第19話
東棟の裏階段は、夜になると人が薄い。
表のほうは戸締まりや火の見回りでまだ動いているが、こちら側は下働きが一度通ったきり、足音が途切れる刻がある。エレノアはその間を待って、籠を胸に抱えたまま階段を下りた。
外套の下へ手袋を二重に重ねる。
頭巾を深く引く。
小刀は籠の底。
戸口の閂を外した瞬間、風が扉を押し返してきた。
思わず肩で支える。冷気が頬を打つというより、刺した。昼のあいだに鳴いていた風とは別物だ。屋敷の内側で聞いていた音より、ずっと太く、重い。
それでも、まだ前は見える。
石畳の上に雪が薄く流れているだけだ。北の石垣際までなら、走る距離ではない。外壁に沿って行けば迷わない。そう頭で確かめてから、エレノアは外へ出た。
扉を閉めると、風の音がいっそう大きくなる。
外灯はある。だが明かりは雪に散って頼りない。白いものが斜めに流れ、視界の端を細かく削っていく。
エレノアは左肩を石壁へ寄せた。
壁伝いなら、戻る時も同じだ。
三つ目の張り出しを過ぎた先。
北の角。
石垣の風裏。
自分に言い聞かせるように足を進める。
一歩ごとに、外套の裾へ雪がまとわりついた。石畳の上はまだ踏み抜かないが、風で押し戻されて息が浅くなる。口を開けば冷気が喉へ入る。鼻で吸っても痛い。
北の角へ回ったところで、風向きが変わった。
横から来ていたものが、今度は正面から叩きつけてくる。目を細めても涙が出る。頭巾の端へ雪が張りつき、視界が白くかすむ。
それでも石垣際の地面は、思ったより埋まっていなかった。
風が当たりすぎるせいで、かえって雪が溜まりきらない場所がある。昼に見た通りなら、このあたりの影にまだ残るはずだった。
エレノアは膝をついた。
途端に冷えが裾から這い上がる。籠を脇へ置き、手袋の先で薄雪を払う。乾いた草、黒い土、凍った苔。違う。もっと低く、葉が地に張りつくように出る。
もう一度、少し先を払う。
ない。
風が頬を叩く。手袋がすぐ濡れる。指先の感覚が鈍くなっていく。
立ち上がって二歩移動し、また膝をつく。
石垣の継ぎ目。
風が抜ける隙間。
北を向いた影。
そこでようやく、雪の下に細い銀色がのぞいた。
あった。
エレノアは息を呑む。
霜鈴草だ。葉先が白く縁取られ、冷えた石に張りつくように生えている。雪に叩かれて半分伏せているが、まだ傷みきっていない。
手袋を外す。
途端に指が刺すように痛んだ。けれど素手でなければ、根元の柔らかいところを傷める。
小刀の刃先で雪をどけ、葉をまとめる。強く引けばちぎれる。根ごと抜けば土がつく。必要なのは葉と細い茎だけだ。
一束。
二束。
まだ足りない。
籠の底へ敷いた布の上に葉を置くたび、銀色が暗い中でかすかに光る。摘みたての匂いはほとんどない。ただ、切った茎のところからだけ、青い冷たい香りが立った。
風がいっそう強く吹きつける。
頭巾が後ろへ持っていかれ、雪が首元へ入り込んだ。思わず肩をすくめる。その拍子に手が滑り、小刀の先が指先をかすめた。
浅い。だが冷たさのせいで痛みが遅い。
エレノアは唇を噛み、もう一度雪を払う。
石垣のいちばん低いところ、根元に近い影に、まだもう一株あった。葉は少ない。それでも今は一枚でも欲しい。
摘み終える頃には、指の感覚がほとんどなかった。
籠の上から布をかぶせ、抱き上げる。軽い。軽いのに腕が重い。
戻らなければならない。
それだけ考えて立ち上がった瞬間、足元が滑った。
石畳の端に張った薄い氷へ踵が乗ったのだと、転びかけてから気づく。壁へ肩を打ちつけ、どうにか踏みとどまる。籠だけは胸へ抱え込んだ。
息が苦しい。
風が、さっきよりひどい。
来た時には壁に沿っていれば進めたのに、今は白いものが横殴りに流れ、角と影の区別が鈍くなる。石壁から背を離すと、すぐに向きが怪しくなりそうだった。
左肩を壁につける。
角を曲がる。
張り出しを一つ、二つ。
数えていたつもりなのに、途中で分からなくなる。
どこまで来たのか。
あとどれだけか。
目の端で揺れる白のせいで、屋敷の灯りが遠く見える。
喉は焼けるように痛み、口の中は冷たく乾いていた。手袋の中の指はもう、自分のものじゃないみたいだった。
それでも足は止められない。
止まったら、たぶん立てなくなる。
もう少し。
あと少し。
その時、風の向こうで、誰かの声がしたように思った。
聞き間違いかもしれない。けれど次の瞬間、別の方向からも灯りが揺れる。白の向こうで、小さく上下する橙の点。
人だ。
助かったと思ったのか、しまったと思ったのか、自分でも分からないまま、エレノアはそちらへ一歩踏み出した。
足がもつれた。
今度は踏みとどまれない。膝から雪へ崩れ、籠が腕の中で滑る。咄嗟に抱え込む。布がめくれ、銀色の葉先が見えた。
「――何をしている」
低い声が、すぐ近くで落ちた。
顔を上げる。
吹きつける雪の向こうに、ヴィクトルがいた。
外套の裾を風に打たれながら、まっすぐこちらを見ている。後ろに二つ、灯りが揺れていた。誰か連れてきたのだろう。けれど目に入るのは、その人だけだった。
エレノアは声を出そうとして、息が詰まる。
何をしている、と聞かれても、もう答えは一つしかない。
「あり、ました」
かすれて、まともな音にならなかった。
それでもエレノアは籠を差し出した。布の端が風にめくれ、その下で霜鈴草の銀色が揺れる。
ヴィクトルの目が、初めてそこへ落ちた。
次に、エレノアの素手へ向く。指先は赤く、ひとさし指の端から薄く血が滲んでいた。摘む時についた傷だ。そんなものはもう痛くもなかった。
「一握り、は」
言い終える前に咳が出た。喉が裂けそうに痛い。
ヴィクトルが動く。
雪を蹴って目の前まで来ると、片手で籠を奪い、もう片方でエレノアの腕を掴んだ。手袋越しでも分かるほど、強い。
「馬鹿か、お前は」
怒鳴ったわけではない。
低く、押し殺した声だった。そのほうが、かえって胸に響く。
エレノアは立ち上がろうとした。だが膝に力が入らない。自分で驚く。行きは動いたのに、戻りで全部持っていかれたらしい。
ヴィクトルの眉間が深く寄る。
次の瞬間、体が浮いた。
抱え上げられたのだと気づくまでに一拍かかった。籠は彼の腕に引っかけられ、エレノアの体は外套ごとすくい上げられている。
「公爵様、私は」
「黙れ」
それだけで口が閉じる。
ヴィクトルは振り返りもせず言う。
「先に戻れ。医師へ持っていけ」
「はっ」
後ろの灯りが走る。
残った風の中で、ヴィクトルだけが足を止めない。雪を踏み分けるたび、腕の中で体が揺れる。冷えているはずなのに、抱えられたところだけ熱い。
エレノアは薄く目を開けた。
頭巾の縁に雪がつもり、視界の端で白く溶ける。ヴィクトルの顎の線は硬く結ばれていた。怒っている。たぶん、ひどく。けれどその腕は少しも揺るがない。
「……マルタに」
ようやく絞り出すと、ヴィクトルの腕がかすかに固くなる。
「それ以上しゃべるな」
返事はそれだけだった。
屋敷の灯りが近づいてくる。扉が開かれる音。暖気。人の足音。
エレノアの意識はそこで一度、遠のきかけた。
最後に見えたのは、ヴィクトルの外套の胸元に押しつけた自分の手袋が、雪ではなく、摘んだ葉の青い匂いをかすかに残していたことだけだった。




