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婚約者も功績も妹に奪われた私は、死ぬと噂の北辺公爵に嫁ぐことになりました 〜愛のない結婚のはずが、冷酷な夫は私を手放してくれない〜  作者: 師走
第6章 愛さないと言ったのに

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第23話

その日の夕刻、エレノアはもう一度マルタの部屋を訪ねた。


熱は朝よりさらに落ちていた。頬の赤みも薄れ、胸の音もだいぶ静かだ。寝台の横には湯の鉢と新しい布、薬卓には刻んだ霜鈴草の残りが小皿に分けられている。


「顔色が戻りましたね」

「おかげさまで」


マルタはまだ少しかすれた声で言い、寝台の背へゆっくり体を預け直した。


その拍子に、肘の脇へ置かれていた湯飲みがぐらりと揺れる。


「あ」


声が出るより早く、エレノアの手が伸びた。湯飲みを押さえ、こぼれる前に卓の奥へ滑らせる。ついでに肘の下へ丸めた布を差し込み、体が少し起きやすい角度へ整える。


「それでは肩がつらいでしょう」

「……ええ。少しねえ」


マルタは目を細めた。


「奥方様は、本当に手が早い」


そう言われて、エレノアはようやく自分が何をしたか気づく。考えるより先に体が動いていた。


「すみません。勝手に」

「助かっておりますよ」


そこへ、背後で扉が開く音がした。


振り返ると、ヴィクトルがいた。


また、というのが最初に浮かぶ。最近この人は、前よりずっと不意に現れる。


ヴィクトルの視線はまずマルタへ向かい、それからエレノアの差し込んだ布、動かした湯飲み、絞ったばかりの布へ落ちた。


何も言わない。


それがかえって落ち着かなかった。


マルタが咳払いを一つして言う。


「さっきまで、奥方様が動きやすいようにしてくださっていたのですよ」

「そうか」


短い返事だった。


けれどその目は、前みたいに「余計なことを」と切るだけの目ではなかった。ただ、じっと見ている。


ヴィクトルはマルタの具合を二つ三つ確かめたあと、薬卓の位置を少し見て、医師の指示を年嵩の女中へ言い渡した。


それで用は済んだはずなのに、すぐには出ていかない。


やがて、エレノアへ向かって言う。


「来い」


逆らう理由もなく、エレノアは一礼して部屋を出た。


連れて行かれたのは、すぐ近くの小さな控え室だった。火は入っているが、話をするためだけの簡素な部屋だ。窓の外はもう暗くなりかけていて、雪の残りが石壁の際で青く見える。


ヴィクトルは扉を閉めると、部屋の中央で足を止めた。


「今のもか」


唐突で、一瞬何を指すのか分からなかった。


「湯飲みを押さえたことですか」

「それだけではない」


ヴィクトルは腕を組むでもなく、ただ立ったままこちらを見る。


「肘の下へ布を入れた。体を起こしやすい角度も、湯の位置も、迷わなかった」

「……」

「少し知っているだけの動きではない」


エレノアは視線を落とした。


そうだろうと思う。自分でも、さっきのは言い逃れのしようがないと思った。


ヴィクトルは低く続ける。


「どこで覚えた」


逃げられない問いだった。


エレノアは少し息を整える。


「手が足りない時に、やっていただけです」

「侯爵家でか」

「ええ」

「娘が?」


その一言に、指先に力が入った。


驚かれているのだと分かる。けれど責められているのではない。ただ、そこが結びつかないのだ。この人の中では。


「母が亡くなってからは」

口にした途端、声が少し固くなる。

「私のところへ割かれる人は、多くありませんでした」

「……」

「表へ出る時は別です。でも普段は、いないことのほうが多かったので」


言い終えると、部屋が静かになった。


暖炉の火が、小さく鳴る。


ヴィクトルはすぐには何も言わなかった。その沈黙が、妙に長い。


エレノアは言い足すみたいに続ける。


「熱が出た人の部屋へ行くのも、湯を替えるのも、薬草を刻むのも、珍しいことではありませんでした」

「珍しくない?」

「屋敷には、いつも誰かしら具合の悪い者がいますから」

「侯爵家だぞ」

「ええ」


そこで少し、口元がゆるみそうになった。笑うような話ではないのに。


「でも、侯爵家であることと、手が足りていることは、別でしょう」


ヴィクトルの目が細くなる。


気を悪くしたのかと思ったが、違うらしい。ただ、今の言葉をそのまま受け取っている顔だった。


「誰がやらせた」


問いは短い。


エレノアはすぐには答えられなかった。


やらせた、と言えるほどはっきり命じられたことばかりではない。気づけば自分がしていた。しなければ回らないと思っていた。誰かに感謝されるためではなく、それがいちばん早く済むから。


「……誰が、というほどでは」

「自然にそうなったと?」

「そうです」


自分でもひどい答えだと思う。


けれど嘘ではない。


「最初は、見ているだけでした。けれど見ていると、どこが足りないか分かってしまって」

「だから手を出した」

「ええ」

「止める者はいなかったのか」

「いなかったわけではありません」

「だが、やめなかった」

「やめると余計に時間がかかりました」


口にしてから、それが普通の育ちの娘の返事ではないのだと自分で分かる。


ヴィクトルは少し顔を背け、窓のほうを見た。暗い硝子に雪の名残が薄く映っている。


「妙に慣れていると思った」


独り言みたいな声だった。


エレノアは何も言わない。


ヴィクトルは再びこちらを見る。


「兵の傷口を見た時も、洗い場の手を見た時も、お前は迷わなかった」

「……」

「貴族の娘がためらうところで、ためらわない」


その言葉は、褒めても責めてもいない。


ただ、自分の見た事実だけを置いている。


エレノアは指先をそっと握った。


「慣れたくて慣れたわけではありません」

「だろうな」

「でも、知らないふりをして育ったわけでもないの」


声が少し掠れた。


喉はもうだいぶましなはずなのに、この話をすると違うところが詰まる。


「そうか」


ヴィクトルはそれ以上、無理に聞き出さなかった。


その代わり、少し間を置いてから言う。


「お前のところには、普段つく者がいなかった」

「……はい」

「一人も?」

「ずっと、ではありません。時々は」

そこでエレノアは止まる。

「でも、長くは続きませんでした」


リネットの顔が頭に浮かぶ。


まだ名前までは口にしない。その一歩手前で、言葉が止まる。


ヴィクトルはそこも見逃さなかったらしい。だが今は踏み込まない。ただ短く頷く。


「分かった」

「……何が」

「お前がなぜ、あれほど自然に動くのか」


それだけ言って、ヴィクトルは扉へ向かった。


もう終わりなのだろうと思っていたら、手をかけたところで一度だけ振り返る。


「今はもう、ここで一人でやる必要はない」

「え?」

「聞こえなかったか」

「いえ……」


意味を飲み込むのに、少し時間がかかった。


慰めではない。

優しい言葉でもない。

けれど、あの人なりに線を引き直したのだと分かる。


エレノアはうまく返事ができず、ただ小さく頷いた。


ヴィクトルはそれ以上何も足さず、部屋を出ていく。


扉が閉まったあと、エレノアはしばらくそこに立ったままだった。


握った手の内側が、静かに熱い。


今まで誰かに「もうやらなくていい」と言われても、それはたいてい「手を出すな」と同じ意味だった。

けれど今のは、少し違う。


一人でやる必要はない。


その言い方だけが、火のそばみたいにじんわり残った。

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