第18話
風は、日が落ちる前から戸を鳴らしはじめた。
マルタの部屋では、暖炉の火が強く焚かれている。それでも熱は下がりきらず、寝台の上のマルタは苦しそうに息をしていた。医師が湯へ落とした乾燥葉の匂いは濃いのに、胸の咳は浅くならない。
エレノアは薬卓の端に残った青黒い粉を指先で見た。
「霜鈴草の乾燥分は、本当にこれで終わり?」
「終わりです」
医師は眉間を押さえたまま答える。
「あと半刻でも早ければ、外の分を回せたのですが」
「まだある場所は?」
「北の石垣際でしょうな。風の裏に残ることがある」
「屋敷の北壁の外?」
医師は顔を上げる。
「ご存じで?」
「葉の癖だけは」
マルタの額に当てられた布から、湯気が薄く立つ。熱は高い。頬の赤みが不自然で、呼吸のたび胸が狭く鳴った。
医師は低く言った。
「摘みたてが一握りあれば違います。湯へ落として吸わせるだけでも、胸の苦しさは少し軽うなる」
「一握り」
「ですがこの風で外へ出るなど」
「まだ雪は」
「時間の問題です」
窓の向こうで、ばん、と戸が鳴る。
アグネスが女中へ指示を飛ばしていた。湯、替え布、火の見回り。部屋の中も外も慌ただしいのに、必要なものだけが足りない。
エレノアは窓辺へ寄る。空はほとんど暮れ切っていたが、まだ完全な闇ではない。北の石壁のあたりなら、地形は頭に入っている。昨日、風除けの壁際に乾いた葉影を見たばかりだ。
今なら、見つけられる。
その考えが、体の奥でまっすぐ立つ。
「籠を貸してください」
言った瞬間、医師がはっと顔を上げた。
「まさか」
「石垣際だけ見ます。雪が深くなる前なら」
「奥方様」
アグネスの声がかぶさる。
振り向くと、扉のところに立っていた。いつからいたのか分からない。だが顔色は変わっている。
「何を仰っているのです」
「霜鈴草を取りに」
「無茶です」
「今ならまだ」
「今だから無茶なのです」
普段より一段低い声だった。
エレノアは引かなかった。
「場所が分かるの。雪が厚くなれば無理でも、まだ薄いなら見つけられる」
「見つけても戻れなければ同じです」
「戻るわ」
「根拠は」
「知っているから」
自分でも、言葉が硬くなっているのが分かる。
アグネスは一歩だけ近づいた。
「ここは王都の庭ではありません。夜に風が変わった山際で、人が簡単に行って帰れると思わないでください」
「簡単だとは言っていないわ」
「なら、なおさらです」
そこで、廊下の向こうから重い足音がした。
人の動きが、目に見えないくらいかすかに止まる。
ヴィクトルだった。
外套にまだ外気をまとわせたまま部屋へ入り、まず寝台のマルタを見て、それから薬卓、最後にエレノアを見た。
「どうした」
短い一言だったが、それだけで部屋の空気が締まる。
医師が答える。
「霜鈴草の摘みたてがあれば、胸の熱へもう少し手が打てます」
「ないのか」
「乾燥分は使い切りました」
「外は」
「北壁の石垣際なら、まだ残っているかもしれません」
ヴィクトルの目が細くなる。
「かもしれない?」
「この風です。確かなことは」
そこで医師の声が濁ったのは、自分で行くつもりがないからだろう。いや、行けないのだ。この天候で薬草の見分けまでつく者は、そう多くない。
エレノアは口を開く。
「私が行きます」
「だめです」
アグネスが即座に返す。
だがヴィクトルはすぐには何も言わなかった。薄い色の目が、まっすぐこちらに向けられる。冷たいというより、不要なものを削って見定める目だ。
「お前が?」
たった三文字で、部屋の温度が変わる。
エレノアは頷いた。
「見分けがつきます」
「夜の外へ出る気か」
「今ならまだ薄明かりが残っています。北壁の際だけなら」
「ふざけるな」
声は大きくなかった。
それなのに、ぴしゃりと頬を打たれたみたいに空気が鳴る。
ヴィクトルは二歩だけ近づいた。
「この風で、石垣際だけ、で済むと思っているのか」
「済ませます」
「できるかどうかの話をしていない」
そこで初めて、エレノアはこの人が怒っているのだと分かった。感情を長く見せる人ではないから、余計に。
ヴィクトルは低く言う。
「何のつもりだ」
「何の、とは」
「屋敷の前で善人ぶる気か。私に取り入るためにしては度が過ぎている」
医師が息を呑み、アグネスの指先がかすかに動いた。
エレノアは一瞬、言葉を失う。
そう見えるのか。腹の底が冷えた。けれど、傷ついている暇はなかった。
「公爵様のためではありません」
「……」
「助けられると分かっていて、火の前で見ていたら」
喉の奥が熱い。それでも声は荒れなかった。
「自分を許せないだけです」
マルタの荒い息が、部屋の中でかすかに響く。
ヴィクトルの目がかすかに動いた。驚いたのか、呆れたのか、それは分からない。だがすぐに元の冷たさへ戻る。
「許す、許さないの問題ではない。死ぬぞ」
「だから今のうちに行くのです」
「出るな」
「公爵様」
「聞こえなかったか」
一段低い声だった。
「出るな。これは命令だ」
エレノアの指先が、知らないうちに握られていた。
命令。
夫としてではなく、この屋敷の主としての声だった。
アグネスも口を開く。
「奥方様、お願いいたします。マルタ様を思うなら、なおさら」
「思うからです」
「奥方様」
「見つけられるの」
声が、少し掠れた。
「雪が積もったあとでは無理。でも今なら、石垣の風裏に残っている」
「だからどうした」
ヴィクトルが切る。
「見つけられても、お前が帰れなければ意味がない」
「私一人なら軽いです」
「軽い人間ほど飛ばされる」
「それでも」
「諦めろ」
その一言で、部屋の空気が凍る。
医師が視線を伏せた。アグネスは何も言わない。マルタの苦しい呼吸だけが、やけに近く聞こえた。
諦めろ。
合理的な言葉だ。誰かを一人救うために、もう一人を危険へ出すな。北辺では当たり前の判断なのだろう。
けれどエレノアの中では、何かがそこでぴたりと噛み合ってしまった。
見つけられる。
まだ間に合う。
なのに行かない。
それだけは、どうしても飲み込めなかった。
「……承知しました」
口にすると、アグネスがほっとしたように息をつく。
ヴィクトルはそれ以上何も言わず、寝台へ視線を戻した。もう話は終わりだと告げる横顔だった。
エレノアは一礼して、部屋を出る。
廊下へ出た瞬間、風の音がひどく大きく聞こえた。
誰も追ってこない。
止める言葉も、もう飛んでこない。
自室へ戻り、扉を閉める。
しばらくそのまま動けなかった。命令だ。出るなと言われた。理屈も分かる。分かるのに、耳の奥で別の声がずっと鳴っている。
見つけられるのに。
まだ行けるのに。
窓を叩く音がした。
見ると、硝子の向こうに白いものが一つ、二つ流れていく。雪だ。まだ本降りではない。けれど始まっている。
時間がない。
エレノアはゆっくり振り向いた。
寝台脇の椅子に、厚手の外套が掛けてある。王都から持ってきたものではなく、北辺へ着いてから用意された実用のものだ。机の引き出しには、薬草を摘む時に使っていた小さな小刀がある。籠は、窓辺の棚の下。
手が勝手に動いた。
外套を取る。
小刀を包む。
籠へ布を敷く。
心臓の音だけがやけに大きい。
命令違反だと分かっている。見つかれば、もう二度と現場に近づけなくなるかもしれない。それでも、指は止まらなかった。
扉の外では、人の足音が行き来している。皆、風へ備えるほうに忙しい。今なら、東棟の裏階段からなら。
エレノアは外套の紐をきつく結んだ。
風の音の向こうで、どこかの戸が強く打たれる。
もう待てなかった。




