第23話
その日の夕刻、エレノアはもう一度マルタの部屋を訪ねた。
熱は朝よりさらに落ちていた。頬の赤みも薄れ、胸の音もだいぶ静かだ。寝台の横には湯の鉢と新しい布、薬卓には刻んだ霜鈴草の残りが小皿に分けられている。
「顔色が戻りましたね」
「おかげさまで」
マルタはまだ少しかすれた声で言い、寝台の背へゆっくり体を預け直した。
その拍子に、肘の脇へ置かれていた湯飲みがぐらりと揺れる。
「あ」
声が出るより早く、エレノアの手が伸びた。湯飲みを押さえ、こぼれる前に卓の奥へ滑らせる。ついでに肘の下へ丸めた布を差し込み、体が少し起きやすい角度へ整える。
「それでは肩がつらいでしょう」
「……ええ。少しねえ」
マルタは目を細めた。
「奥方様は、本当に手が早い」
そう言われて、エレノアはようやく自分が何をしたか気づく。考えるより先に体が動いていた。
「すみません。勝手に」
「助かっておりますよ」
そこへ、背後で扉が開く音がした。
振り返ると、ヴィクトルがいた。
また、というのが最初に浮かぶ。最近この人は、前よりずっと不意に現れる。
ヴィクトルの視線はまずマルタへ向かい、それからエレノアの差し込んだ布、動かした湯飲み、絞ったばかりの布へ落ちた。
何も言わない。
それがかえって落ち着かなかった。
マルタが咳払いを一つして言う。
「さっきまで、奥方様が動きやすいようにしてくださっていたのですよ」
「そうか」
短い返事だった。
けれどその目は、前みたいに「余計なことを」と切るだけの目ではなかった。ただ、じっと見ている。
ヴィクトルはマルタの具合を二つ三つ確かめたあと、薬卓の位置を少し見て、医師の指示を年嵩の女中へ言い渡した。
それで用は済んだはずなのに、すぐには出ていかない。
やがて、エレノアへ向かって言う。
「来い」
逆らう理由もなく、エレノアは一礼して部屋を出た。
連れて行かれたのは、すぐ近くの小さな控え室だった。火は入っているが、話をするためだけの簡素な部屋だ。窓の外はもう暗くなりかけていて、雪の残りが石壁の際で青く見える。
ヴィクトルは扉を閉めると、部屋の中央で足を止めた。
「今のもか」
唐突で、一瞬何を指すのか分からなかった。
「湯飲みを押さえたことですか」
「それだけではない」
ヴィクトルは腕を組むでもなく、ただ立ったままこちらを見る。
「肘の下へ布を入れた。体を起こしやすい角度も、湯の位置も、迷わなかった」
「……」
「少し知っているだけの動きではない」
エレノアは視線を落とした。
そうだろうと思う。自分でも、さっきのは言い逃れのしようがないと思った。
ヴィクトルは低く続ける。
「どこで覚えた」
逃げられない問いだった。
エレノアは少し息を整える。
「手が足りない時に、やっていただけです」
「侯爵家でか」
「ええ」
「娘が?」
その一言に、指先に力が入った。
驚かれているのだと分かる。けれど責められているのではない。ただ、そこが結びつかないのだ。この人の中では。
「母が亡くなってからは」
口にした途端、声が少し固くなる。
「私のところへ割かれる人は、多くありませんでした」
「……」
「表へ出る時は別です。でも普段は、いないことのほうが多かったので」
言い終えると、部屋が静かになった。
暖炉の火が、小さく鳴る。
ヴィクトルはすぐには何も言わなかった。その沈黙が、妙に長い。
エレノアは言い足すみたいに続ける。
「熱が出た人の部屋へ行くのも、湯を替えるのも、薬草を刻むのも、珍しいことではありませんでした」
「珍しくない?」
「屋敷には、いつも誰かしら具合の悪い者がいますから」
「侯爵家だぞ」
「ええ」
そこで少し、口元がゆるみそうになった。笑うような話ではないのに。
「でも、侯爵家であることと、手が足りていることは、別でしょう」
ヴィクトルの目が細くなる。
気を悪くしたのかと思ったが、違うらしい。ただ、今の言葉をそのまま受け取っている顔だった。
「誰がやらせた」
問いは短い。
エレノアはすぐには答えられなかった。
やらせた、と言えるほどはっきり命じられたことばかりではない。気づけば自分がしていた。しなければ回らないと思っていた。誰かに感謝されるためではなく、それがいちばん早く済むから。
「……誰が、というほどでは」
「自然にそうなったと?」
「そうです」
自分でもひどい答えだと思う。
けれど嘘ではない。
「最初は、見ているだけでした。けれど見ていると、どこが足りないか分かってしまって」
「だから手を出した」
「ええ」
「止める者はいなかったのか」
「いなかったわけではありません」
「だが、やめなかった」
「やめると余計に時間がかかりました」
口にしてから、それが普通の育ちの娘の返事ではないのだと自分で分かる。
ヴィクトルは少し顔を背け、窓のほうを見た。暗い硝子に雪の名残が薄く映っている。
「妙に慣れていると思った」
独り言みたいな声だった。
エレノアは何も言わない。
ヴィクトルは再びこちらを見る。
「兵の傷口を見た時も、洗い場の手を見た時も、お前は迷わなかった」
「……」
「貴族の娘がためらうところで、ためらわない」
その言葉は、褒めても責めてもいない。
ただ、自分の見た事実だけを置いている。
エレノアは指先をそっと握った。
「慣れたくて慣れたわけではありません」
「だろうな」
「でも、知らないふりをして育ったわけでもないの」
声が少し掠れた。
喉はもうだいぶましなはずなのに、この話をすると違うところが詰まる。
「そうか」
ヴィクトルはそれ以上、無理に聞き出さなかった。
その代わり、少し間を置いてから言う。
「お前のところには、普段つく者がいなかった」
「……はい」
「一人も?」
「ずっと、ではありません。時々は」
そこでエレノアは止まる。
「でも、長くは続きませんでした」
リネットの顔が頭に浮かぶ。
まだ名前までは口にしない。その一歩手前で、言葉が止まる。
ヴィクトルはそこも見逃さなかったらしい。だが今は踏み込まない。ただ短く頷く。
「分かった」
「……何が」
「お前がなぜ、あれほど自然に動くのか」
それだけ言って、ヴィクトルは扉へ向かった。
もう終わりなのだろうと思っていたら、手をかけたところで一度だけ振り返る。
「今はもう、ここで一人でやる必要はない」
「え?」
「聞こえなかったか」
「いえ……」
意味を飲み込むのに、少し時間がかかった。
慰めではない。
優しい言葉でもない。
けれど、あの人なりに線を引き直したのだと分かる。
エレノアはうまく返事ができず、ただ小さく頷いた。
ヴィクトルはそれ以上何も足さず、部屋を出ていく。
扉が閉まったあと、エレノアはしばらくそこに立ったままだった。
握った手の内側が、静かに熱い。
今まで誰かに「もうやらなくていい」と言われても、それはたいてい「手を出すな」と同じ意味だった。
けれど今のは、少し違う。
一人でやる必要はない。
その言い方だけが、火のそばみたいにじんわり残った。




