で薬卓の位置を直した時――そのたびに、薄い色の目が一拍ぶん長くこちらに留まる。
見張られているのかと思った。
けれど少し違う。
確かめられているのだ。
その視線を受けるたび、落ち着かない。だが、嫌ではなかった。
その日の夕方、エレノアは自室で髪をほどいていた。
北辺へ来てから、身支度の多くを自分でしている。王都では、それがみっともないことだと思われる場面もあっただろう。だがここでは、誰かを待たせるより早い。
鏡台の前に座り、結い上げていた髪を櫛で梳く。途中で少し引っかかって、思わず眉を寄せた。
その時、扉が叩かれる。
「はい」
入ってきたのは、ヴィクトルだった。
思わず櫛を持つ手が止まる。
「……公爵様」
「邪魔をしたか」
「いえ」
本当は少し驚いた。女の部屋へ来る時間としては遅くもないが、髪をほどいた姿を見られるとは思っていなかったからだ。
ヴィクトルは扉のそばで足を止めたまま、鏡台の上を見た。櫛、紐、整髪の油、畳んだ布。どれも必要最低限しか出ていない。
「侍女は」
「今はいません」
「呼ばないのか」
「呼べば来ます」
「だが、自分でやっている」
問いではなく確認だった。
エレノアは櫛を置く。
「そのほうが早いので」
「何でもそう言うな」
「……そうでしょうか」
「そうだ」
きっぱり言われて、少し口をつぐむ。
ヴィクトルは部屋の中へ二歩ほど入り、窓辺へ目をやった。雪はもうほとんど残っていないが、夜気は冷たい。窓金具は先日直したまま、きちんと留まっていた。
「お前のところには」
ふいに、彼が口を開く。
「本当に、普段つく者がいなかったのか」
前の話の続きなのだと分かった。
エレノアはすぐには答えられなかった。だが、もうごまかすつもりもなかった。
「ずっと、ではありません」
「……」
「一人だけ、長くいてくれた子はいます」
ヴィクトルの視線が戻る。
エレノアは鏡の中の自分を見た。ほどけた髪が肩へ落ち、少し弱く見える気がして、落ち着かない。
「侍女見習い上がりの子でした」
「年若いのか」
「ええ。私よりいくつか下で」
「お前の身の回りを任されていた?」
「任されていた、というより……」
そこで、少し喉がつまる。
リネットのことを口にするのは久しぶりだった。
名前まで出したら、本当に遠くへ置いてきたのだと実感しそうで、避けてきたのかもしれない。
けれどヴィクトルは急かさなかった。
ただ待つだけの沈黙を置く。
エレノアは小さく息を吸った。
「気づいてくれる子だったの」
「何に」
「私が食べていないことや、夜に冷えていることや、黙っていても困っていることに」
「……」
「そういうことに、いちばん早く」
言いながら、指先が少し震える。
あの家で、誰より先に「大丈夫ではない時の顔です」と言った子だ。
焼き菓子を包んで持たせてくれた子だ。
出立の日、最後まで馬車へついて来ようとした子だ。
ヴィクトルが低く問う。
「名前は」
エレノアは目を伏せた。
「……リネット」
「リネット」
「母方から来た子でした。あの家では、それだけで少し居心地が悪かったと思います」
「お前の母方」
その四文字で、実家の空気がふっと戻る。
前妻の娘。
前の奥方の名残。
その言葉に含まれていた冷たさまで一緒に。
エレノアは頷く。
「それでも、あの子だけは残ってくれました」
「残って?」
「はい。何度か配置を変えられそうになっても」
「……」
「でも、最後は」
そこで、言葉が切れた。
出立の日の朝が浮かぶ。
玄関前の風。
継母の声。
前の奥方の名残はいらない、というあの言い方。
エレノアは膝の上で指を握る。
「父が、外しました」
「外した」
「北辺へ嫁ぐ私に、あの子はいらないと」
「解雇したのか」
「たぶん、はい」
「たぶん?」
「私が出たあとのことは、もう分かりません」
声が思ったより静かで、自分でも驚く。
泣きたいわけではない。
けれど体の内側の柔らかいところだけが、少しずつ冷えていく。
ヴィクトルはしばらく黙っていた。
慰めの言葉は来ないだろうと思った。
この人はそういう人ではないし、自分もそれを求めてはいない。
やがて、低い声が落ちる。
「リネット」
「……はい」
「覚えておく」
それだけを置いた。
エレノアは息を止めた。
どういう意味なのかは分からない。
今すぐ何かが変わる言葉でもない。
約束とも違う。
それでも、その名前がこの屋敷の中で誰かに拾われたことだけは分かった。
王都では、消されるほうが早かった。
手柄も、役目も、人も。
けれど今、リネットの名前は消されずにここへ置かれた。
エレノアはうまく返事ができず、ただ小さく頷いた。
ヴィクトルはそれ以上踏み込まなかった。
窓辺に目をやり、それからごく自然に言う。
「髪」
「え?」
「絡んでいる」
思わず振り向く。
たしかに、右の後ろが少しもつれていた。さっき引っかかったところだ。気づかなかったのが恥ずかしくて、耳が熱くなる。
「自分でやります」
「そうか」
それ以上は何も言わない。
なのに、その一言のあと、エレノアはなぜか余計に落ち着かなくなった。自分でやる、と言ったのはいつものことなのに、今はその言葉が少し空しい。
ヴィクトルは扉へ向かった。
出る前に、一度だけ振り返る。
「今、困っていることがあれば言え」
「……」
「全部とは言わん」
「はい」
「言わなければ、分からないこともある」
リネットの名前を出した直後だったせいか、その言葉は妙に深く残った。
エレノアは櫛を握り直す。
「今は、大丈夫です」
「そうか」
短く返して、ヴィクトルは部屋を出ていく。
扉が閉まったあとも、エレノアはしばらく鏡台の前で動けなかった。
覚えておく。
その言葉だけが、火の近くみたいに耳へ残っている。
やがて、もう一度櫛を手に取った。
右の後ろの絡みをそっとほどく。
指先が少し不器用なのは、まだ寒さのせいだけではないのかもしれなかった。




