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婚約者も功績も妹に奪われた私は、死ぬと噂の北辺公爵に嫁ぐことになりました 〜愛のない結婚のはずが、冷酷な夫は私を手放してくれない〜  作者: 師走
第5章 吹雪の夜に

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第19話

東棟の裏階段は、夜になると人が薄い。


表のほうは戸締まりや火の見回りでまだ動いているが、こちら側は下働きが一度通ったきり、足音が途切れる刻がある。エレノアはその間を待って、籠を胸に抱えたまま階段を下りた。


外套の下へ手袋を二重に重ねる。

頭巾を深く引く。

小刀は籠の底。


戸口の閂を外した瞬間、風が扉を押し返してきた。


思わず肩で支える。冷気が頬を打つというより、刺した。昼のあいだに鳴いていた風とは別物だ。屋敷の内側で聞いていた音より、ずっと太く、重い。


それでも、まだ前は見える。


石畳の上に雪が薄く流れているだけだ。北の石垣際までなら、走る距離ではない。外壁に沿って行けば迷わない。そう頭で確かめてから、エレノアは外へ出た。


扉を閉めると、風の音がいっそう大きくなる。


外灯はある。だが明かりは雪に散って頼りない。白いものが斜めに流れ、視界の端を細かく削っていく。


エレノアは左肩を石壁へ寄せた。


壁伝いなら、戻る時も同じだ。

三つ目の張り出しを過ぎた先。

北の角。

石垣の風裏。


自分に言い聞かせるように足を進める。


一歩ごとに、外套の裾へ雪がまとわりついた。石畳の上はまだ踏み抜かないが、風で押し戻されて息が浅くなる。口を開けば冷気が喉へ入る。鼻で吸っても痛い。


北の角へ回ったところで、風向きが変わった。


横から来ていたものが、今度は正面から叩きつけてくる。目を細めても涙が出る。頭巾の端へ雪が張りつき、視界が白くかすむ。


それでも石垣際の地面は、思ったより埋まっていなかった。


風が当たりすぎるせいで、かえって雪が溜まりきらない場所がある。昼に見た通りなら、このあたりの影にまだ残るはずだった。


エレノアは膝をついた。


途端に冷えが裾から這い上がる。籠を脇へ置き、手袋の先で薄雪を払う。乾いた草、黒い土、凍った苔。違う。もっと低く、葉が地に張りつくように出る。


もう一度、少し先を払う。


ない。


風が頬を叩く。手袋がすぐ濡れる。指先の感覚が鈍くなっていく。


立ち上がって二歩移動し、また膝をつく。


石垣の継ぎ目。

風が抜ける隙間。

北を向いた影。


そこでようやく、雪の下に細い銀色がのぞいた。


あった。


エレノアは息を呑む。


霜鈴草だ。葉先が白く縁取られ、冷えた石に張りつくように生えている。雪に叩かれて半分伏せているが、まだ傷みきっていない。


手袋を外す。


途端に指が刺すように痛んだ。けれど素手でなければ、根元の柔らかいところを傷める。


小刀の刃先で雪をどけ、葉をまとめる。強く引けばちぎれる。根ごと抜けば土がつく。必要なのは葉と細い茎だけだ。


一束。

二束。

まだ足りない。


籠の底へ敷いた布の上に葉を置くたび、銀色が暗い中でかすかに光る。摘みたての匂いはほとんどない。ただ、切った茎のところからだけ、青い冷たい香りが立った。


風がいっそう強く吹きつける。


頭巾が後ろへ持っていかれ、雪が首元へ入り込んだ。思わず肩をすくめる。その拍子に手が滑り、小刀の先が指先をかすめた。


浅い。だが冷たさのせいで痛みが遅い。


エレノアは唇を噛み、もう一度雪を払う。


石垣のいちばん低いところ、根元に近い影に、まだもう一株あった。葉は少ない。それでも今は一枚でも欲しい。


摘み終える頃には、指の感覚がほとんどなかった。


籠の上から布をかぶせ、抱き上げる。軽い。軽いのに腕が重い。


戻らなければならない。


それだけ考えて立ち上がった瞬間、足元が滑った。


石畳の端に張った薄い氷へ踵が乗ったのだと、転びかけてから気づく。壁へ肩を打ちつけ、どうにか踏みとどまる。籠だけは胸へ抱え込んだ。


息が苦しい。


風が、さっきよりひどい。


来た時には壁に沿っていれば進めたのに、今は白いものが横殴りに流れ、角と影の区別が鈍くなる。石壁から背を離すと、すぐに向きが怪しくなりそうだった。


左肩を壁につける。

角を曲がる。

張り出しを一つ、二つ。


数えていたつもりなのに、途中で分からなくなる。


どこまで来たのか。

あとどれだけか。

目の端で揺れる白のせいで、屋敷の灯りが遠く見える。


喉は焼けるように痛み、口の中は冷たく乾いていた。手袋の中の指はもう、自分のものじゃないみたいだった。


それでも足は止められない。


止まったら、たぶん立てなくなる。


もう少し。

あと少し。


その時、風の向こうで、誰かの声がしたように思った。


聞き間違いかもしれない。けれど次の瞬間、別の方向からも灯りが揺れる。白の向こうで、小さく上下する橙の点。


人だ。


助かったと思ったのか、しまったと思ったのか、自分でも分からないまま、エレノアはそちらへ一歩踏み出した。


足がもつれた。


今度は踏みとどまれない。膝から雪へ崩れ、籠が腕の中で滑る。咄嗟に抱え込む。布がめくれ、銀色の葉先が見えた。


「――何をしている」


低い声が、すぐ近くで落ちた。


顔を上げる。


吹きつける雪の向こうに、ヴィクトルがいた。


外套の裾を風に打たれながら、まっすぐこちらを見ている。後ろに二つ、灯りが揺れていた。誰か連れてきたのだろう。けれど目に入るのは、その人だけだった。


エレノアは声を出そうとして、息が詰まる。


何をしている、と聞かれても、もう答えは一つしかない。


「あり、ました」


かすれて、まともな音にならなかった。


それでもエレノアは籠を差し出した。布の端が風にめくれ、その下で霜鈴草の銀色が揺れる。


ヴィクトルの目が、初めてそこへ落ちた。


次に、エレノアの素手へ向く。指先は赤く、ひとさし指の端から薄く血が滲んでいた。摘む時についた傷だ。そんなものはもう痛くもなかった。


「一握り、は」


言い終える前に咳が出た。喉が裂けそうに痛い。


ヴィクトルが動く。


雪を蹴って目の前まで来ると、片手で籠を奪い、もう片方でエレノアの腕を掴んだ。手袋越しでも分かるほど、強い。


「馬鹿か、お前は」


怒鳴ったわけではない。


低く、押し殺した声だった。そのほうが、かえって胸に響く。


エレノアは立ち上がろうとした。だが膝に力が入らない。自分で驚く。行きは動いたのに、戻りで全部持っていかれたらしい。


ヴィクトルの眉間が深く寄る。


次の瞬間、体が浮いた。


抱え上げられたのだと気づくまでに一拍かかった。籠は彼の腕に引っかけられ、エレノアの体は外套ごとすくい上げられている。


「公爵様、私は」

「黙れ」


それだけで口が閉じる。


ヴィクトルは振り返りもせず言う。


「先に戻れ。医師へ持っていけ」

「はっ」


後ろの灯りが走る。


残った風の中で、ヴィクトルだけが足を止めない。雪を踏み分けるたび、腕の中で体が揺れる。冷えているはずなのに、抱えられたところだけ熱い。


エレノアは薄く目を開けた。


頭巾の縁に雪がつもり、視界の端で白く溶ける。ヴィクトルの顎の線は硬く結ばれていた。怒っている。たぶん、ひどく。けれどその腕は少しも揺るがない。


「……マルタに」


ようやく絞り出すと、ヴィクトルの腕がかすかに固くなる。


「それ以上しゃべるな」


返事はそれだけだった。


屋敷の灯りが近づいてくる。扉が開かれる音。暖気。人の足音。


エレノアの意識はそこで一度、遠のきかけた。


最後に見えたのは、ヴィクトルの外套の胸元に押しつけた自分の手袋が、雪ではなく、摘んだ葉の青い匂いをかすかに残していたことだけだった。

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