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婚約者も功績も妹に奪われた私は、死ぬと噂の北辺公爵に嫁ぐことになりました 〜愛のない結婚のはずが、冷酷な夫は私を手放してくれない〜  作者: 師走
第5章 吹雪の夜に

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閑話

ルタの熱が少し落ち着いたと聞いたのは、夜半を回ってからだった。


医師はようやく深く息をつき、薬卓の上を片づけながら言った。


「胸の音が変わりました。今夜を越えられれば、山は一つ越えるかと」

「そうか」


ヴィクトルはそれだけ返した。


薬卓の端には、摘みたての霜鈴草がまだ少し残っている。雪に濡れた葉は青黒く、乾燥したものより匂いが強い。医師が刻んだあとの端葉をつまむと、冷たい香りが指先へ残った。


あの女の籠から出てきた時と同じ匂いだった。


「奥方様はお休みになりました」

アグネスが低く告げる。

「熱は」

「少し。ですが医師は、冷えを戻したぶんだろうと」

「手は」

「切り傷は浅く、凍傷には至っておりません」

「……そうか」


アグネスは一礼して下がった。


部屋の中には、火の音とマルタの呼吸だけが残る。先ほどまでの苦しい胸鳴りは薄れていた。浅いが、落ち着いている。


ヴィクトルは寝台の脇へ寄った。


マルタは目を閉じたままだ。頬にはまだ熱が残っている。だが、死にそうな色ではなくなっていた。


「まったく……」


掠れた声が落ちる。


目を開けたのではない。熱に浮かされたまま、口元だけがかすかに動く。


「お前のほうの……奥方様も、難儀だねえ」

「聞こえているなら寝ていろ」

「ふふ」


笑ったのか咳いたのか、曖昧な息がこぼれる。


ヴィクトルは眉を寄せた。


「黙れ」

「昔から……助けられるもの、見捨てない子は……損をするよ」


その言葉に、返事はしなかった。


マルタはもう眠りへ戻りかけている。これ以上問うても意味はない。ヴィクトルは踵を返し、部屋を出た。


廊下は静かだった。


風はまだ鳴っている。だが、屋敷の戸はすべて閉まり、火の見回りも一段落したらしい。使用人たちの足音はまばらだ。


自室へ戻る途中、東棟の前で足を止めた。


無意識だった。


灯りは落とされている。だが、一つだけまだ火の色が薄く揺れる部屋がある。あの女の部屋だ。


行くつもりはなかった。


なのに足が向いた。


扉の前には年若い女中が控えていた。気配に気づいて慌てて頭を下げる。


「公爵様」

「寝たのか」

「はい。先ほどようやく」

「熱は」

「高くはございません。ただ、喉が」

「医師は」

「夜明け前にもう一度と」


ヴィクトルは頷いた。


扉の向こうからは何も聞こえない。咳も寝返りもない。ただ火の小さな音だけが、薄く板を隔てて届く。


昼間までなら、ここで引き返していた。


妻が熱を出そうと、医師と女中に任せればいい。そういう距離でよかったはずだった。


――私に取り入るためにしては度が過ぎている。


自分の言葉が、妙に生々しく耳へ戻る。


あの時は本気でそう思った。


この家へ来てまだ幾日も経たぬ女が、屋敷の古参を救うために命がけの真似をすると言われて、素直に信じられるはずがなかった。王都から来る縁談に、裏がないはずがない。


泣くか。媚びるか。欲しがるか。


そういうものだと思っていた。


だから止めた。


命令までした。


なのに、あの女は出た。


戻ってきた時、腕の中で抱えた籠は軽かった。軽いのに、その中の葉だけは間違いなく霜鈴草だった。吹雪の石垣際でしか取れない、あの銀色の葉。しかも傷めず、一握りきっちり。


芝居では取れない。

気まぐれでも無理だ。

取り入るために、あの風へ出る人間はいない。


ヴィクトルは無意識に右手を握った。


抱え上げた時の感触が、まだ残っていると思った。外套ごと冷えきっていたのに、籠だけは胸へ抱えて離さなかった。あの時最初に口にしたのは、自分の寒さでも恐怖でもなく、「ありました」だった。


見つけてきたものを差し出す声だった。


それが妙に腹立たしかった。


自分の命の重さより先に、他人へ渡すものを守っている。


馬鹿だと思った。

同時に、あれを馬鹿の一言で片づけるのも違うと分かった。


扉の向こうを見たまま、ヴィクトルは低く言った。


「目が覚めたら」

女中がびくりと肩を揺らす。

「医師より先に報告しろ」

「は、はい」

「熱が上がってもだ」

「承知いたしました」


それだけ命じて、今度こそ踵を返した。


自室へ戻ると、机の上にまだ濡れた手袋が置かれていた。先ほど替えさせたものだろう。指先に、うっすら血がついている。あの女のひとさし指を切った時のものだ。


ヴィクトルはそれを見下ろした。


侯爵家の長女。

北辺の花嫁。

必要があって迎えた妻。


そのどれも間違っていない。


それなのに、どれにも収まらないものがある。


兵の傷を見て押さえる位置を口にした時もそうだった。

洗い場の火を持たせたとアグネスが言ってきた時も、少し引っかかった。

だが今夜で、ようやく分かった。


あれは善人ぶっているのではない。

役に立つふりをしているのでもない。

あの女は、見えてしまうのだ。

綻びも、足りないものも、助けられるかどうかも。


見えて、手が届くなら、たぶん止まれない。


ヴィクトルは椅子へ座り、濡れた手袋のそばに置かれた霜鈴草の残り葉を一枚つまんだ。


冷たい香りが立つ。


扉の外では風がまだ鳴っていた。いつもと変わらぬ冬前の音だ。なのに今夜は、その音の向こうに東棟の灯りが残っているのが気になった。


しばらくして、侍従が一人、報告のために入ってきた。


「公爵様、北側四部屋の見回りを終えました」

「何かあったか」

「いえ。火は保っております」


ヴィクトルは顔を上げた。


「北側四部屋?」

「はい。少し前から、女中頭が夜の配分を見直していると」

「誰の判断だ」

「女中頭と……奥方様のご助言があったと聞いております」


侍従はそう言ってから、失言だったと思ったのか目を伏せた。


ヴィクトルは何も言わなかった。


火は保っている。


その一言だけが、妙に残った。


人目につかない北側四部屋。

立場の低い使用人たちの部屋。

そこにだけ先に手が入っている。


取り入る相手が違う。


いや、相手ではないのかもしれない。


ヴィクトルは侍従を下がらせ、ひとりになった部屋でしばらく動かなかった。


暖炉の火が細く鳴る。


机の上の霜鈴草は、まだ青い匂いを失っていない。あの女の声も残っている。


――助けられると分かっていて、見ているだけだったら、自分を嫌いになるからです。


そういう人間を、ヴィクトルは知らなかったわけではない。

だが自分の妻に当てはめたことはなかった。


最初から、見誤っていたのだ。


その事実だけが、今はどうしようもなくはっきりしていた。


窓の外で風が壁を叩く。


ヴィクトルは机の上の手袋から目を外し、東棟の方角へ一度だけ視線を向けた。


今夜はもう、あの女を無関心のままには見られなかった。

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