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婚約者も功績も妹に奪われた私は、死ぬと噂の北辺公爵に嫁ぐことになりました 〜愛のない結婚のはずが、冷酷な夫は私を手放してくれない〜  作者: 師走
第4章 この手はまだ、誰かを救える

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第16話

その日の暮れ方、エレノアは机に向かっていた。


届いた木板は二枚とも端が欠けていて、きれいとは言えない。けれど表面はまだ使える。筆で太い線を引き、片方には細い薪二本と太い薪一本を並べたような印を、もう片方には湯桶と手の形だけを簡単に描く。


上手ではない。


それでも、見れば分かるくらいにはなった。


扉が叩かれ、アグネスが入ってくる。部屋へ入るなり机の上を見て、少し眉を動かした。


「本当に描かれたのですね」

「読めない子がいるのでしょう」

「おります」

「なら、これでいいわ」


アグネスは木板を手に取った。指先で裏返し、重さを確かめるように持つ。


「子どもの札遊びのようです」

「そうかもしれないわね」

「でも、夜番の子にも分かるでしょう」


最後の一言は、ぼそりと落ちた。


エレノアは顔を上げる。


アグネスは視線を外したまま言った。


「北側四部屋だけです。薪箱と湯桶の脇へ掛けます」

「ええ」

「それと、縫い場の端切れを少し借ります」

「足りる?」

「足りなければ裂きます」


そう言って木板を持ち上げたところで、エレノアはふと気づく。


「アグネス」

「はい」

「これ、誰が持ってきてくれたの」

「……さあ」


わざとらしいほど平らな返しだった。


それでも、それ以上は聞かなかった。聞けば、渡してくれた手を困らせるだけだ。


翌朝、洗い場は前より静かだった。


人が減ったわけではない。仕事も減っていない。けれど、迷って立ち止まる声が減っていた。木板の札を見て動く者がいて、分からない子には年上の女中が短く教える。湯桶の周りには、咳のある娘たちがぎこちない順番を作っていた。


ミアが布束を抱えて通る。昨日のようなよろめきはない。


「おはようございます、奥方様」


声まで昨日より出ていた。


「おはよう。どう?」

「指が、今日は曲がります」


そう言って、少し恥ずかしそうに手を見せる。まだ布は巻いている。完治には遠い。けれど指先の強張りは昨日ほどではない。


その隣で、別の娘がぽつりとこぼした。


「夜、喉が痛くて起きるの、少なかったです」


すぐに本人ははっとして口をつぐむ。けれどもう遅い。言葉は落ちている。


エレノアは笑わなかった。ただ頷く。


「それならよかった」


そこへ、低い声がした。


「女中頭」


皆の動きが一瞬だけ揃う。


オズウィンだった。


帳面を抱えたまま洗い場の入口に立ち、木板の札と、湯桶の位置と、動く娘たちを順に見ている。


アグネスが応じる。


「はい」

「北側四部屋、今朝は何人落ちた」

「ゼロです」

「昨日は」

「二人鈍り、一人倒れました」

「……」


オズウィンは少し黙り、薪箱の一結びの紐を見た。


「札は」

「夜番に分かりやすいように」

「分かりやすかったのか」

「まだ全員ではありません。ただ、三部屋は朝まで火が残りました」


アグネスの答えは短い。


オズウィンの目が一度だけエレノアへ向く。冷たい目だ。けれど最初から切り捨てる硬さだけではなかった。


「広げるな」

「承知しております」

「まず三日見ろ」

「はい」


それだけ言って去っていく。


三日。


拒絶ではなく、条件だった。


オズウィンの背が見えなくなったあとも、洗い場の空気は乱れなかった。誰も浮き足立たない。もう今朝の仕事のほうが先なのだ。


それが北辺らしいと思った。


喜ぶより、回す。


褒めるより、続くかを見る。


エレノアはその場を離れようとして、ミアにそっと袖を引かれた。


驚いて見ると、娘は顔を赤くしながら、小さな布包みを差し出す。


「これ……」

「なに?」

「洗い場の端で余った、きれいな布です。手を拭く時に、奥方様のところ、お部屋の水が冷たいかなって」


言い終わる前から、ミアの耳が真っ赤だった。こんなことをしていいのか、自分でも分かっていないのだろう。


エレノアは布包みを受け取る。薄い布だが、端がちゃんと折り返されている。仕事の合間に縫ったのかもしれない。


「ありがとう」

「い、いえ」

「使うわ」


それだけで、ミアの顔がほっとほどける。


豪華な贈り物ではない。


余り布で作った、小さな手拭き一枚。


けれど、その布はこの屋敷に来てから初めて、自分へ向けて渡された温かいものだった。


その日の午後、執務室でオズウィンは短く報告した。


「洗い場と北側四部屋の火が、少し持ち直しております」


ヴィクトルは書類から目を上げなかった。


「誰の指示だ」

「女中頭です」

「その前は」


オズウィンが一拍遅れる。


ヴィクトルの筆が止まった。


「奥方様が、最初に気づかれました」

「そうか」


短い返事だった。


だが、オズウィンはすぐ続けられなかった。


「問題か」

「……今のところは」

「なら三日見ろ」

「すでにそう伝えております」


ヴィクトルはようやく顔を上げた。


「お前がか」

「はい」


淡い目が、短くオズウィンを見た。


「珍しいな」


責める声ではない。


オズウィンは答えなかった。


ヴィクトルはまた書類へ視線を落とす。


「倒れる者が減るなら続けろ。夫人には、余計な無茶をさせるな」


夫人。


それだけの呼び方なのに、オズウィンは小さく眉を動かした。


「承知しました」


執務室を出ると、廊下の先にエレノアがいた。


布包みを手に、洗い場から戻るところらしい。こちらに気づくと、足を止める。


「副家令」

「奥方様」


短い挨拶。


それだけで通り過ぎようとして、オズウィンは一度だけ足を止めた。


「三日です」

「はい?」

「三日見ます。広げるのは、それからです」


エレノアは一瞬だけ目を見開いた。


それから、すぐに小さく頷く。


「分かりました」


礼は言わなかった。


言えば、きっとオズウィンは受け取らない。


その代わり、彼女は布包みを抱え直し、静かに廊下を進んでいった。


オズウィンはその背を見送る。


王都から来た奥方。


噂つきの、傷物の、飾り妻。


そう呼ぶには、もう少し見ておく必要がある。


オズウィンはそう判断し、抱えていた帳面を持ち直した。


中庭の上の空は低く、雲が昨日より厚い。


下働きの男たちが薪を多めに運んでいるのが見える。誰かが「山の風が変わった」と言う声が、廊下の角から聞こえた。


エレノアは窓の外の低い雲をもう一度見た。


朝まで火が残った。


洗い場は回った。


布を一枚もらった。


手の中に、確かに小さな快さが残っている。


けれど、そのすぐ向こうで、風の匂いが変わり始めていた。

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