第89話 「断崖にて、怒りは燃え尽きる」
――胸の奥が焼ける。
リアンは息を呑んだ。流れ込む記憶の奔流の中で、ひときわ濃く、鋭い感情が全身を締めつけていた。
それは、怒り。
裏切られた者だけが抱くことを許される、果てしない憎悪。
断崖下へ突き落とされた男の絶叫が鼓膜を裂き、まるで自分の喉から迸ったかのように錯覚させる。
(……違う……これは、俺の感情じゃない……! なのに……どうして……!)
視界が塗り替えられる。血に濡れた岩場、黒い影を落とす深淵。
炎の残滓が揺れ、赤い光が谷を染めた。そこに立っていたのは――かつて“英雄”と呼ばれた男。
折れかけた剣を両手で握り、血と汗に濡れた顔で、目の前の竜を睨み据える。
竜は片翼を失い、鱗の隙間から血を滴らせていた。だがその眼光はなお獣の威を宿し、牙を剥いて息を灼く。
咆哮が轟くたび、岩壁が震え、断崖下は血と硝煙の匂いに満たされた。
だが――男を支配していたのは恐怖ではない。
怒り。憎悪。裏切りへの報復を求める、狂おしい渇望だけ。
「竜を殺して……谷を上がって……」
掠れた声が震え、やがて低く嗤いに変わる。
「……あいつらは、皆殺しだ」
リアンの心臓が跳ねた。
脈打つたび赤黒い熱が血管を駆け巡り、怒りが自分の血を通じて燃え広がる。
英雄の憎悪が境界を失い、リアン自身の感情と溶け合っていく――。
――ガアアア!
竜の咆哮が谷を震わせた。
炎混じりの息が吐き出され、岩肌を灼き、焦げた空気が重く淀む。焦げた肉の匂いが鼻を突き、皮膚が焼ける。
英雄は裂けた翼で地に縫い止められた巨体を睨み、折れかけの剣を構え直す。
握りは血に濡れ、指が震えていた。疲労ではない――怒りだ。
「……裏切りやがって」
掠れた声が低く谷に響き、反響が折り重なる。
――ドゴォン!
竜の爪が大地を抉り、岩盤が裂ける。岩片が雨のように降り注ぐ。
英雄は身を捻り、刃を差し込み、軌道を逸らす。衝撃が骨を砕くように腕を駆け抜ける――それでも剣先は下がらない。
怒りの奔流が、リアンの胸を叩きつけた。
【俺が……全部、与えた。なのに――裏切るのか】
(……違う、これは“俺”じゃない。飲まれるな)
――ギィン! バキッ!
爪と折れかけの剣が幾度も噛み合い、火花と血が飛ぶ。
英雄は亀裂だらけの岩場を踏み砕き、渾身で斬り上げた。
剣先が分厚い鱗を割り、竜血が噴き出す。熱い飛沫が頬に降り、皮膚を焼いた。それでも――さらに踏み込む。
「あいつら!誰の金で――誰の力で、生きてきたッ!?」
怒声が咆哮に食らいつき、谷に反響する。
言葉は鎖のように重く、リアンの胸板を軋ませた。
(そうだ……! 全部、俺のおかげじゃないか! なのに……どうして……!)
――ドゴォン!
尾が薙ぎ払い、岩場が砕け飛ぶ。
英雄は剣を突き立てて受け止める。足場が割れ、肩が軋み、骨が悲鳴を上げる。
それでも――膝は落ちない。
血に濡れた顔で、なお笑う。怒りを力に変え、裂けた肉体を押し立てて、再び跳ぶ。
「裏切り者は、全部――焼き払ってやる……!」
「竜も、仲間も……誰一人、残さねぇ!」
憎悪は境をなくし、リアンの胸をも焼き尽くすように広がる。
――ガアアア!
爪が岩壁を抉り、巨岩が雨のように落ちる。粉塵と血の匂いが混ざり、吸うだけで肺が焼ける。
英雄は只中で剣を振り抜いた。
火花と共に爪撃をいなし、割れた岩面を蹴って懐へ滑り込む。折れかけの刃が鱗を削り、赤黒い血が噴き上がる。
熱風が肌を舐め焼く――退かない。
「……俺がいたからだ! 腹いっぱい食えて……女を抱いて、眠れた!」
「それを裏切りやがって!!皆殺しだー!」
リアンの胸に、鋭い痛みのような感情が突き刺さる。
(俺が……俺が全部……与えてやったのに! どうして――裏切れる!?)
境界は溶け、憎悪が右手へと流れ込む。紋章が熱を帯び、脈打つたび指先が痺れる。
――ドゴォン!
尾が叩きつけ、断崖下が揺れる。岩壁が崩れ、瓦礫が雪崩のように押し寄せる。
英雄は血を吐きながら剣を突き立て、尾を弾き返す。膝が落ち、口端から血が伝う。
それでも――笑った。
怒りと歓喜が溶けた、獣じみた笑み。
「俺を裏切った報いだ……!」
「竜も……仲間も……全部叩き潰してやる……!」
刃に憎悪が乗る。
爪を弾き、返しで鱗を裂く。血と火花が交じり、谷底は地獄の色に染まる。
リアンの鼓動が速まる。胸が焼けるように痛い。
怒りが、憎しみが、内側で膨れ――
(……俺も……! 俺も憎い……! 裏切られるなんて――!)
心が呑み込まれる。
境目が消え、今にも剣を握って斬りかかりそうになる――。
――ガアアア!
竜が炎を吐く。空気が振動し、岩肌が紅に染まる。焦げと血の匂いが鼻腔を刺す。岩片が弾け、砂塵が視界を裂く。
英雄は血に濡れた剣を握り、やっとの力で一閃を返す。
鱗が砕け、血潮が土を赤く染める。地鳴りの咆哮が鼓膜を破りかける――だが男の瞳は揺れない。
そこにあるのは、焦がれる憎悪と氷の怒り。
「裏切り者どもが……!」
「俺が稼いでやった金で、いい暮らしをしていたくせに!」
掠れた罵声が谷に反響し、その軌跡ごとリアンの胸奥へ流れ込む。
言葉は刃の熱を帯び、血の匂いと混じって感覚を侵す。
――境界が、溶けていく。
(そうだ……俺が、全部与えてきたんだ……! なのに、どうして――)
思考が重なる。心臓が焼ける。紋章の温度が跳ね上がり、指先まで脈打つ。
――ボウッ!
再び炎。轟音と灼熱。だが男は笑う。
憎悪が駆り、怒りが刃を更に深く落とさせる。
(……俺も同じだ……! 裏切りは――許さない。壊す……全部!)
呼吸が浅く速い。胸奥で何かがせり上がり、拳が勝手に硬くなる。
復讐だけが鼓動を支配し――。
「リアンッ!!」
鋭い声が、血の赤を裂いた。
サラの声。刃のようにまっすぐ、熱の中心を貫く。
「戻ってこい! それはお前の感情じゃない!」
「境界を保て、導き手!」
息を呑む。赤と黒の間に、微かな光が差し込む。
崩れかけた輪郭が、もう一度かたちを取り戻す。
(……俺は……導き手だ……! 憎しみじゃない……魂を還すために……!)
リアンは奥歯を噛み、呼吸を整える。
紋章の光を静かに沈める。視界の縁で燃える残滓と舞う鱗がきらめいた。
今、胸に灯るのは怒りではない。冷徹な決意だ。
(導く……ここから、必ず)
――ズブリ。
竜が呻く。英雄の剣が、胸元へ深く突き立った。
硬い鱗が裂け、刃が肉を貫く。竜が絶叫し、黒い血を吐き散らす。熱い飛沫が英雄の頬を焼く――怯まない。
口元に、勝利の笑みが浮かぶ。
「……これで終わりだ」
――しかし、油断は一瞬。
巨体がのけぞる。血に濡れた顎が軋み、牙が走る――一直線に、男の頭へ。
影が瞳に落ちた。反射で肩が動く――間に合わない。
男は、この世界に呪いの言葉を吐き捨てる。
「……結局、この世界が、悪いんだ。」
刹那、走馬灯が弾ける。
煤けた小さな家。痩せ細った母の手。
最後に浮かぶのは――あの日と変わらない、母の微笑。
「……お母さん」
掠れた呼びかけ。
次の瞬間、牙が落ちた。
――バキン。
骨の砕ける音が谷に響き、男の頭が無惨に引きちぎられた。
強く刃を握っていた両腕から、力が抜ける。
身体はゆっくりと崩れ落ち、赤黒い血の池に沈んでいく。
竜もまた、最後の抵抗で命を燃やし尽くしていた。
咆哮をひとつだけ残し、巨体は地を揺らして崩れ、荒い息を漏らして――動かなくなる。
谷底に残されたのは、濃い血の匂いと立ち昇る煙、そして重く沈む静寂だけ。
リアンは拳を握りしめ、そっと目を閉じた。
(……ここからだ。怒りの果てじゃない――還すために)
短く息を整え、胸の灯を静かに保つ。
音の消えた谷に、導き手の決意だけが、残った。




