第22話
吹雪の夜から三日ほどで、エレノアの喉の痛みはだいぶ引いた。
医師からはまだ無理をするなと言われていたが、部屋の中だけにいるにはもう熱も重さも残っていない。外へ出るなとは言われていないことを、都合よく解釈することにした。
もっとも、洗い場へ顔を出した時のアグネスは、あからさまに眉をひそめた。
「今日は立っているだけにしてください」
「触らないわ」
「本当に?」
「たぶん」
「その返事を信用しろと仰るのなら、私もずいぶん甘いですね」
そう言いながらも、追い返しはしない。
北側四部屋の火は、結局そのまま続いていた。札も増えた。木板は洗い場だけでなく、下働き部屋の薪箱にも掛けられている。結び紐の意味も、今では夜番の娘たちが迷わず分かるようになっていた。
変わったのは小さなことばかりだ。
けれど、その小さなことを戻されなかっただけで、エレノアには十分だった。
その日の午後、マルタの部屋へ呼ばれた。
部屋の火は穏やかに保たれ、寝台の脇には湯の入った鉢と乾いた布が並んでいる。熱はもう下がっていたが、顔色はまだ本調子ではない。それでも目だけは、いつものように落ち着いていた。
「動けるようになったそうじゃないか」
「ええ。おかげさまで」
「私の、ですか」
「みんなの、ね」
マルタはそう言って、少し笑った。
「無茶をしたと聞きました」
「聞きました、ではないでしょう」
「あの人があんな顔で戻ってくるの、久しぶりに見ましたからねえ」
あの人、が誰かは聞かなくても分かる。
エレノアは少し視線を伏せた。
「怒っておられました」
「ええ、そりゃあもう」
「笑わないでください」
「笑っておりませんよ」
笑っているようにしか見えない顔で、マルタは咳をひとつこぼす。まだ胸に少し残っているらしい。
エレノアは寝台脇の薬卓へ手を伸ばしかけて、止めた。勝手に触るなとアグネスに言われる顔が浮かんだからだ。
その一瞬を、マルタは見逃さなかった。
「もう少し右へ寄せてもらえますか。布へ手が届きにくい」
「……ええ」
今度はためらわず、鉢と布を少し右へ寄せる。ついでに薬卓の上の湯飲みも、寝台の縁から落ちない位置へ直した。
マルタがそれを見て、静かに言う。
「慣れておいでですね」
「何に」
「熱の出た部屋へ入ることも、手の届く場所へ物を寄せることも」
エレノアは返事に詰まった。
その間に、扉の外で足音が止まる。女中かと思ったが、入ってきたのはヴィクトルだった。
思わず背筋が伸びる。
「邪魔をしたか」
「いえ」
答えたのはマルタだ。
「ちょうど、奥方様が物を直してくださっていたところですよ」
「……そうか」
ヴィクトルの目が、薬卓の位置へ落ちる。
元の置き方を知っているのだろう。少しずらしただけなのに、その違いを見たのが分かった。
エレノアは何でもない顔を装った。
「手が届きにくそうでしたので」
「気づくのだな」
「見れば分かることは」
「誰にでも分かるとは限らん」
短く返されて、エレノアは口を閉じる。
ヴィクトルは寝台のマルタへ二言三言、熱の具合と薬の時間を確かめた。それだけなら、いつも通りの見舞いだったのだろう。
だが部屋を出る時、扉のところで足を止める。
「お前は残れ」
エレノアは一瞬、マルタを見る。マルタは知らぬ顔で目を閉じていた。たぶん、知っている顔で。
廊下へ出ると、ヴィクトルはすぐには歩き出さなかった。
窓の外には、吹雪の名残の雪がまだ石壁の際に薄く残っている。空は晴れているのに、北辺の光は冷たい。
「マルタの部屋だけではないな」
唐突な言葉だった。
エレノアは視線を上げる。
ヴィクトルは窓の外を見たまま続ける。
「洗い場の火床。薪の入れ方。手の荒れた娘への膏の回し方」
「……」
「兵の傷口もそうだった」
指先がかすかに強張る。
問い詰める口調ではない。だが見ている。あの夜以来、前よりずっと。
ヴィクトルはゆっくりこちらへ向く。
「貴族の娘にしては、妙に慣れている」
その言い方は、非難ではなかった。けれど柔らかくもない。事実を置くだけの声だ。
エレノアは少し目を逸らした。
「少し知っているだけです」
「少し、か」
「薬草も、備蓄も、屋敷の仕事も」
「少しです」
自分でも苦しい返しだと分かる。
ヴィクトルはそれを分かった上で、すぐには追わなかった。ただ、しばらく黙っている。その沈黙が、妙に居心地悪い。
逃げるように言葉を足したのは、エレノアのほうだった。
「北辺へ来てから覚えたこともあります」
「来て数日で、か」
「……」
無理だった。
ごまかしきれない。洗い場の娘たちを見る目も、薪箱の中身へ手を入れる迷いのなさも、北辺に来てから身につく種類のものではない。
ヴィクトルは低く言う。
「何をしていた」
短い問いだった。
侯爵家で何をしていたのか。
どうしてそんなことを知っているのか。
どうしてあれほど自然に動けるのか。
全部をまとめて問う、短い声だった。
エレノアはすぐには答えられなかった。
廊下の先を、侍女が二人通っていく。二人とも、公爵の前で頭を下げ、そのまま足早に去った。静かな往来の中に、自分だけが足を止めている。
「言いたくないなら、それでもいい」
先にそう言ったのはヴィクトルだった。
意外で、顔を上げる。
彼は変わらない表情のままだ。
「だが、見えないふりをする気はない」
「……」
「お前は慣れすぎている」
その言葉は、まっすぐ届いた。
王都では、見えすぎることが厄介がられた。
ここでは逆に、慣れすぎていることが見抜かれる。
エレノアは指先をそっと握った。
まだ、全部を話す気にはなれない。
けれど、このまま黙り続けることも、もう難しかった。
「少しずつ、でも」
自分でも驚くほど小さな声が出る。
「お話ししたほうが、いいのでしょうか」
「必要なら聞く」
「必要」
「お前を見る時に、前提が狂う」
ヴィクトルらしい言い方だと思った。
優しさではない。慰めでもない。ただ、見誤らないために知りたいと言っているだけだ。
それなのに、その率直さが少しありがたかった。
エレノアは小さく息を吐く。
「今は、まだ……うまく言えません」
「そうか」
「でも、いつか」
「急がん」
短い返事だった。
ヴィクトルはそれで話を切り上げるつもりらしく、歩き出した。だが二歩進んだところで、ふと振り返る。
「マルタの部屋の湯飲み」
「え?」
「縁が欠けていた。お前が置き直した時、指が触れただろう」
思いがけないところを見られていて、エレノアは目を見開いた。
たしかに少し欠けていた。だから寝台の近くへ寄せすぎないように直したのだ。
「替えさせる」
「そんな、小さなこと」
「小さいから今のうちだ」
そう言って、ヴィクトルは今度こそ行ってしまう。
エレノアはその背を見送りながら、しばらく動けなかった。
見られている。
洗い場の火や、薬草の知識だけではなく、湯飲みの欠けまで。
そのことに少し戸惑う。少し、落ち着かない。けれど嫌ではなかった。
廊下の窓から差す光が、雪の白さを反射している。
エレノアはそっと自分の手を見た。指先の傷はもう浅く塞がりかけている。
次にあの人へ何を話すのか、まだ分からない。
けれど、隠し通せるとも思わなかった。




