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婚約者も功績も妹に奪われた私は、死ぬと噂の北辺公爵に嫁ぐことになりました 〜愛のない結婚のはずが、冷酷な夫は私を手放してくれない〜  作者: 師走
第5章 吹雪の夜に

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第20話

気がつくと、熱と冷えが一度に押し寄せていた。


体の芯はまだ外の風を抱えたままなのに、頬と指先だけが焼けるみたいに痛い。誰かが外套をほどいている気配がして、エレノアは薄く目を開けた。


見慣れない部屋だった。


狭いが暖炉の火が近い。寝台ではなく長椅子に横たえられていて、膝には厚い毛布が何枚も掛けられている。濡れた頭巾が外され、髪の先から冷たい雫が首へ落ちた。


「起きたか」


低い声に顔を向ける。


ヴィクトルがいた。


外套は脱いでいるが、肩や袖口はまだ濡れている。髪にも溶けかけた雪が残っていた。さっきまで外にいたままの顔で、こちらを見下ろしている。


エレノアは起き上がろうとして、腕に力が入らないことに気づいた。


「動くな」


短く言われ、また長椅子へ沈む。


喉はひどく痛んだ。それでも、先に出たのは別の言葉だった。


「マルタは」

「医師のところだ」

「霜鈴草は」

「届いた」


それで少し息が抜ける。


だが安堵した瞬間、指先がずきりと痛んだ。見れば、両手の手袋は外され、指に湯気の立つ布が巻かれている。ひとさし指の先には、浅い切り傷が赤く滲んでいた。


女中が一人、湯を張った鉢を持ってそばに控えている。もう一人は新しい布を温めているところだった。


「奥方様、少ししみます」

「……ええ」


返事をすると、温めた布が手へ当てられる。


熱い、と思った次の瞬間に、凍えていた感覚が一気に戻ってきた。指先の骨まで痛むみたいで、思わず息を呑む。


「強すぎる」


ヴィクトルの声に、女中が肩を跳ねさせる。


「申し訳ありません」

「急に熱を入れるな。ぬるいものからだ」

「は、はい」


言い方はきつい。だが怒鳴るのではなく、きちんと見ている声だった。


エレノアは顔を上げた。


「公爵様」

「しゃべるな」

「霜鈴草、潰す前に、少し酒を」

「……」


ヴィクトルの眉が動く。


エレノアは掠れた声で続けた。


「葉をそのまま湯へ落とすより、少し叩いてからのほうが、早く出ます」

「医師には伝えた」

「そう……」


また息が抜ける。


それ以上はもう言葉にならなかった。疲れたのか、緊張が切れたのか、自分でも分からない。瞼が重い。けれど意識を落とす前に、扉が開く音がした。


医師だ。


頬に熱をのせたまま入ってくると、エレノアへ一礼し、それからヴィクトルへ向き直る。


「ひとまず胸の鳴りは少し落ち着きました」

ヴィクトルの目が細くなる。

「少し、か」

「今夜を越えるまではまだ何とも。ただ、霜鈴草が間に合わねばもっときつかったでしょう」


その言葉が部屋に落ちた瞬間、誰もすぐには口を開かなかった。


女中たちの手まで止まりそうになって、慌てて動き出す。


エレノアは長椅子の上で目を閉じた。


間に合った。


それだけで、全身の力が抜けそうになる。


「奥方様はお休みを」

医師が近づき、脈を取る。

「熱は上がるかもしれません。喉も冷えております」

「この程度、なら」

「この程度で済ませることではありません」


珍しく強い口調で言われ、エレノアは少し目を開けた。


医師は呆れたように眉を寄せている。


「外へ出た時間が短かったのが救いです。あと少し遅ければ、あなたまで熱を出しておりました」

「……そうですか」

「そうですとも」


そこで医師は、ちらりとヴィクトルを見た。


「今夜は温かいものを少しずつ。眠らせたほうがよろしいでしょう」

「分かった」

「指先は無理に擦らぬよう」

「分かっている」


医師が去ると、部屋はまた静かになった。


火の音と、湯の中で布が絞られる音だけが残る。


女中たちもやがて下がり、最後にはヴィクトルとエレノアだけになった。扉の向こうには人の気配がある。完全な二人きりではない。けれど、この部屋の中だけは不思議なほど静かだった。


エレノアは毛布の端を少し握る。


先に口を開いたのは、ヴィクトルだった。


「命令したはずだ」


低い声だった。


責め立てるわけではない。だが、そのほうがきつい。


エレノアは目を伏せた。


「……はい」

「聞こえていなかったのか」

「聞こえていました」

「ならなぜ出た」


返す言葉は、もう決まっていた。


「見つけられると思ったからです」

「思った、で死ぬつもりだったのか」

「死ぬつもりはありません」

「結果の話をしている」


そこで初めて、エレノアは顔を上げた。


ヴィクトルの表情はほとんど動いていない。なのに、怒っているのが分かる。火の前に立っているのに、その目だけは外の風みたいに冷えていた。


「……ご迷惑をおかけしました」

「そういう話ではない」


切るように言われる。


エレノアは唇を閉じた。


何を言えばいいのか分からなかった。謝るしかないと思ったのに、それも違うらしい。


ヴィクトルは一歩だけ近づいた。


「なぜそこまでする」

「……」

「マルタはお前の身内でもない」

「分かっています」

「この屋敷へ来て、まだ幾日も経っていない」

「それも」

「ならなぜだ」


同じ問いなのに、今度は少し違った。


怒りのまま投げるのではなく、本当に分からないものを見ている声だった。


エレノアは毛布の上で指を握る。痛みがまだ戻りきらないせいで、うまく力が入らない。


それでも言った。


「助けられると分かっていて」

喉がかすれて、少し咳き込む。

「見ているだけだったら、自分を嫌いになるからです」


ヴィクトルは黙った。


エレノアも、それ以上うまく続けられない。うまく言おうとすると、何かが嘘になる。


「公爵様の気を引きたいわけではありません」

「……」

「信じていただけなくても、構いません。でも、あの時行かなければ、たぶん私は」


そこで言葉が切れる。


嫌いになる。

許せなくなる。

どちらも本当なのに、口にすると急に安っぽく聞こえる気がして、続けられなかった。


ヴィクトルは長いこと何も言わなかった。


暖炉の火が、小さく爆ぜる。


やがて、ひどく低い声で言う。


「信じていなければ、連れ戻していない」


エレノアは思わず目を開けた。


ヴィクトルは視線をそらさなかった。


「籠を見た。葉も見た。お前の手も」

「……」

「取り入るための芝居で、あそこまで行く人間はいない」


その言い方は、不器用なくらい真っ直ぐだった。


謝罪でもない。

優しさでもない。

ただ、見誤りを見誤りのままにしなかった言葉だった。


エレノアの喉が、別の意味で熱くなる。


王都では、見たものまでなかったことにされた。帳簿も、婚約も、役目も。ここでは違う。ただ事実だけが、事実として置かれる。


それだけなのに、喉の奥がひどく揺れた。


「……そうですか」

「そうだ」


短い返答だった。


ヴィクトルはそのまま長椅子の脇に置かれた湯桶へ手を伸ばし、新しい布を取る。驚いて見ていると、彼は少し眉を寄せた。


「何だ」

「いえ」

「手を出せ」


言われるまま右手を出すと、ヴィクトルは温めた布を指先へあてた。女中の時よりずっと加減が静かだ。熱すぎないようにしているのが分かる。


その手つきが意外で、エレノアは息を止めた。


ヴィクトルは目を上げないまま言う。


「次は許さない」

「……はい」

「見つけられるからといって、一人で出るな」

「はい」

「分かったなら、もう寝ろ」


叱られているのに、なぜかその声はさっきより遠くない。


エレノアは小さく頷いた。


「マルタが」

「今夜を越えれば持ち直す」


その答えを聞いた瞬間、ようやく全身の力が抜けた。


ヴィクトルは布を替え終えると、立ち上がる。扉へ向かったところで一度だけ足を止め、振り返らずに言った。


「……無茶をするな」


それは命令というより、少し違う響きだった。


エレノアは返事をしようとして、結局できなかった。喉が痛いからではない。うまい言葉がなかったからだ。


扉が閉まる。


部屋に残るのは火の音と、まだ温かい布の熱だけだ。


毛布の中へ手を引き寄せる。指先はじんじん痛む。けれど体の芯に残っていた冷えだけが、さっきより薄い。


助けたかった。

怒られた。

止められた。

それでも、見たものを見たままに信じてもらえた。


そのことが不思議で、少しこわくて、それでも嬉しいなんて言葉では足りなかった。


目を閉じる。


眠りに落ちる直前、ヴィクトルの「そうだ」という短い声だけが、火のそばに残るみたいに耳へ残っていた。

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