第21話
目が覚めた時、部屋の空気は静かだった。
風の音も、昨夜ほど強くない。暖炉の火は落ち着いていて、毛布の内側にはまだ熱が残っている。喉は少し痛むが、胸まで落ちる感じはない。頭も、重いだけで回らないほどではなかった。
エレノアは薄く息をついた。
生きている、と思うのは大げさかもしれない。けれど昨夜の風の中を思い出すと、それだけで十分な気もした。
扉が叩かれる。
入ってきたのはアグネスだった。盆を持っている。湯気の立つ薄い粥と、薬草を落としたらしい湯、それに小皿が一つ。
「お目覚めですか」
「ええ」
「熱は」
「少しだるいくらい」
「では食べてください」
命令に近い言い方だった。
アグネスは盆を机ではなく、寝台の脇へ置く。昨日までなら「食事をお持ちしました」で終わっていただろう。今朝は違った。
「医師が、喉を冷やさぬようにと」
「ありがとう」
「礼は医師へ」
そう言いながらも、匙を取りやすい位置へ器を寄せる手つきは雑ではない。
エレノアは上体を起こそうとして、少し顔をしかめた。肩と腕が重い。雪の中で力んだせいだろう。
アグネスがすぐ言う。
「無理をしないで」
「……ええ」
「今日は東棟から出ないでください」
「命令?」
「お願いです」
その一言に、思わずアグネスを見る。
彼女は視線を逸らさなかった。
「昨夜のことで、これ以上仕事を増やされると困ります」
「そうね」
「本当にお分かりですか」
「たぶん」
「たぶん、では困るのです」
けれど声は、前みたいに冷たく突き放すだけではなかった。呆れが混じっている。ほんの少し、人に向ける声音になっている。
エレノアは粥をひと口すくった。
薄い味だ。だが喉にはやさしい。温かさが喉を過ぎ、体の内側へ落ちていく。
「マルタは」
「朝に少し汗をかきました」
「それは」
「悪くないと医師が」
それを聞いて、ようやく肩の力が抜けた。
アグネスは小皿の上の膏を指した。
「手は食後に塗ってください。切り傷は浅いですが、冷えたところへまた風を入れると面倒です」
「私のために?」
「あなたが熱を上げれば、また公爵様が面倒になります」
答えはぶっきらぼうだった。
だがその言い方を、エレノアはそのまま受け取らなかった。面倒であっても、放ってはおかれない位置にはいたのだと分かるからだ。
アグネスが下がったあと、粥を半分ほど食べたところで、廊下の向こうが少しざわついた。
人が走る音ではない。立ち止まり、頭を下げる気配が連なる時の空気だ。
エレノアは匙を置く。
すぐに扉が叩かれた。
一拍置いてから、「入るぞ」と低い声が落ちる。
ヴィクトルだった。
昨日と違い、今日はきちんと整えた上着を着ている。けれど外套はまだ肩にかけたままで、朝の見回りの途中らしかった。扉の内側へ入っても、あまり部屋の奥までは来ない。
エレノアは慌てて起き上がろうとした。
「そのままでいい」
先に言われ、動きが止まる。
ヴィクトルの目が、まず机の盆、そのあと毛布の上の手元へ落ちた。切り傷に巻かれた布、膏の小皿、半分ほど減った粥。まるで報告書でも読むみたいに、一つずつ確かめる。
「熱は」
「高くはありません」
「喉は」
「少し」
「咳は」
「出ていません」
問いが短い。
それに答えるたび、部屋の中の空気が少しずつ整っていった。
ヴィクトルは頷いた。
「医師も同じことを言っていた」
「そうですか」
「今日は休め」
「……はい」
昨日、無茶をした相手にかける言葉としては、ごく当然なのだろう。けれどエレノアは少し返事に迷った。素直に従うと言うだけで、なぜか息がうまく収まらない。
ヴィクトルはその迷いを見たのか、目を細める。
「何だ」
「いえ」
「言え」
「洗い場だけでも」
「だめだ」
ぴたりと返される。
エレノアは唇を閉じた。
ヴィクトルは少し間を置き、それから続けた。
「北側四部屋の配分は、そのまま三日見ろとオズウィンへ言ってある」
「……」
「アグネスも動く」
「そう、なのですね」
「だから今日は出るな」
驚きが顔に出たのかもしれない。
ヴィクトルはかすかに眉を寄せた。
「何だ」
「いえ……そこまでしていただけるとは」
「必要だからだ」
「必要」
「結果が出たものを、いちいち戻す意味がない」
その通りだった。
冷たいくらい筋の通った言い方なのに、それが今は妙にありがたい。
エレノアは毛布の上で指を握った。
「ありがとうございます」
「礼はいらん」
「でも」
「お前の案だ。お前が寝込んだせいで止まるほうが無駄だ」
言われていることは、相変わらず情ではない。
それでも、昨日までならここまで言葉を足さなかったはずだと思ってしまう。
ヴィクトルは踵を返しかけ、そこでふと止まった。
「マルタは昼には目を覚ますだろう」
「……はい」
「会わせるかどうかは、その時の熱で決める」
そこまで言ってから、彼はようやくエレノアをまっすぐ見た。
昨日より少し長い視線だった。
何かを測るようで、昨日みたいな怒りはもうない。ただ、まだ名前のつかないものを見ている目だ。
エレノアはその視線を受けて、なぜか落ち着かない。
「公爵様」
「何だ」
「昨日は……」
「蒸し返すな」
それだけで、続きは切られた。
謝ろうとしたのか、礼を言おうとしたのか、自分でも分からないまま口を閉じる。
ヴィクトルは扉へ向かう。
だが出る前に、一度だけ言った。
「次からは、見つけられるなら先に言え」
「……はい」
「一人で行くな」
「はい」
「本当に分かったのか」
「たぶん」
「お前はそればかりだな」
低い声だったが、昨日のような鋭さはなかった。
ヴィクトルが出ていくと、扉の外で控えていた侍従たちの気配が動く。誰も中を覗こうとはしない。けれど、公爵が夫人の部屋へ入っていた事実だけは、廊下に残るだろう。
エレノアはそのことを思い、少し頬が熱くなるのを感じた。
熱のせいだと思うことにした。
昼前、医師がもう一度診に来た。
喉を見られ、脈を取られ、無理に動くなと念を押される。去り際、医師は何気ない顔で言った。
「公爵様が朝から二度も様子を聞かれましたゆえ」
「……え」
「熱が上がらぬなら仕事へ戻ると申したのは私です。そうでなければ、まだここにおられたやもしれませんな」
そう言って医師は出ていった。
エレノアは一人、寝台の上で固まる。
二度。
確かに、最初は医師づてに様子を聞くのが普通だろう。わざわざ部屋へ来る必要はなかったはずだ。
けれど、朝に来た。
熱を聞いた。
喉を聞いた。
咳まで。
そのことを意識した途端、昨夜の「信じていなければ、連れ戻していない」という声が耳へ戻る。
落ち着かなくて、粥の器へ手を伸ばす。もう冷めかけていた。
昼を過ぎる頃、マルタの部屋から「目を覚まされました」という知らせが届いた。
会わせるかどうかは様子を見て、と言われていたので、エレノアはすぐには行かなかった。行きたい気持ちはあったが、アグネスの顔が浮かんだからだ。
そのかわり、夕刻近くにマルタの侍女が小さな包みを持ってきた。
「マルタ様からです」
「私に?」
「はい。目を覚まされて一番に」
包みの中には、少し乾いた霜鈴草の葉が一枚だけ入っていた。昨夜使い残したものだろう。葉先はくたびれているのに、銀色だけはまだきれいに残っている。
札も手紙もない。
ただ、それだけで十分すぎた。
エレノアは葉をそっと指に乗せる。
助かったのだと、そこでやっと実感が湧く。
窓の外では、昨日の吹雪が嘘みたいに空が澄んでいた。雪は屋根の端に薄く残り、風もだいぶ静かだ。
屋敷の中の人の足音はいつも通り忙しい。
洗い場も動いているだろう。
ヴィクトルも、もう仕事へ戻っている。
何も大きくは変わっていない。
それでも、昨日までより少し、この屋敷の空気が冷たすぎない。




