第一話 ”ある”
その日、王都ルクスは、まだ何も失っていない朝の顔をしていた。
東から昇る陽が白壁を照らし、運河の水面を淡く揺らす。焼きたての薄パンの匂いが通りに広がり、果物商の声が人の流れに混ざる。教会の鐘が高く澄んだ音を空へ押し上げていた。
どこにでもある、穏やかな朝だった。
――少なくとも、見た目は。
だが今日に限って、その平穏はどこか張りつめている。
誰もが静まり返っているわけではない。笑い声もあるし、祝祭めいた熱もある。なのに視線だけが揃っていた。
王都北端、段丘の上に築かれた聖枝神殿へ。
白い。
ただ白いのではない。
削られた白だった。
余分なものをすべて削ぎ落とし、必要な形だけを残したような、硬質な白。
その場所を、人は“正しさに最も近い場所”と呼ぶ。
(救済、か)
アルトは喉の奥でその言葉を転がす。
残るものが正しく、落ちるものにも意味がある。
そう教えられてきた。
だが、その言葉はどうにも引っかかる。
優しいはずなのに、どこか――
(諦めに聞こえる)
「おい」
肘で小突かれ、アルトは顔を上げた。
隣でガルドが人の流れを見ている。
「今日はお前の日だぞ。もっとそれっぽい顔しろ」
「それっぽいって何だよ」
「勇者候補らしい顔だ」
「無茶言うな」
言いながら、アルトは自分の手を見た。
何もない。
傷も、印も、特別な何かも。
(なんで俺なんだ)
召集されて三日。
勇者候補は四人。
そのうち一人だけが勇者になる。
そう説明された。
だが理由は分からない。
血筋でも、実力でもない。
“適合”による選定。
そんな曖昧なものを、信じろと言われている。
(適合って何だよ)
指先を握る。
感覚は普通だ。
何も変わらない。
それなのに――
(選ばれたら、戻れない)
その実感だけは、妙に鮮明だった。
「逃げるか?」
ガルドが言う。
「今さらか」
「今だからだろ」
軽口のようで、目は本気だ。
こいつは本当に逃げる算段まで考えている。
「逃げたらどうなる」
「追われる」
「だろうな」
「捕まる」
「だろうな」
「連れ戻される」
「それもだろうな」
ガルドは鼻で笑った。
「だったら腹括れ」
単純だ。
単純すぎて、少しだけ羨ましい。
アルトには、そう思えなかった。
選ばれるかどうかじゃない。
それ以前に――
(何かが、合ってない)
理由はない。
だが確信だけがある。
ずっと前から。
言葉にできない違和感が、意識の奥に引っかかっている。
「始まるぞ」
ガルドが顎で示す。
石段の上から、侍者たちが降りてくる。
その先頭に立つ男を見て、アルトはわずかに息を止めた。
レオンハルト・ヴァルセイン。
噂以上だった。
整った顔立ちよりも、隙のなさが目を引く。
立ち方も、歩き方も、視線も。
すべてが“正しい”。
人間というより、正しさそのものを形にしたような存在感だった。
「これより選定の間へご案内します」
無駄のない声。
「記録上、候補者は四名。齟齬はありません」
その言葉に、アルトは眉を寄せる。
(齟齬はない……?)
確認のはずの言葉が、妙に引っかかる。
何に対しての否定なのか。
分からない。
だが――
(先に潰してるみたいだな)
候補者は四人。
分かっている。
それなのに。
なぜか数え直したくなる。
一、二、三――
(……違う)
そこで止めた。
理由はない。
だが、続けてはいけない気がした。
石段を上る。
一歩ごとに、街の音が遠ざかる。
鐘の音だけが残る。
聖灯火が並び、揺れない炎が道を照らす。
香の匂いがする。
冷たい。
肺の奥まで静かに入ってくる匂い。
アルトは振り返る。
王都が見える。
広い。
遠い。
それなのに。
(遠すぎる)
現実感が薄い。
手を伸ばしても届かないような距離感。
(……今日から変わる)
勇者になるかもしれない。
戻れなくなる。
それは分かる。
だが、それとは別に。
(何かを失う)
まだ始まっていないのに。
その予感だけが、はっきりしている。
門の前に、一人の少女が立っていた。
最初、像かと思った。
動かない。
風の中にいるはずなのに、そこだけ時間が止まっているように見える。
白い衣。
淡い光を受ける髪。
そして――静けさ。
人の気配より先に、それが目に入る。
「聖女リゼリア様」
侍者の声。
アルトは息を吐く。
(これが……)
噂は聞いていた。
だが、目の前の存在はそれと一致しない。
神聖というより――
(危うい)
彼女が顔を上げる。
視線が合う。
その瞬間、アルトは確信した。
(……おかしい)
綺麗だと思うより先に。
違和感が来た。
見ている。
確かに見ている。
だが。
わずかにズレている。
焦点ではない。
“存在”の位置が、ほんの少しだけ。
「あなたがたが候補者なのですね」
静かな声。
だがどこか、選び直したような響き。
レオンハルトが答える。
「記録上、四名。齟齬はありません」
まただ。
リゼリアは一拍置いて頷く。
「問題ありません」
遅い。
ほんのわずかに。
アルトは見逃さない。
「あなたは――」
リゼリアが言いかけて、止まる。
空白。
言葉が抜け落ちたような間。
「……候補者の一人ですね」
言い直す。
アルトは名乗る。
「アルトです」
「私はリゼリアです」
その言い方は、奇妙だった。
確認するような響き。
「よろしくお願いします」
普通の言葉。
だが。
アルトは返事を一瞬忘れた。
(……初めてか?)
そんなはずはない。
だが。
知っている気がした。
理由はない。
でも確かに。
白銀の扉が開く。
回廊へ入る。
足音が響く。
ひとつ。
ふたつ。
みっつ。
よっつ。
――もうひとつ。
アルトは足を止めかける。
(今、五つ)
振り返らない。
振り返れば消える気がした。
前を見る。
リゼリアの背中。
光の中で、わずかに輪郭が揺れる。
(……いる)
確信だけが残る。
回廊の先。
選定の間。
広間に入る。
光が落ちる。
円環紋。
石の席。
――五つ目。
一瞬だけ見えた。
そこに“何か”がいた。
次の瞬間。
消える。
音が消える。
世界が止まる。
――不整合を確認。
意味が流れ込む。
――修正を実行。
戻る。
席は四つ。
最初からそうだったかのように。
レオンハルトが言う。
「齟齬はありません」
アルトは息を飲む。
(今、確かにいた)
誰も気づかない。
ガルドも。
他の候補も。
だが。
リゼリアだけが。
ほんのわずかに、目を見開いていた。
同じものを見た。
そう確信できる揺れだった。
アルトは呟く。
「……違う」
その瞬間。
世界にひびが入る。
黒い線。
一瞬。
そして消える。
――修正。
アルトは確信する。
この世界では。
何かが消える。
壊れるのではない。
死ぬのでもない。
最初からなかったことにされる。
そして。
それを見ているのは――
自分と、この少女だけだ。




