12話(後編)竜を縛る枷(後編)
5日目に入った。たぶん、5日目だ。あくまでカインの感覚である。
それはいきなり来た。
文字から、声がした。
声、というより、意識、という方が正確かもしれない。頭の中で何かが繋がる感触。言語化できない感覚が、ほんの一瞬だけ流れ込んできて、それと共に、文字の意味が「わかった」。 じわじわと、少しずつ。亀裂から水が滲み出るように。
古書は、桃源郷の話を書いていた。
かつて存在したという、争いのない楽園。誰も老いず、誰も飢えず、誰も孤独でない場所。本当にそんなところがあったとしたら、それは歴史的な大発見だ。だが今の自分には、そんなことを喜ぶ余裕がない。
問題は、これが結界解除の鍵になるのか、だった。
改めて石碑の前に立つ。
今度は、文字が答えた。
――しばらくの時が流れた。
感覚としては、本の解読から更に5日ほどだろうか。そう思わせるほどの時間、石碑と向き合っていた。
成果はあった。石碑の文字は、もらさず全て読める。古書に散りばめられていた謎も解明した。そこにあったロジックも、パズルの断片も、統合すれば1つの手順を示していた。結界の構造を理解し、解除の道筋を辿り、必要な手順をひとつひとつ踏んでいく。
これが、他の翻訳士にできただろうか。否、カインが客観的に評価しても、おそらく自分にしか出来なかったと自負した。
だが、肝心の結界は、まだ解けない。最後の一ピースが、埋まらないのだ。
何度試みても、そこだけが空白のまま残った。石碑の文字は、確かに存在する最後の条件を示しているのに、それが何なのかが、朦朧とした頭では上手く掴めない。
睡眠をまともに取っていない。食事は一切していない。体の芯から冷え込んで、現実と夢の境界線が、溶けて混ざり始めていた。
「カイン」
「……はい」
「お主、起きとるのか?」
「……たぶん」
夢の隙間から、現実を覗き、カインは弱弱しい声で応えた。
「自信を持って答えよ」
「はい、起きてますよ」
少し間があった。
「……そう見えんのだが。解読は進んでおるのか? ん?」
「ネロ、うるさい」
その言葉で、会話が止まった。
カイン自身が、一番驚いていた。一気に現実へと引き戻された感覚があった。口が動いた後で、何を言ったのか気づいた。疲弊しきった心の隙間から、言葉が勝手に転がり出ていた。
「……今、何と言った」
「うるさい……と言いました」
訂正はしなかった。不思議と、する気にならなかった。
「お主、我に向かってうるさいと申したか」
「申しました」
「……ほう」
ネロの声に、怒りはなかった。どちらかと言えば、面白味を感じている声色だった。それがまた癇に障って、カインは石碑から顔も上げずに続けた。
「この一週間、ろくに寝てもいないし食べてもいない。最後の一ピースが何なのか分からなくて、何をしても分からなくて、正直頭がどうにかなりそうだ。弱音だって分かってる。でも今は我慢できないから聞き流してくれ」
「……」
「それに」
言うつもりはなかったのに、口が続いた。
「ずっと思ってたけど、いちいちヒト族の底辺だの、脳みそも底辺だの言うな。腹が立つ」
静寂。
長い、静寂。
カインはようやく顔を上げた。怒らせたかと思った。だが、ネロの金色の瞳に、怒りの色な無かった。
「……ふむ」
ネロはゆっくりと鼻から息を吐いた。
「腹が立つ、か」
「立つ」
「では、なぜ今まで言わなかった」
カインは少し考えた。
「立場が弱かったから」
「今は違うのか」
「今も弱い。でも、どうでもよくなってきた」
また沈黙。
今度は短かった。
「……なかなか、気持ちの良い言い返し方だったぞ」
ネロが低く唸った。
「最初からそうしていれば良かったものを」
「最初からそんな余裕はなかった」
「今はあるのか」
「ない。でも、もう取り繕う体力もない」
そう言い切った瞬間、カインの肩から何かが抜けた。力ではなく、緊張の膜のようなもの。ずっと貼り付けていた何かが、剥がれ落ちた。
ネロは笑った。
低く、腹に響くような音で。洞窟の岩が微かに震えた。
「良い。それで良い」
ネロは言った。
「我に遠慮するな。お主が腹を割って話さん限り、我もお主のことが分からん」
「……竜が、そういうことを言うんですね」
「言うわ。千年、誰とも喋っておらんのだぞ。話し相手ができたなら、腹を見せて話してほしいに決まっておる」
カインは黙った。
千年。その長さを、本当の意味では想像できない。だが、その言葉の重さは、疲れ切った体にも、ちゃんと届いた。
そして、頭の中で何かが繋がった。
静かに。
当たり前のことのように。
石碑の、最後の一行が、意味を開いた。
結界解除の最後の鍵は、対話だった。
一人ではない、他者との言葉の交換。互いが互いに向かって声を発し、それが響き合う瞬間。腹を見せた声。声という「音」に対しての無意味な条件反射ではなく、本音――心のぶつかり合い。
この封印空間には、千年の間、ネロ以外の誰も存在しなかった。どれほど知識があっても、どれほど力があっても、一人では絶対に解除できない仕組みが、最初から組み込まれていた。
誰が、こんなものを設計したのか。
そもそも何故、封印解除の条件を記したのか。
解除はとてつもなく困難だ。だが、ゼロではない。
現に、カインはこの困難な封印を翻訳し、解読し、解除してみせた。
誰かに、封印を解いてもらいたかった……?
だが、今考えをめぐらせたところで、答えなどでるはずがなかった。
カインは石碑に手を置いた。
文字の輪郭が光を纏い始める。岩壁を這う幾何学模様が一斉に震えた。洞窟全体が低い音を発し、空気が張り詰める。魔力の鎖が、ゆっくりと、ほどけていく。
光が、溢れた。
そして全てが静寂に戻った時、ネロは立っていた。今まで翼を畳んで横たわっていた体が、天井まで届きそうな高さで、真っ直ぐに伸びている。漆黒の鱗が薄明かりの中で静かに輝いていた。
「カインよ」
声が違った。今まで聞いたことのない、低く、穏やかな声だった。
「……お主には、心から感謝する。我が恩人であり、生涯の友よ」
カインは、しばらく黙っていた。
生涯の友、という言葉が、頭の中で予想外の場所に落ちて、そこから動かなかった。
「いや、俺もお前に出会えて良かったよ」
ようやく、口が動いた。
「今は、友と呼べるものなんていないしね」
自嘲のつもりだった。だが、声に笑いは混ざらなかった。
――友。
その言葉が引っ張り出したのは、ずっと押し込んでいた顔たちだった。
エリス。村にいた頃、いつも少し心配そうな顔で隣にいてくれた女の子。
今頃どうしているだろう。一緒に冒険をしたいと言っていた。彼女自身は冒険者になれたのだろうか。もし、なっているなら、ケガをしてはいないどうか。命を大事にしているだろうか、それだけが純粋に心配だった。
ジャッジ。彼への心配は無用かもしれない。冷静であり、信頼できる兄貴分。彼は、村長として辺境の村に何かをもたらそうと頑張っているはずだ。あいつなら、できる。
そして、ジルとバンズ。
幼い頃、ジルとよく悪さをして、大人に怒られた。バンズはいつも少し遅れて後ろを走っていた。あの頃の笑い声を、カインは確かに覚えている。
なのに。
今のふたりがカインに向けるのは、悪意だ。純粋で、澱みのない、ただの悪意だ。少なくとも、カインはそう思わざるを得なかった。
あの頃の欠片はどこへいったのだろう。残っていないのか、埋まってしまっただけなのか、カインには分からない。
ネロが、静かにカインを見下ろしている。
でかい体の、金色の瞳が。
遠慮なく、ただまっすぐに、カインを見ていた。計算もなく、悪意もなく。千年を生きた竜が、疲弊しきった少年に向ける目。
さっき言い合いをした相手の目が、こんなに穏やかなのが、少し可笑しかった。
腹が立つ、と言った。うるさい、と言った。それでもこの竜は、怒らなかった。笑って、腹を見せて話せと言った。
それだけのことが、滲みた。
カインは目を細めて奥歯を噛む。こんなところで泣くな。ネロに何を言われるか分からない。
そう思ったのに、口元が勝手に緩んだ。
「これで、外の世界に出られるな」
今度は敬語じゃなかった。自分でも気づかなかった。
「まず飯だ」
ネロが言った。
「そうだな」
カインは答えた。
洞窟の外へ続く、暗い通路の向こうで、かすかに光が揺れている気がした。




