第17話
北側四部屋の火を見直してから、四日ほどは大きな崩れが出なかった。
洗い場の朝は相変わらず慌ただしい。それでも、ミアが桶を落とすことはなくなり、夜番明けの娘たちの咳も少し浅くなった。変わったのは本当にそれだけだ。屋敷全体から見れば、気づく者のほうが少ないくらいの小ささだった。
けれどエレノアには、その小ささがありがたかった。
変えたつもりで何も変わらないのではなく、わずかでも朝の顔色が違う。そのことだけで、息の仕方が少し戻る。
ただ、風は日に日に冷たくなっていた。
昼でも空の色が低い。晴れていても陽が弱く、石壁の陰はすぐ凍える。下働きたちの足取りも、忙しさに加えて、どこか急き立てられるようになっていった。
その日の午後、エレノアは東棟の回廊でマルタを見つけた。
大きな籠を抱えている。中には乾燥途中の薬草束がいくつも詰まっていた。葉の色は浅く、まだ湿りが残っている。
「それ、乾かすところ?」
「ええ。けれど風向きが悪うございます」
マルタは籠を抱え直した。いつもの落ち着いた顔だが、目の下に少し影がある。
「乾燥庫の火が足りないの?」
「火は足ります。ただ、今年は喉をやられる者が早うて。先に刻んで回した分が多いのです」
「この前の咳の子たち」
「ええ」
そこまで言って、マルタは少し口元を歪めた。
「軽い咳は軽いうちに抑えたほうが、結局は手が減りませぬから」
誰かが見れば、なんでもない会話に聞こえただろう。けれどエレノアには分かった。以前なら、こういう話は自分の前でされなかった。
「足りなくなりそう?」
「足りればよいのですが」
前と同じ返し方だった。
ただ今度は、そのあとに小さく続ける。
「熱へ使う分が心もとなくなっております」
エレノアは籠の中の葉を見た。細く長い葉の束、丸い葉の束、乾かしかけの根。喉や手荒れには使えるものが多い。けれど高い熱へ効くものは、色が違う。見当たらなかった。
「霜の前に摘む葉は」
「もう数が少のうございます」
マルタはそれだけ言って、先へ行こうとした。だが一歩目で、かすかによろめいた。
エレノアは反射で腕を伸ばす。
「大丈夫?」
「年でございますよ」
そう言って笑う声は、いつも通りに聞こえた。だが触れた袖口が、冷たかった。
「少し休んだほうが」
「今、休むほうが後で響きます」
それもまた、この屋敷らしい返事だった。
夕方になると、空がさらに低くなった。
西棟では窓の留め具を確かめる音が続き、下働きたちはいつもより多く薪を運んでいる。アグネスが女中たちへ「夜の水は先に汲んでおきなさい」と指示を飛ばしていた。皆、風が変わる時の動きを知っている顔だ。
エレノアも部屋の窓を閉め直し、暖炉の薪を寄せる。北辺へ来てから、こういう手つきだけは少し早くなった。
その時だった。
廊下の向こうで、誰かが短く名を呼ぶ。
「アグネス!」
続けて走る足音がした。
エレノアが扉を開けると、通りかかった女中が青い顔で立ち止まる。
「どうしたの」
「マルタ様が……っ」
それ以上は聞かなくても足が動いた。
老女の部屋は東棟の奥にあった。扉の前にはアグネスと女中が二人、中では年かさの医師が低い声で何か言っている。
エレノアが戸口まで来ると、アグネスが振り向いた。
「奥方様」
「マルタは」
「熱です」
その一言で指先に力が入った。
部屋の中は火が強められていた。寝台の上のマルタは顔を赤くして横たわっている。昼に見た時の袖口の冷たさが、今になって喉へ戻ってきた。息が少し荒い。咳も混じっている。
医師が湯に浸した布を替えながら言う。
「冷えをこじらせましたな。胸へ降りております」
「下がるの」
「下げますとも。下げねばなりません」
その言い方に、自分で自分を急かしている響きがあった。
エレノアは薬卓へ目を向ける。並んでいるのは乾燥葉と刻んだ根、それに温めた酒。熱へ使うはずの束が、ひどく少ない。
医師もそれに気づかれたと思ったのか、眉を寄せる。
「今年は早うございましたからな」
「足りないの?」
「ないわけでは」
言いよどむ時点で、足りていない。
マルタがうっすら目を開けた。熱に浮かされているのに、エレノアを見つけると、かすれた声で言う。
「奥方様……こんなところへ」
「しゃべらないで」
「大したことでは」
「熱があるわ」
そう返すと、マルタの唇が少し動いた。笑おうとしたのかもしれないが、途中で咳に変わった。肺の奥を擦るような、嫌な咳だった。
エレノアは寝台の脇へ近づく。
湯に落とされた乾燥葉の匂いが鼻を打つ。喉には効く。体も少し温める。けれど、今必要なのはこれだけではない。
「何をお使いに」
医師がちらりとこちらを見る。
エレノアは薬卓の上を見たまま答えた。
「乾いた銀葉と、苦根ね。あと温めた酒」
「分かるのですか」
「少し」
少し、で済む知識ではない。けれど今はそれでよかった。
薬卓の端に、空になった小皿が一つある。そこに残っている青黒い粉の匂いを嗅いだ瞬間、エレノアの背筋が強張った。
「霜鈴草は」
医師の手が止まる。
「使い切りました」
「全部?」
「先の兵の傷と、熱の者に回しました。乾燥分はもう」
「……そう」
霜鈴草。
霜の降り始める頃、石壁の北側や林際の影にまだ残る、細い銀色の葉だ。乾かしても使えるが、高い熱には摘みたてのほうが強い。冷えが胸へ落ちた時にも、湯へ落として吸わせると少し違う。
この時季の北辺では、見つけるのが難しい。
雪が薄くかぶれば、見分けはもっと難しくなる。
けれど、まだ今夜なら。
その考えが頭をよぎった瞬間、窓の向こうで風が強く鳴った。
誰かが部屋の外で「北壁の戸を閉めて!」と叫ぶ。女中たちが慌ただしく動く気配がする。
エレノアはマルタの熱い額を一度だけ見た。
今夜中に必要な薬草を、雪の中で見つけられるのは自分だけだ。
その確信と同時に、喉の奥がひりついた。




