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婚約者も功績も妹に奪われた私は、死ぬと噂の北辺公爵に嫁ぐことになりました 〜愛のない結婚のはずが、冷酷な夫は私を手放してくれない〜  作者: 師走
第6章 愛さないと言ったのに

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第22話

吹雪の夜から三日ほどで、エレノアの喉の痛みはだいぶ引いた。


医師からはまだ無理をするなと言われていたが、部屋の中だけにいるにはもう熱も重さも残っていない。外へ出るなとは言われていないことを、都合よく解釈することにした。


もっとも、洗い場へ顔を出した時のアグネスは、あからさまに眉をひそめた。


「今日は立っているだけにしてください」

「触らないわ」

「本当に?」

「たぶん」

「その返事を信用しろと仰るのなら、私もずいぶん甘いですね」


そう言いながらも、追い返しはしない。


北側四部屋の火は、結局そのまま続いていた。札も増えた。木板は洗い場だけでなく、下働き部屋の薪箱にも掛けられている。結び紐の意味も、今では夜番の娘たちが迷わず分かるようになっていた。


変わったのは小さなことばかりだ。


けれど、その小さなことを戻されなかっただけで、エレノアには十分だった。


その日の午後、マルタの部屋へ呼ばれた。


部屋の火は穏やかに保たれ、寝台の脇には湯の入った鉢と乾いた布が並んでいる。熱はもう下がっていたが、顔色はまだ本調子ではない。それでも目だけは、いつものように落ち着いていた。


「動けるようになったそうじゃないか」

「ええ。おかげさまで」

「私の、ですか」

「みんなの、ね」


マルタはそう言って、少し笑った。


「無茶をしたと聞きました」

「聞きました、ではないでしょう」

「あの人があんな顔で戻ってくるの、久しぶりに見ましたからねえ」


あの人、が誰かは聞かなくても分かる。


エレノアは少し視線を伏せた。


「怒っておられました」

「ええ、そりゃあもう」

「笑わないでください」

「笑っておりませんよ」


笑っているようにしか見えない顔で、マルタは咳をひとつこぼす。まだ胸に少し残っているらしい。


エレノアは寝台脇の薬卓へ手を伸ばしかけて、止めた。勝手に触るなとアグネスに言われる顔が浮かんだからだ。


その一瞬を、マルタは見逃さなかった。


「もう少し右へ寄せてもらえますか。布へ手が届きにくい」

「……ええ」


今度はためらわず、鉢と布を少し右へ寄せる。ついでに薬卓の上の湯飲みも、寝台の縁から落ちない位置へ直した。


マルタがそれを見て、静かに言う。


「慣れておいでですね」

「何に」

「熱の出た部屋へ入ることも、手の届く場所へ物を寄せることも」


エレノアは返事に詰まった。


その間に、扉の外で足音が止まる。女中かと思ったが、入ってきたのはヴィクトルだった。


思わず背筋が伸びる。


「邪魔をしたか」

「いえ」


答えたのはマルタだ。


「ちょうど、奥方様が物を直してくださっていたところですよ」

「……そうか」


ヴィクトルの目が、薬卓の位置へ落ちる。


元の置き方を知っているのだろう。少しずらしただけなのに、その違いを見たのが分かった。


エレノアは何でもない顔を装った。


「手が届きにくそうでしたので」

「気づくのだな」

「見れば分かることは」

「誰にでも分かるとは限らん」


短く返されて、エレノアは口を閉じる。


ヴィクトルは寝台のマルタへ二言三言、熱の具合と薬の時間を確かめた。それだけなら、いつも通りの見舞いだったのだろう。


だが部屋を出る時、扉のところで足を止める。


「お前は残れ」


エレノアは一瞬、マルタを見る。マルタは知らぬ顔で目を閉じていた。たぶん、知っている顔で。


廊下へ出ると、ヴィクトルはすぐには歩き出さなかった。


窓の外には、吹雪の名残の雪がまだ石壁の際に薄く残っている。空は晴れているのに、北辺の光は冷たい。


「マルタの部屋だけではないな」


唐突な言葉だった。


エレノアは視線を上げる。


ヴィクトルは窓の外を見たまま続ける。


「洗い場の火床。薪の入れ方。手の荒れた娘への膏の回し方」

「……」

「兵の傷口もそうだった」


指先がかすかに強張る。


問い詰める口調ではない。だが見ている。あの夜以来、前よりずっと。


ヴィクトルはゆっくりこちらへ向く。


「貴族の娘にしては、妙に慣れている」


その言い方は、非難ではなかった。けれど柔らかくもない。事実を置くだけの声だ。


エレノアは少し目を逸らした。


「少し知っているだけです」

「少し、か」

「薬草も、備蓄も、屋敷の仕事も」

「少しです」


自分でも苦しい返しだと分かる。


ヴィクトルはそれを分かった上で、すぐには追わなかった。ただ、しばらく黙っている。その沈黙が、妙に居心地悪い。


逃げるように言葉を足したのは、エレノアのほうだった。


「北辺へ来てから覚えたこともあります」

「来て数日で、か」

「……」


無理だった。


ごまかしきれない。洗い場の娘たちを見る目も、薪箱の中身へ手を入れる迷いのなさも、北辺に来てから身につく種類のものではない。


ヴィクトルは低く言う。


「何をしていた」


短い問いだった。


侯爵家で何をしていたのか。

どうしてそんなことを知っているのか。

どうしてあれほど自然に動けるのか。


全部をまとめて問う、短い声だった。


エレノアはすぐには答えられなかった。


廊下の先を、侍女が二人通っていく。二人とも、公爵の前で頭を下げ、そのまま足早に去った。静かな往来の中に、自分だけが足を止めている。


「言いたくないなら、それでもいい」


先にそう言ったのはヴィクトルだった。


意外で、顔を上げる。


彼は変わらない表情のままだ。


「だが、見えないふりをする気はない」

「……」

「お前は慣れすぎている」


その言葉は、まっすぐ届いた。


王都では、見えすぎることが厄介がられた。

ここでは逆に、慣れすぎていることが見抜かれる。


エレノアは指先をそっと握った。


まだ、全部を話す気にはなれない。

けれど、このまま黙り続けることも、もう難しかった。


「少しずつ、でも」

自分でも驚くほど小さな声が出る。

「お話ししたほうが、いいのでしょうか」

「必要なら聞く」

「必要」

「お前を見る時に、前提が狂う」


ヴィクトルらしい言い方だと思った。


優しさではない。慰めでもない。ただ、見誤らないために知りたいと言っているだけだ。


それなのに、その率直さが少しありがたかった。


エレノアは小さく息を吐く。


「今は、まだ……うまく言えません」

「そうか」

「でも、いつか」

「急がん」


短い返事だった。


ヴィクトルはそれで話を切り上げるつもりらしく、歩き出した。だが二歩進んだところで、ふと振り返る。


「マルタの部屋の湯飲み」

「え?」

「縁が欠けていた。お前が置き直した時、指が触れただろう」


思いがけないところを見られていて、エレノアは目を見開いた。


たしかに少し欠けていた。だから寝台の近くへ寄せすぎないように直したのだ。


「替えさせる」

「そんな、小さなこと」

「小さいから今のうちだ」


そう言って、ヴィクトルは今度こそ行ってしまう。


エレノアはその背を見送りながら、しばらく動けなかった。


見られている。


洗い場の火や、薬草の知識だけではなく、湯飲みの欠けまで。


そのことに少し戸惑う。少し、落ち着かない。けれど嫌ではなかった。


廊下の窓から差す光が、雪の白さを反射している。


エレノアはそっと自分の手を見た。指先の傷はもう浅く塞がりかけている。


次にあの人へ何を話すのか、まだ分からない。

けれど、隠し通せるとも思わなかった。

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