閑話
ルタの熱が少し落ち着いたと聞いたのは、夜半を回ってからだった。
医師はようやく深く息をつき、薬卓の上を片づけながら言った。
「胸の音が変わりました。今夜を越えられれば、山は一つ越えるかと」
「そうか」
ヴィクトルはそれだけ返した。
薬卓の端には、摘みたての霜鈴草がまだ少し残っている。雪に濡れた葉は青黒く、乾燥したものより匂いが強い。医師が刻んだあとの端葉をつまむと、冷たい香りが指先へ残った。
あの女の籠から出てきた時と同じ匂いだった。
「奥方様はお休みになりました」
アグネスが低く告げる。
「熱は」
「少し。ですが医師は、冷えを戻したぶんだろうと」
「手は」
「切り傷は浅く、凍傷には至っておりません」
「……そうか」
アグネスは一礼して下がった。
部屋の中には、火の音とマルタの呼吸だけが残る。先ほどまでの苦しい胸鳴りは薄れていた。浅いが、落ち着いている。
ヴィクトルは寝台の脇へ寄った。
マルタは目を閉じたままだ。頬にはまだ熱が残っている。だが、死にそうな色ではなくなっていた。
「まったく……」
掠れた声が落ちる。
目を開けたのではない。熱に浮かされたまま、口元だけがかすかに動く。
「お前のほうの……奥方様も、難儀だねえ」
「聞こえているなら寝ていろ」
「ふふ」
笑ったのか咳いたのか、曖昧な息がこぼれる。
ヴィクトルは眉を寄せた。
「黙れ」
「昔から……助けられるもの、見捨てない子は……損をするよ」
その言葉に、返事はしなかった。
マルタはもう眠りへ戻りかけている。これ以上問うても意味はない。ヴィクトルは踵を返し、部屋を出た。
廊下は静かだった。
風はまだ鳴っている。だが、屋敷の戸はすべて閉まり、火の見回りも一段落したらしい。使用人たちの足音はまばらだ。
自室へ戻る途中、東棟の前で足を止めた。
無意識だった。
灯りは落とされている。だが、一つだけまだ火の色が薄く揺れる部屋がある。あの女の部屋だ。
行くつもりはなかった。
なのに足が向いた。
扉の前には年若い女中が控えていた。気配に気づいて慌てて頭を下げる。
「公爵様」
「寝たのか」
「はい。先ほどようやく」
「熱は」
「高くはございません。ただ、喉が」
「医師は」
「夜明け前にもう一度と」
ヴィクトルは頷いた。
扉の向こうからは何も聞こえない。咳も寝返りもない。ただ火の小さな音だけが、薄く板を隔てて届く。
昼間までなら、ここで引き返していた。
妻が熱を出そうと、医師と女中に任せればいい。そういう距離でよかったはずだった。
――私に取り入るためにしては度が過ぎている。
自分の言葉が、妙に生々しく耳へ戻る。
あの時は本気でそう思った。
この家へ来てまだ幾日も経たぬ女が、屋敷の古参を救うために命がけの真似をすると言われて、素直に信じられるはずがなかった。王都から来る縁談に、裏がないはずがない。
泣くか。媚びるか。欲しがるか。
そういうものだと思っていた。
だから止めた。
命令までした。
なのに、あの女は出た。
戻ってきた時、腕の中で抱えた籠は軽かった。軽いのに、その中の葉だけは間違いなく霜鈴草だった。吹雪の石垣際でしか取れない、あの銀色の葉。しかも傷めず、一握りきっちり。
芝居では取れない。
気まぐれでも無理だ。
取り入るために、あの風へ出る人間はいない。
ヴィクトルは無意識に右手を握った。
抱え上げた時の感触が、まだ残っていると思った。外套ごと冷えきっていたのに、籠だけは胸へ抱えて離さなかった。あの時最初に口にしたのは、自分の寒さでも恐怖でもなく、「ありました」だった。
見つけてきたものを差し出す声だった。
それが妙に腹立たしかった。
自分の命の重さより先に、他人へ渡すものを守っている。
馬鹿だと思った。
同時に、あれを馬鹿の一言で片づけるのも違うと分かった。
扉の向こうを見たまま、ヴィクトルは低く言った。
「目が覚めたら」
女中がびくりと肩を揺らす。
「医師より先に報告しろ」
「は、はい」
「熱が上がってもだ」
「承知いたしました」
それだけ命じて、今度こそ踵を返した。
自室へ戻ると、机の上にまだ濡れた手袋が置かれていた。先ほど替えさせたものだろう。指先に、うっすら血がついている。あの女のひとさし指を切った時のものだ。
ヴィクトルはそれを見下ろした。
侯爵家の長女。
北辺の花嫁。
必要があって迎えた妻。
そのどれも間違っていない。
それなのに、どれにも収まらないものがある。
兵の傷を見て押さえる位置を口にした時もそうだった。
洗い場の火を持たせたとアグネスが言ってきた時も、少し引っかかった。
だが今夜で、ようやく分かった。
あれは善人ぶっているのではない。
役に立つふりをしているのでもない。
あの女は、見えてしまうのだ。
綻びも、足りないものも、助けられるかどうかも。
見えて、手が届くなら、たぶん止まれない。
ヴィクトルは椅子へ座り、濡れた手袋のそばに置かれた霜鈴草の残り葉を一枚つまんだ。
冷たい香りが立つ。
扉の外では風がまだ鳴っていた。いつもと変わらぬ冬前の音だ。なのに今夜は、その音の向こうに東棟の灯りが残っているのが気になった。
しばらくして、侍従が一人、報告のために入ってきた。
「公爵様、北側四部屋の見回りを終えました」
「何かあったか」
「いえ。火は保っております」
ヴィクトルは顔を上げた。
「北側四部屋?」
「はい。少し前から、女中頭が夜の配分を見直していると」
「誰の判断だ」
「女中頭と……奥方様のご助言があったと聞いております」
侍従はそう言ってから、失言だったと思ったのか目を伏せた。
ヴィクトルは何も言わなかった。
火は保っている。
その一言だけが、妙に残った。
人目につかない北側四部屋。
立場の低い使用人たちの部屋。
そこにだけ先に手が入っている。
取り入る相手が違う。
いや、相手ではないのかもしれない。
ヴィクトルは侍従を下がらせ、ひとりになった部屋でしばらく動かなかった。
暖炉の火が細く鳴る。
机の上の霜鈴草は、まだ青い匂いを失っていない。あの女の声も残っている。
――助けられると分かっていて、見ているだけだったら、自分を嫌いになるからです。
そういう人間を、ヴィクトルは知らなかったわけではない。
だが自分の妻に当てはめたことはなかった。
最初から、見誤っていたのだ。
その事実だけが、今はどうしようもなくはっきりしていた。
窓の外で風が壁を叩く。
ヴィクトルは机の上の手袋から目を外し、東棟の方角へ一度だけ視線を向けた。
今夜はもう、あの女を無関心のままには見られなかった。




