第20話
気がつくと、熱と冷えが一度に押し寄せていた。
体の芯はまだ外の風を抱えたままなのに、頬と指先だけが焼けるみたいに痛い。誰かが外套をほどいている気配がして、エレノアは薄く目を開けた。
見慣れない部屋だった。
狭いが暖炉の火が近い。寝台ではなく長椅子に横たえられていて、膝には厚い毛布が何枚も掛けられている。濡れた頭巾が外され、髪の先から冷たい雫が首へ落ちた。
「起きたか」
低い声に顔を向ける。
ヴィクトルがいた。
外套は脱いでいるが、肩や袖口はまだ濡れている。髪にも溶けかけた雪が残っていた。さっきまで外にいたままの顔で、こちらを見下ろしている。
エレノアは起き上がろうとして、腕に力が入らないことに気づいた。
「動くな」
短く言われ、また長椅子へ沈む。
喉はひどく痛んだ。それでも、先に出たのは別の言葉だった。
「マルタは」
「医師のところだ」
「霜鈴草は」
「届いた」
それで少し息が抜ける。
だが安堵した瞬間、指先がずきりと痛んだ。見れば、両手の手袋は外され、指に湯気の立つ布が巻かれている。ひとさし指の先には、浅い切り傷が赤く滲んでいた。
女中が一人、湯を張った鉢を持ってそばに控えている。もう一人は新しい布を温めているところだった。
「奥方様、少ししみます」
「……ええ」
返事をすると、温めた布が手へ当てられる。
熱い、と思った次の瞬間に、凍えていた感覚が一気に戻ってきた。指先の骨まで痛むみたいで、思わず息を呑む。
「強すぎる」
ヴィクトルの声に、女中が肩を跳ねさせる。
「申し訳ありません」
「急に熱を入れるな。ぬるいものからだ」
「は、はい」
言い方はきつい。だが怒鳴るのではなく、きちんと見ている声だった。
エレノアは顔を上げた。
「公爵様」
「しゃべるな」
「霜鈴草、潰す前に、少し酒を」
「……」
ヴィクトルの眉が動く。
エレノアは掠れた声で続けた。
「葉をそのまま湯へ落とすより、少し叩いてからのほうが、早く出ます」
「医師には伝えた」
「そう……」
また息が抜ける。
それ以上はもう言葉にならなかった。疲れたのか、緊張が切れたのか、自分でも分からない。瞼が重い。けれど意識を落とす前に、扉が開く音がした。
医師だ。
頬に熱をのせたまま入ってくると、エレノアへ一礼し、それからヴィクトルへ向き直る。
「ひとまず胸の鳴りは少し落ち着きました」
ヴィクトルの目が細くなる。
「少し、か」
「今夜を越えるまではまだ何とも。ただ、霜鈴草が間に合わねばもっときつかったでしょう」
その言葉が部屋に落ちた瞬間、誰もすぐには口を開かなかった。
女中たちの手まで止まりそうになって、慌てて動き出す。
エレノアは長椅子の上で目を閉じた。
間に合った。
それだけで、全身の力が抜けそうになる。
「奥方様はお休みを」
医師が近づき、脈を取る。
「熱は上がるかもしれません。喉も冷えております」
「この程度、なら」
「この程度で済ませることではありません」
珍しく強い口調で言われ、エレノアは少し目を開けた。
医師は呆れたように眉を寄せている。
「外へ出た時間が短かったのが救いです。あと少し遅ければ、あなたまで熱を出しておりました」
「……そうですか」
「そうですとも」
そこで医師は、ちらりとヴィクトルを見た。
「今夜は温かいものを少しずつ。眠らせたほうがよろしいでしょう」
「分かった」
「指先は無理に擦らぬよう」
「分かっている」
医師が去ると、部屋はまた静かになった。
火の音と、湯の中で布が絞られる音だけが残る。
女中たちもやがて下がり、最後にはヴィクトルとエレノアだけになった。扉の向こうには人の気配がある。完全な二人きりではない。けれど、この部屋の中だけは不思議なほど静かだった。
エレノアは毛布の端を少し握る。
先に口を開いたのは、ヴィクトルだった。
「命令したはずだ」
低い声だった。
責め立てるわけではない。だが、そのほうがきつい。
エレノアは目を伏せた。
「……はい」
「聞こえていなかったのか」
「聞こえていました」
「ならなぜ出た」
返す言葉は、もう決まっていた。
「見つけられると思ったからです」
「思った、で死ぬつもりだったのか」
「死ぬつもりはありません」
「結果の話をしている」
そこで初めて、エレノアは顔を上げた。
ヴィクトルの表情はほとんど動いていない。なのに、怒っているのが分かる。火の前に立っているのに、その目だけは外の風みたいに冷えていた。
「……ご迷惑をおかけしました」
「そういう話ではない」
切るように言われる。
エレノアは唇を閉じた。
何を言えばいいのか分からなかった。謝るしかないと思ったのに、それも違うらしい。
ヴィクトルは一歩だけ近づいた。
「なぜそこまでする」
「……」
「マルタはお前の身内でもない」
「分かっています」
「この屋敷へ来て、まだ幾日も経っていない」
「それも」
「ならなぜだ」
同じ問いなのに、今度は少し違った。
怒りのまま投げるのではなく、本当に分からないものを見ている声だった。
エレノアは毛布の上で指を握る。痛みがまだ戻りきらないせいで、うまく力が入らない。
それでも言った。
「助けられると分かっていて」
喉がかすれて、少し咳き込む。
「見ているだけだったら、自分を嫌いになるからです」
ヴィクトルは黙った。
エレノアも、それ以上うまく続けられない。うまく言おうとすると、何かが嘘になる。
「公爵様の気を引きたいわけではありません」
「……」
「信じていただけなくても、構いません。でも、あの時行かなければ、たぶん私は」
そこで言葉が切れる。
嫌いになる。
許せなくなる。
どちらも本当なのに、口にすると急に安っぽく聞こえる気がして、続けられなかった。
ヴィクトルは長いこと何も言わなかった。
暖炉の火が、小さく爆ぜる。
やがて、ひどく低い声で言う。
「信じていなければ、連れ戻していない」
エレノアは思わず目を開けた。
ヴィクトルは視線をそらさなかった。
「籠を見た。葉も見た。お前の手も」
「……」
「取り入るための芝居で、あそこまで行く人間はいない」
その言い方は、不器用なくらい真っ直ぐだった。
謝罪でもない。
優しさでもない。
ただ、見誤りを見誤りのままにしなかった言葉だった。
エレノアの喉が、別の意味で熱くなる。
王都では、見たものまでなかったことにされた。帳簿も、婚約も、役目も。ここでは違う。ただ事実だけが、事実として置かれる。
それだけなのに、喉の奥がひどく揺れた。
「……そうですか」
「そうだ」
短い返答だった。
ヴィクトルはそのまま長椅子の脇に置かれた湯桶へ手を伸ばし、新しい布を取る。驚いて見ていると、彼は少し眉を寄せた。
「何だ」
「いえ」
「手を出せ」
言われるまま右手を出すと、ヴィクトルは温めた布を指先へあてた。女中の時よりずっと加減が静かだ。熱すぎないようにしているのが分かる。
その手つきが意外で、エレノアは息を止めた。
ヴィクトルは目を上げないまま言う。
「次は許さない」
「……はい」
「見つけられるからといって、一人で出るな」
「はい」
「分かったなら、もう寝ろ」
叱られているのに、なぜかその声はさっきより遠くない。
エレノアは小さく頷いた。
「マルタが」
「今夜を越えれば持ち直す」
その答えを聞いた瞬間、ようやく全身の力が抜けた。
ヴィクトルは布を替え終えると、立ち上がる。扉へ向かったところで一度だけ足を止め、振り返らずに言った。
「……無茶をするな」
それは命令というより、少し違う響きだった。
エレノアは返事をしようとして、結局できなかった。喉が痛いからではない。うまい言葉がなかったからだ。
扉が閉まる。
部屋に残るのは火の音と、まだ温かい布の熱だけだ。
毛布の中へ手を引き寄せる。指先はじんじん痛む。けれど体の芯に残っていた冷えだけが、さっきより薄い。
助けたかった。
怒られた。
止められた。
それでも、見たものを見たままに信じてもらえた。
そのことが不思議で、少しこわくて、それでも嬉しいなんて言葉では足りなかった。
目を閉じる。
眠りに落ちる直前、ヴィクトルの「そうだ」という短い声だけが、火のそばに残るみたいに耳へ残っていた。




