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婚約者も功績も妹に奪われた私は、死ぬと噂の北辺公爵に嫁ぐことになりました 〜愛のない結婚のはずが、冷酷な夫は私を手放してくれない〜  作者: 師走
第5章 吹雪の夜に

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第17話

北側四部屋の火を見直してから、四日ほどは大きな崩れが出なかった。


洗い場の朝は相変わらず慌ただしい。それでも、ミアが桶を落とすことはなくなり、夜番明けの娘たちの咳も少し浅くなった。変わったのは本当にそれだけだ。屋敷全体から見れば、気づく者のほうが少ないくらいの小ささだった。


けれどエレノアには、その小ささがありがたかった。


変えたつもりで何も変わらないのではなく、わずかでも朝の顔色が違う。そのことだけで、息の仕方が少し戻る。


ただ、風は日に日に冷たくなっていた。


昼でも空の色が低い。晴れていても陽が弱く、石壁の陰はすぐ凍える。下働きたちの足取りも、忙しさに加えて、どこか急き立てられるようになっていった。


その日の午後、エレノアは東棟の回廊でマルタを見つけた。


大きな籠を抱えている。中には乾燥途中の薬草束がいくつも詰まっていた。葉の色は浅く、まだ湿りが残っている。


「それ、乾かすところ?」

「ええ。けれど風向きが悪うございます」


マルタは籠を抱え直した。いつもの落ち着いた顔だが、目の下に少し影がある。


「乾燥庫の火が足りないの?」

「火は足ります。ただ、今年は喉をやられる者が早うて。先に刻んで回した分が多いのです」

「この前の咳の子たち」

「ええ」


そこまで言って、マルタは少し口元を歪めた。


「軽い咳は軽いうちに抑えたほうが、結局は手が減りませぬから」


誰かが見れば、なんでもない会話に聞こえただろう。けれどエレノアには分かった。以前なら、こういう話は自分の前でされなかった。


「足りなくなりそう?」

「足りればよいのですが」


前と同じ返し方だった。


ただ今度は、そのあとに小さく続ける。


「熱へ使う分が心もとなくなっております」


エレノアは籠の中の葉を見た。細く長い葉の束、丸い葉の束、乾かしかけの根。喉や手荒れには使えるものが多い。けれど高い熱へ効くものは、色が違う。見当たらなかった。


「霜の前に摘む葉は」

「もう数が少のうございます」


マルタはそれだけ言って、先へ行こうとした。だが一歩目で、かすかによろめいた。


エレノアは反射で腕を伸ばす。


「大丈夫?」

「年でございますよ」


そう言って笑う声は、いつも通りに聞こえた。だが触れた袖口が、冷たかった。


「少し休んだほうが」

「今、休むほうが後で響きます」


それもまた、この屋敷らしい返事だった。


夕方になると、空がさらに低くなった。


西棟では窓の留め具を確かめる音が続き、下働きたちはいつもより多く薪を運んでいる。アグネスが女中たちへ「夜の水は先に汲んでおきなさい」と指示を飛ばしていた。皆、風が変わる時の動きを知っている顔だ。


エレノアも部屋の窓を閉め直し、暖炉の薪を寄せる。北辺へ来てから、こういう手つきだけは少し早くなった。


その時だった。


廊下の向こうで、誰かが短く名を呼ぶ。


「アグネス!」

続けて走る足音がした。


エレノアが扉を開けると、通りかかった女中が青い顔で立ち止まる。


「どうしたの」

「マルタ様が……っ」


それ以上は聞かなくても足が動いた。


老女の部屋は東棟の奥にあった。扉の前にはアグネスと女中が二人、中では年かさの医師が低い声で何か言っている。


エレノアが戸口まで来ると、アグネスが振り向いた。


「奥方様」

「マルタは」

「熱です」


その一言で指先に力が入った。


部屋の中は火が強められていた。寝台の上のマルタは顔を赤くして横たわっている。昼に見た時の袖口の冷たさが、今になって喉へ戻ってきた。息が少し荒い。咳も混じっている。


医師が湯に浸した布を替えながら言う。


「冷えをこじらせましたな。胸へ降りております」

「下がるの」

「下げますとも。下げねばなりません」


その言い方に、自分で自分を急かしている響きがあった。


エレノアは薬卓へ目を向ける。並んでいるのは乾燥葉と刻んだ根、それに温めた酒。熱へ使うはずの束が、ひどく少ない。


医師もそれに気づかれたと思ったのか、眉を寄せる。


「今年は早うございましたからな」

「足りないの?」

「ないわけでは」


言いよどむ時点で、足りていない。


マルタがうっすら目を開けた。熱に浮かされているのに、エレノアを見つけると、かすれた声で言う。


「奥方様……こんなところへ」

「しゃべらないで」

「大したことでは」

「熱があるわ」


そう返すと、マルタの唇が少し動いた。笑おうとしたのかもしれないが、途中で咳に変わった。肺の奥を擦るような、嫌な咳だった。


エレノアは寝台の脇へ近づく。


湯に落とされた乾燥葉の匂いが鼻を打つ。喉には効く。体も少し温める。けれど、今必要なのはこれだけではない。


「何をお使いに」

医師がちらりとこちらを見る。


エレノアは薬卓の上を見たまま答えた。


「乾いた銀葉と、苦根ね。あと温めた酒」

「分かるのですか」

「少し」


少し、で済む知識ではない。けれど今はそれでよかった。


薬卓の端に、空になった小皿が一つある。そこに残っている青黒い粉の匂いを嗅いだ瞬間、エレノアの背筋が強張った。


「霜鈴草は」

医師の手が止まる。

「使い切りました」

「全部?」

「先の兵の傷と、熱の者に回しました。乾燥分はもう」

「……そう」


霜鈴草。


霜の降り始める頃、石壁の北側や林際の影にまだ残る、細い銀色の葉だ。乾かしても使えるが、高い熱には摘みたてのほうが強い。冷えが胸へ落ちた時にも、湯へ落として吸わせると少し違う。


この時季の北辺では、見つけるのが難しい。

雪が薄くかぶれば、見分けはもっと難しくなる。


けれど、まだ今夜なら。


その考えが頭をよぎった瞬間、窓の向こうで風が強く鳴った。


誰かが部屋の外で「北壁の戸を閉めて!」と叫ぶ。女中たちが慌ただしく動く気配がする。


エレノアはマルタの熱い額を一度だけ見た。


今夜中に必要な薬草を、雪の中で見つけられるのは自分だけだ。


その確信と同時に、喉の奥がひりついた。

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