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婚約者も功績も妹に奪われた私は、死ぬと噂の北辺公爵に嫁ぐことになりました 〜愛のない結婚のはずが、冷酷な夫は私を手放してくれない〜  作者: 師走
第2部 第1章 隣国からの客人

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第2話

雪を含んだ重い雲が垂れ込める空の下、車輪が凍てついた砂利を踏みしめる音が、城門のアーチをくぐって中庭へと響き渡った。


公爵邸の正面玄関の前には、寒風を遮るための天幕と、敷き詰められた厚手の絨毯が用意されていた。外気にさらされ続けた石畳の上にそのまま客人の足を降ろさせないための、エレノアが指示した手配の一つだった。


ヴィクトルと並んで外套の襟を合わせ、息を白く吐き出しながら待つエレノアの視線の先で、ヴェルノワの紋章を掲げた先頭の馬車が静かに止まる。


十日前の書状にあった通り、随員の規模は決して小さくはない。護衛の騎兵たちの息も白く、馬の轡からは湯気が立ち上っていた。セルヴェ大橋を渡り、北辺の冷え込む山道を越えてきた長旅の過酷さは、馬の足元にこびりついた泥と雪の塊を見れば容易に察せられた。馬丁たちの誘導や、馬房の乾草、手配させた湯の準備が滞りなく進んでいるかを、エレノアは頭の片隅で手早く確かめる。


馬車の扉が開かれ、まず姿を現したのは、ヴェルノワ王太子のアルベールだった。


濃紺の外套をまとった青年は、足元を確かめるようにしっかりと絨毯を踏むと、出迎えたヴィクトルとエレノアに向かって、極めて端正な礼を執った。長旅の疲れは隠せないはずだが、衣服に目立った乱れはなく、背筋は儀礼の場にあるかのように真っ直ぐに伸びている。


「ノルデンフェルト公爵閣下、ならびに奥方。急な申し入れであったにもかかわらず、これほどの手厚い迎えをいただき、心より感謝申し上げます」


アルベールの声は、冷え切った中庭の空気の中でも落ち着いてよく通った。


「当方の随員は、事前に書状でお伝えした人数から変更はございません。荷駄の馬車については、城内の規則に従い、御家の警備兵による確認を受けたのちに所定の場所へ運び入れるよう申し渡してあります。どうか、余計な煩をかけることのないよう」


挨拶の言葉と同時に、人数と手続きの確認が淀みなく並べられた。こちらの警備や受け入れの手間を先回りして減らそうとする配慮であることは明白だったが、その几帳面なまでの順序立てには、一切の曖昧さを残すまいとする強い意志のようなものが滲んでいた。


「遠方より息災でのご到着、重畳に存じます、王太子殿下。北辺の寒さはヴェルノワとは勝手が違いましょう。まずは中へ」


ヴィクトルが儀礼に則った低い声で応じる。その横でエレノアが一歩進み出て、会釈を重ねた。


「長旅でお身体も冷え切っておいででしょう。各部屋に暖炉の火を入れさせ、湯を用意させております。随員の皆様の馬と荷につきましても、手配はすべて済んでおりますので、どうぞご安心ください」


「痛み入ります、公爵夫人」


アルベールが丁寧に頭を下げた、その背後だった。


二台目の馬車から、伸びをするような気軽な動作で降り立ってきた人影があった。


第二王子のテオドールだった。


アルベールと同系色の豪奢な外套を羽織ってはいるものの、毛皮の襟元は無造作に寛げられ、革の手袋をもてあそぶように指先で回している。十八歳という若さ相応の引き締まった体躯と、どこか人を値踏みするような光を宿した瞳が、立ち並ぶ出迎えの列をすばやく撫でていった。


「なるほど、これが噂に聞く北辺の城か。風が骨身に沁みるというのは嘘じゃなかったな。橋の向こうとは空気の乾き方がまるで違う」


テオドールは兄の厳しい視線を受け流すように片眉を上げると、ヴィクトルの前へと歩み寄ってきた。その視線はヴィクトルの肩幅や立ち姿を一瞥し、すぐにその隣に立つエレノアへと移った。


「公爵閣下、それに……こちらが夫人のエレノア様ですね。兄上から聞かされていた通りの方だ。いえ、王都の貴婦人たちのように華美に着飾るでもなく、それでいてこの厳しい寒さの中でも揺るぎなく立っておられる。まるでこの城の石壁そのもののように頼もしい」


挨拶としては極めて無遠慮で、世辞とも皮肉とも取れる言葉だった。試すような笑みを浮かべたテオドールの視線が、エレノアの顔から、彼女の横に立つヴィクトルの手元へとわざとらしく落とされる。


ヴィクトルの顎の線が、わずかに強張るのをエレノアは気配で察した。ヴィクトルは相手の言葉尻を咎める代わりに、一歩も退かずにテオドールを見据え返した。


「過分なお言葉です、テオドール殿下。北辺の暮らしは飾りよりも実用が先立ちますので、無骨に見えましたならご容赦を」


エレノアが静かに、だがはっきりとした声で言葉を継ぐと、テオドールは面白そうに喉の奥で小さく笑った。


「これは手厳しい。褒めたつもりだったのですがね。閣下が大事に囲い込んで離さない理由が、少し分かった気がしますよ」


「テオドール」


アルベールの鋭い声が割って入った。咎めるような兄の視線に対しても、テオドールは肩を竦めてみせるだけで、悪びれる様子はない。


その時、テオドールの乗ってきた馬車から、もう一人の人物が静かに降りてきた。


ヴェルノワ北部侯爵家の令嬢、ミレーヌだった。


仕立ての良い厚手の旅行着に身を包んだ彼女は、馬車から降り立つなり、出迎えの威容や城の壮麗さに目を奪われる風もなく、まず自らの足元の雪を払い、それからすぐに前の二人へと歩み寄ってきた。


髪をきっちりと結い上げ、整った顔立ちには感情の起伏が乏しい。だがその視線は、テオドールが言葉を交わしている間も、彼の姿を細かく確かめていた。


「テオドール様」


低く、しかしよく通る落ち着いた声だった。


ミレーヌはエレノアやヴィクトルに非礼を詫びるような視線を一度だけ向けた後、ごく自然な足取りでテオドールのすぐ脇へ立った。そして、何のためらいもなく手を伸ばすと、彼の外套の胸元に指をかけた。


「留め具が曲がっています。風が入りますから、きちんと留めてくださいと馬車の中でも申し上げました」


銀色の留め具が、斜めに食い違ったまま無理に押し込まれていたらしい。ミレーヌは手慣れた指先でそれを一度外し、布地を平らに撫でてから、小気味よい音を立てて正しく嵌め直した。


その一連の動作の滑らかさに、エレノアは目を見張った。


命じられたから動く従者のそれではなく、かといって遠慮がちに顔色を窺う令嬢の仕草でもない。衣服の乱れや隙間風、そこから入り込む寒気といった生活上の不都合を、見過ごすことができずに手が勝手に動いている――そんな種類の自然さだった。


「わかっている。うるさいな、ミレーヌ。いま挨拶の最中だろう」


テオドールは鬱陶しそうに身を引こうとしたが、払いのけはしなかった。文句を口にしながらも、留め具を直される間、大人しくされるがままになっている。


「挨拶をされるのでしたら、なおのことです。喉を痛めてからでは遅いのですから」


ミレーヌは淡々と言い返し、留め具が真っ直ぐになったことを確かめると、ようやく満足したように手を引いた。それからエレノアに向き直り、完璧な角度で礼を執った。


「ご挨拶が遅れましたこと、お許しください。北部侯爵家の娘、ミレーヌと申します。今回は両殿下に同行しております。公爵夫人、突然の大所帯での来訪にもかかわらず、細やかなお心遣いをいただき恐縮に存じます」


「ようこそおいでくださいました、ミレーヌ様。道中、大変だったでしょう。お部屋には体を温める薬湯も用意させてありますので、どうぞ気兼ねなくお使いになってください」


「薬湯まで……。ありがとうございます。手配の早さに感服いたしました」


ミレーヌの硬質な瞳に、わずかな安堵の色が差したのをエレノアは見逃さなかった。長旅の疲れや寒さの底で、彼女自身が何よりも必要としていたものを即座に理解されたという実感が、その横顔をわずかに和らげていた。


アルベールが順序と手続きを整え、テオドールが軽口で相手を測り、ミレーヌがその足元で生活の綻びを繕う。


三人が並び立つだけで、ヴェルノワ使節団というものの輪郭が、驚くほど鮮明に浮かび上がってくるようだった。


エレノアはヴィクトルと視線を交わし、客人たちを城内へと促した。


大広間の暖炉には太い薪がくべられ、パチパチと心地よい音を立てて燃え盛っていた。


旅装を解き、湯浴みと着替えを済ませた使節団を迎えて開かれた歓迎の晩餐は、豪奢さよりも温かさと滋養を重んじた北辺らしい献立で整えられていた。


蕪や塩漬け豚を香草とともに煮込んだ熱いスープ、秋に収穫して地下倉で追熟させた根菜の包み焼き、香ばしく炙った川魚の燻製、そして薄く切り分けられた野禽のロースト。どれも凍えた体を芯から温めるための料理だった。


上座の長机には、中央にヴィクトルとエレノアが並んで座り、その向かいにアルベール、テオドール、ミレーヌが席を占めていた。


「素晴らしいスープです、夫人。塩気と香草の加減が絶妙で、身体の強張りが解けていくようだ」


アルベールが銀の匙を置き、心からの賞賛を口にした。


「明朝から予定しておりますセルヴェ大橋に関する協議についても、このように滞りなく、互いの実情に即した実りある対話ができることを願っております。我がヴェルノワとしても、冬季における橋の安全な通行と、交易路の維持がいかに重要であるかは重々承知しておりますので」


公の場にふさわしい、隙のない言葉運びだった。協議の主題であるセルヴェ大橋の件に触れつつも、この歓迎の席を壊さない節度を保っている。


だが、その整った空気を乱すように、テオドールが葡萄酒のグラスを揺らしながら口を開いた。


「兄上はいつも話が堅い。公爵閣下、こうして拝見していると、この城の実権は奥方が握っておられるように見えますな。先ほどの中庭での手配といい、この料理の配分といい、無駄が一切ない。補給を任せるなら、下手な軍務官よりも夫人にお願いしたいくらいだ」


挑発とも、純粋な観察とも取れる言葉だった。テオドールの目は笑っていたが、その視線はヴィクトルの反応を逃すまいと注視している。


「北辺の冬を越すには、防衛と生活の双方が欠かせません。私は外を守り、妻は内を差配する。分担しているに過ぎない」


ヴィクトルは感情を交えずに低く返した。その手元は静かに肉を切り分けているが、グラスを持つ指にはわずかに力が入っている。


「へえ、分担、ですか。閣下のような猛将が、ずいぶんと素直に妻君の差配に従っていらっしゃる。王都の貴族たちが見たら目を丸くするでしょうね。それとも、奥方がそれほどまでに手放せないお方だということですか?」


「テオドール様」


冷ややかな声が、テオドールの軽口を遮った。


ミレーヌだった。彼女は自分の皿の料理を半分ほど片付けたところで手を止め、テオドールの手元を見つめていた。


「殿下、葡萄酒が進みすぎております。明日の朝は早いとお伺いしておりますが、また起きられなくなるおつもりですか。それに、香草のスープを冷めないうちに召し上がってください。先ほどから胃のあたりを押さえておいででしたでしょう」


淡々とした、だが一切の反論を許さない調子だった。


テオドールは気まずそうに眉を寄せ、グラスをテーブルに戻した。


「……別に押さえてなどいない」


「嘘をおっしゃらないでください。馬車の中でも二度、横腹を気にしておられました。冷えが入っているのです。匙をお取りください」


ミレーヌが皿を少しテオドールの方へ引き寄せる。テオドールは不承不承といった顔で匙を手に取り、スープを口に運んだ。文句を言いながらも、結局はミレーヌの指示に従っている。


その様子を、アルベールは深いため息とともに見守り、エレノアは静かに観察していた。


ただの軽薄な王子ではない。こちらの配分や城内の動きを測る目は恐ろしく確かだった。そしてミレーヌは、その軽口には取り合わず、押さえた横腹や盃の進み具合だけを見て自然に匙を取らせている。


そこに甘さや媚びのようなものは見当たらなかった。何年もの間、同じようにして積み重ねられてきた日常の呼吸だけが、二人の間に流れていた。


晩餐が滞りなく終わり、客人たちが案内された客室へと引き取った後、城内はようやく静けさを取り戻した。


二人の部屋に戻ると、エレノアは暖炉の前に歩み寄り、冷え始めた指先を火にかざした。心地よい疲労感が肩にのしかかってくる。


「無事に終わってよかったわ。アルベール殿下はとても誠実な方のようにお見受けしたけれど、弟君は……少し、気を抜けない方ね」


エレノアが振り返ると、ヴィクトルは上着のボタンを外し、重い足取りで長椅子へと腰を下ろしていた。その表情には、晩餐の席では見せなかった険しさが残っている。


「……テオドール殿下のことだ」


ヴィクトルの声は低く、どこか固かった。


「あの男は、人を試すような目をする。言葉の端々に罠を仕掛けて、こちらの出方を窺っている。軍人としての勘も悪くないはずだ。だからこそ余計に厄介だ」


「ええ。挑発に乗せられないよう、気をつける必要があるわね」


エレノアが頷くと、ヴィクトルは視線を上げ、じっとエレノアの顔を見つめた。その瞳に宿る光は、単なる警戒心だけではないように見えた。


「エレノア」


呼ばれて、エレノアは小さく首を傾げる。


ヴィクトルはわずかに口ごもり、何かを言い淀むように視線を暖炉の炎へと落とした。だが、すぐに決意したように再びエレノアを見た。


「滞在中、あの男と二人きりになるのは避けてほしい」


その言葉に、エレノアはわずかに目を見張った。


「ヴィクトル?」


「……城内には常に護衛や侍女がいることは分かっている。だが、あいつはお前を見ていた。お前がこの城でどういう位置にいて、俺がお前をどう見ているかを、探るような目で見ていた」


ヴィクトルの言葉は論理的な説明の形を取ろうとしていたが、その奥底にある感情――エレノアを他人の無遠慮な視線から遠ざけたい、守りたいという、焦燥に近い感情をエレノアは敏感に感じ取っていた。それは彼が危機に直面したときに、真っ先にエレノアを安全な後方へと押し込めようとする、あの癖と同根のものだった。


エレノアは暖炉の前から歩み寄り、ヴィクトルの座る長椅子のすぐそばに立った。


「ヴィクトル。殿下が何を試そうとしておられるにせよ、私はこの城の女主人です。明朝からの協議でも、救護所や備蓄の確認など、私が直接応対しなければならない場面は出てきます」


「それは……分かっている。仕事から手を引けと言っているわけではない」


ヴィクトルは苦々しそうに眉間を揉んだ。


「ただ、あいつの軽口にいちいち付き合う必要はないということだ。俺の目が届かないところで、あいつとお前が言葉を交わすのを……あまり見たくない」


最後の一言は、軍事的な懸念というよりも、不器用な男が絞り出した本音のように聞こえた。


エレノアはため息をつく代わりに、ヴィクトルの強張った肩にそっと手を置いた。


「わかりました。無暗に一人で近づくような真似はしません。必ず人を伴います」


「エレノア」


「でも、避けすぎて仕事に支障が出るようなことはしませんよ。私も、この城を守る一人なのですから」


完全な同意でも、頑なな拒絶でもないエレノアの言葉に、ヴィクトルは息を吐き出し、苦い笑みをかすかに浮かべた。


「……ああ。お前は、そういう女だったな」


完全に納得したわけではない低い声だった。それでもそれ以上は押し問答を重ねず、ヴィクトルはエレノアの手の上に自分の大きな手を重ねた。指先の冷たさを確かめるように包み込んだが、その瞳の奥には、まだ硬い警戒の色が残っていた。


窓の外では、夜の深まりとともに風が音を立てて吹き荒れていた。明朝から始まるセルヴェ大橋をめぐる協議が、決して平坦なものにはならないことを予感させながら、北辺の長い夜が更けていった。

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