第16話
その日の暮れ方、エレノアは机に向かっていた。
届いた木板は二枚とも端が欠けていて、きれいとは言えない。けれど表面はまだ使える。筆で太い線を引き、片方には細い薪二本と太い薪一本を並べたような印を、もう片方には湯桶と手の形だけを簡単に描く。
上手ではない。
それでも、見れば分かるくらいにはなった。
扉が叩かれ、アグネスが入ってくる。部屋へ入るなり机の上を見て、少し眉を動かした。
「本当に描かれたのですね」
「読めない子がいるのでしょう」
「おります」
「なら、これでいいわ」
アグネスは木板を手に取った。指先で裏返し、重さを確かめるように持つ。
「子どもの札遊びのようです」
「そうかもしれないわね」
「でも、夜番の子にも分かるでしょう」
最後の一言は、ぼそりと落ちた。
エレノアは顔を上げる。
アグネスは視線を外したまま言った。
「北側四部屋だけです。薪箱と湯桶の脇へ掛けます」
「ええ」
「それと、縫い場の端切れを少し借ります」
「足りる?」
「足りなければ裂きます」
そう言って木板を持ち上げたところで、エレノアはふと気づく。
「アグネス」
「はい」
「これ、誰が持ってきてくれたの」
「……さあ」
わざとらしいほど平らな返しだった。
それでも、それ以上は聞かなかった。聞けば、渡してくれた手を困らせるだけだ。
翌朝、洗い場は前より静かだった。
人が減ったわけではない。仕事も減っていない。けれど、迷って立ち止まる声が減っていた。木板の札を見て動く者がいて、分からない子には年上の女中が短く教える。湯桶の周りには、咳のある娘たちがぎこちない順番を作っていた。
ミアが布束を抱えて通る。昨日のようなよろめきはない。
「おはようございます、奥方様」
声まで昨日より出ていた。
「おはよう。どう?」
「指が、今日は曲がります」
そう言って、少し恥ずかしそうに手を見せる。まだ布は巻いている。完治には遠い。けれど指先の強張りは昨日ほどではない。
その隣で、別の娘がぽつりとこぼした。
「夜、喉が痛くて起きるの、少なかったです」
すぐに本人ははっとして口をつぐむ。けれどもう遅い。言葉は落ちている。
エレノアは笑わなかった。ただ頷く。
「それならよかった」
そこへ、低い声がした。
「女中頭」
皆の動きが一瞬だけ揃う。
オズウィンだった。
帳面を抱えたまま洗い場の入口に立ち、木板の札と、湯桶の位置と、動く娘たちを順に見ている。
アグネスが応じる。
「はい」
「北側四部屋、今朝は何人落ちた」
「ゼロです」
「昨日は」
「二人鈍り、一人倒れました」
「……」
オズウィンは少し黙り、薪箱の一結びの紐を見た。
「札は」
「夜番に分かりやすいように」
「分かりやすかったのか」
「まだ全員ではありません。ただ、三部屋は朝まで火が残りました」
アグネスの答えは短い。
オズウィンの目が一度だけエレノアへ向く。冷たい目だ。けれど最初から切り捨てる硬さだけではなかった。
「広げるな」
「承知しております」
「まず三日見ろ」
「はい」
それだけ言って去っていく。
三日。
拒絶ではなく、条件だった。
オズウィンの背が見えなくなったあとも、洗い場の空気は乱れなかった。誰も浮き足立たない。もう今朝の仕事のほうが先なのだ。
それが北辺らしいと思った。
喜ぶより、回す。
褒めるより、続くかを見る。
エレノアはその場を離れようとして、ミアにそっと袖を引かれた。
驚いて見ると、娘は顔を赤くしながら、小さな布包みを差し出す。
「これ……」
「なに?」
「洗い場の端で余った、きれいな布です。手を拭く時に、奥方様のところ、お部屋の水が冷たいかなって」
言い終わる前から、ミアの耳が真っ赤だった。こんなことをしていいのか、自分でも分かっていないのだろう。
エレノアは布包みを受け取る。薄い布だが、端がちゃんと折り返されている。仕事の合間に縫ったのかもしれない。
「ありがとう」
「い、いえ」
「使うわ」
それだけで、ミアの顔がほっとほどける。
豪華な贈り物ではない。
余り布で作った、小さな手拭き一枚。
けれど、その布はこの屋敷に来てから初めて、自分へ向けて渡された温かいものだった。
その日の午後、執務室でオズウィンは短く報告した。
「洗い場と北側四部屋の火が、少し持ち直しております」
ヴィクトルは書類から目を上げなかった。
「誰の指示だ」
「女中頭です」
「その前は」
オズウィンが一拍遅れる。
ヴィクトルの筆が止まった。
「奥方様が、最初に気づかれました」
「そうか」
短い返事だった。
だが、オズウィンはすぐ続けられなかった。
「問題か」
「……今のところは」
「なら三日見ろ」
「すでにそう伝えております」
ヴィクトルはようやく顔を上げた。
「お前がか」
「はい」
淡い目が、短くオズウィンを見た。
「珍しいな」
責める声ではない。
オズウィンは答えなかった。
ヴィクトルはまた書類へ視線を落とす。
「倒れる者が減るなら続けろ。夫人には、余計な無茶をさせるな」
夫人。
それだけの呼び方なのに、オズウィンは小さく眉を動かした。
「承知しました」
執務室を出ると、廊下の先にエレノアがいた。
布包みを手に、洗い場から戻るところらしい。こちらに気づくと、足を止める。
「副家令」
「奥方様」
短い挨拶。
それだけで通り過ぎようとして、オズウィンは一度だけ足を止めた。
「三日です」
「はい?」
「三日見ます。広げるのは、それからです」
エレノアは一瞬だけ目を見開いた。
それから、すぐに小さく頷く。
「分かりました」
礼は言わなかった。
言えば、きっとオズウィンは受け取らない。
その代わり、彼女は布包みを抱え直し、静かに廊下を進んでいった。
オズウィンはその背を見送る。
王都から来た奥方。
噂つきの、傷物の、飾り妻。
そう呼ぶには、もう少し見ておく必要がある。
オズウィンはそう判断し、抱えていた帳面を持ち直した。
中庭の上の空は低く、雲が昨日より厚い。
下働きの男たちが薪を多めに運んでいるのが見える。誰かが「山の風が変わった」と言う声が、廊下の角から聞こえた。
エレノアは窓の外の低い雲をもう一度見た。
朝まで火が残った。
洗い場は回った。
布を一枚もらった。
手の中に、確かに小さな快さが残っている。
けれど、そのすぐ向こうで、風の匂いが変わり始めていた。




