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婚約者も功績も妹に奪われた私は、死ぬと噂の北辺公爵に嫁ぐことになりました 〜愛のない結婚のはずが、冷酷な夫は私を手放してくれない〜  作者: 師走
第6章 愛さないと言ったのに

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第21話

目が覚めた時、部屋の空気は静かだった。


風の音も、昨夜ほど強くない。暖炉の火は落ち着いていて、毛布の内側にはまだ熱が残っている。喉は少し痛むが、胸まで落ちる感じはない。頭も、重いだけで回らないほどではなかった。


エレノアは薄く息をついた。


生きている、と思うのは大げさかもしれない。けれど昨夜の風の中を思い出すと、それだけで十分な気もした。


扉が叩かれる。


入ってきたのはアグネスだった。盆を持っている。湯気の立つ薄い粥と、薬草を落としたらしい湯、それに小皿が一つ。


「お目覚めですか」

「ええ」

「熱は」

「少しだるいくらい」

「では食べてください」


命令に近い言い方だった。


アグネスは盆を机ではなく、寝台の脇へ置く。昨日までなら「食事をお持ちしました」で終わっていただろう。今朝は違った。


「医師が、喉を冷やさぬようにと」

「ありがとう」

「礼は医師へ」


そう言いながらも、匙を取りやすい位置へ器を寄せる手つきは雑ではない。


エレノアは上体を起こそうとして、少し顔をしかめた。肩と腕が重い。雪の中で力んだせいだろう。


アグネスがすぐ言う。


「無理をしないで」

「……ええ」

「今日は東棟から出ないでください」

「命令?」

「お願いです」


その一言に、思わずアグネスを見る。


彼女は視線を逸らさなかった。


「昨夜のことで、これ以上仕事を増やされると困ります」

「そうね」

「本当にお分かりですか」

「たぶん」

「たぶん、では困るのです」


けれど声は、前みたいに冷たく突き放すだけではなかった。呆れが混じっている。ほんの少し、人に向ける声音になっている。


エレノアは粥をひと口すくった。


薄い味だ。だが喉にはやさしい。温かさが喉を過ぎ、体の内側へ落ちていく。


「マルタは」

「朝に少し汗をかきました」

「それは」

「悪くないと医師が」


それを聞いて、ようやく肩の力が抜けた。


アグネスは小皿の上の膏を指した。


「手は食後に塗ってください。切り傷は浅いですが、冷えたところへまた風を入れると面倒です」

「私のために?」

「あなたが熱を上げれば、また公爵様が面倒になります」


答えはぶっきらぼうだった。


だがその言い方を、エレノアはそのまま受け取らなかった。面倒であっても、放ってはおかれない位置にはいたのだと分かるからだ。


アグネスが下がったあと、粥を半分ほど食べたところで、廊下の向こうが少しざわついた。


人が走る音ではない。立ち止まり、頭を下げる気配が連なる時の空気だ。


エレノアは匙を置く。


すぐに扉が叩かれた。


一拍置いてから、「入るぞ」と低い声が落ちる。


ヴィクトルだった。


昨日と違い、今日はきちんと整えた上着を着ている。けれど外套はまだ肩にかけたままで、朝の見回りの途中らしかった。扉の内側へ入っても、あまり部屋の奥までは来ない。


エレノアは慌てて起き上がろうとした。


「そのままでいい」


先に言われ、動きが止まる。


ヴィクトルの目が、まず机の盆、そのあと毛布の上の手元へ落ちた。切り傷に巻かれた布、膏の小皿、半分ほど減った粥。まるで報告書でも読むみたいに、一つずつ確かめる。


「熱は」

「高くはありません」

「喉は」

「少し」

「咳は」

「出ていません」


問いが短い。


それに答えるたび、部屋の中の空気が少しずつ整っていった。


ヴィクトルは頷いた。


「医師も同じことを言っていた」

「そうですか」

「今日は休め」

「……はい」


昨日、無茶をした相手にかける言葉としては、ごく当然なのだろう。けれどエレノアは少し返事に迷った。素直に従うと言うだけで、なぜか息がうまく収まらない。


ヴィクトルはその迷いを見たのか、目を細める。


「何だ」

「いえ」

「言え」

「洗い場だけでも」

「だめだ」


ぴたりと返される。


エレノアは唇を閉じた。


ヴィクトルは少し間を置き、それから続けた。


「北側四部屋の配分は、そのまま三日見ろとオズウィンへ言ってある」

「……」

「アグネスも動く」

「そう、なのですね」

「だから今日は出るな」


驚きが顔に出たのかもしれない。


ヴィクトルはかすかに眉を寄せた。


「何だ」

「いえ……そこまでしていただけるとは」

「必要だからだ」

「必要」

「結果が出たものを、いちいち戻す意味がない」


その通りだった。


冷たいくらい筋の通った言い方なのに、それが今は妙にありがたい。


エレノアは毛布の上で指を握った。


「ありがとうございます」

「礼はいらん」

「でも」

「お前の案だ。お前が寝込んだせいで止まるほうが無駄だ」


言われていることは、相変わらず情ではない。


それでも、昨日までならここまで言葉を足さなかったはずだと思ってしまう。


ヴィクトルは踵を返しかけ、そこでふと止まった。


「マルタは昼には目を覚ますだろう」

「……はい」

「会わせるかどうかは、その時の熱で決める」


そこまで言ってから、彼はようやくエレノアをまっすぐ見た。


昨日より少し長い視線だった。


何かを測るようで、昨日みたいな怒りはもうない。ただ、まだ名前のつかないものを見ている目だ。


エレノアはその視線を受けて、なぜか落ち着かない。


「公爵様」

「何だ」

「昨日は……」

「蒸し返すな」


それだけで、続きは切られた。


謝ろうとしたのか、礼を言おうとしたのか、自分でも分からないまま口を閉じる。


ヴィクトルは扉へ向かう。


だが出る前に、一度だけ言った。


「次からは、見つけられるなら先に言え」

「……はい」

「一人で行くな」

「はい」

「本当に分かったのか」

「たぶん」

「お前はそればかりだな」


低い声だったが、昨日のような鋭さはなかった。


ヴィクトルが出ていくと、扉の外で控えていた侍従たちの気配が動く。誰も中を覗こうとはしない。けれど、公爵が夫人の部屋へ入っていた事実だけは、廊下に残るだろう。


エレノアはそのことを思い、少し頬が熱くなるのを感じた。


熱のせいだと思うことにした。


昼前、医師がもう一度診に来た。


喉を見られ、脈を取られ、無理に動くなと念を押される。去り際、医師は何気ない顔で言った。


「公爵様が朝から二度も様子を聞かれましたゆえ」

「……え」

「熱が上がらぬなら仕事へ戻ると申したのは私です。そうでなければ、まだここにおられたやもしれませんな」


そう言って医師は出ていった。


エレノアは一人、寝台の上で固まる。


二度。


確かに、最初は医師づてに様子を聞くのが普通だろう。わざわざ部屋へ来る必要はなかったはずだ。


けれど、朝に来た。

熱を聞いた。

喉を聞いた。

咳まで。


そのことを意識した途端、昨夜の「信じていなければ、連れ戻していない」という声が耳へ戻る。


落ち着かなくて、粥の器へ手を伸ばす。もう冷めかけていた。


昼を過ぎる頃、マルタの部屋から「目を覚まされました」という知らせが届いた。


会わせるかどうかは様子を見て、と言われていたので、エレノアはすぐには行かなかった。行きたい気持ちはあったが、アグネスの顔が浮かんだからだ。


そのかわり、夕刻近くにマルタの侍女が小さな包みを持ってきた。


「マルタ様からです」

「私に?」

「はい。目を覚まされて一番に」


包みの中には、少し乾いた霜鈴草の葉が一枚だけ入っていた。昨夜使い残したものだろう。葉先はくたびれているのに、銀色だけはまだきれいに残っている。


札も手紙もない。


ただ、それだけで十分すぎた。


エレノアは葉をそっと指に乗せる。


助かったのだと、そこでやっと実感が湧く。


窓の外では、昨日の吹雪が嘘みたいに空が澄んでいた。雪は屋根の端に薄く残り、風もだいぶ静かだ。


屋敷の中の人の足音はいつも通り忙しい。

洗い場も動いているだろう。

ヴィクトルも、もう仕事へ戻っている。


何も大きくは変わっていない。


それでも、昨日までより少し、この屋敷の空気が冷たすぎない。

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